2016-05-01(Sun)

旧約聖書と神の言葉 2016年5月1日の礼拝メッセージ

旧約聖書と神の言葉
中山弘隆牧師

 主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。
エレミヤ書20章7~9節


 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
ヨハネによる福音書5章31~47節


(1)イスラエルを選ばれた神の目的
 聖書の信仰は神が人類の歴史を支配しておられることを信じることから始まっています。そして聖書の信仰の基礎となった出来事は、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から神により解放されたことです。
 テオドール・ロビンソンという旧約学者は、イスラエルが出エジプトという歴史的な大事業を成し遂げることできたのは、モーセが神の言葉に聞き従ったからである、と言っています。しかし、出エジプト記と民数記に書いてありますように、その過程では信仰と不信仰との激しい戦いがあり、その一連の出来事を通して神が働き、勝利を収められました。その結果、政治形態と宗教の方面から見て、イスラエル社会は古代の諸民族社会とは異なる特殊な性格を持つようになった、と言われています。
 次に、歴史の支配者である神は、イスラエルが神の御心に従って生きるために、律法を与えられました。モーセは申命記5章32節で、「あなたたちは、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。…そうすれば、あなたたちは命と幸いとを得ることができる」と教えています。
 ここで神の命令を要約しますと、二つの事柄になります。第一は唯一の神を礼拝し、人は神にのみ依存し、神にのみ祈り求め、同時に、神の意志に従うことであります。第二は、人がお互いに愛し合うことであり、そして愛とは何かを教えています。それは親を敬い、隣人を人格として尊重し、善意と謙遜をもって接し、社会的な正義を行い、貪欲と悪を捨てさり、自分の身体を汚さない清い公明な生活をするということです。
    
(2)歴史の中で露わにされた人間の内面
 次に、神の与えられた律法によって、イスラエルの民は、命と幸いを実際に得ることができたのでしょうか。確かに、一部分の人たちはある程度できたのでありますが、多くの人々は不可能でした。しかし、神はイスラエルの中で誰一人として律法を忠実に守っていないと告発し、民の罪に対して歴史的審判を降そうとしておられたのです。
 旧約聖書の預言者たちは、選民としてのイスラエルの責任を厳しく追求しました。特にエレミヤは神から万国の預言者として召されました。神ご自身がエレミヤにそのように仰せになっています。
 「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』(エレミヤ::4~5)
 それゆえ預言者エレミヤは神に従わないイスラエル国家の滅亡を預言し、そして同時その滅亡を回避するため悔い改めを熱心に勧めました。このとき、イスラエルはバビロニア帝国によって正に征服されようとしている最大の危機と苦難との中にあったのです。
なぜならば、聖書の神は信仰者一人一人の恵み深い支配者であると同時に、諸国家そして全世界の恵み深い唯一の支配者であるからです。実に聖書において、神は万国の民の主権者であることをエレミヤに示されました。
 しかしイスラエルの民は安易な平安を語る偽預言者の言葉を信頼し、神の審判を語るエレミヤを国家の敵と見なし、エレミヤを殺害しようとしました。民はそのように真実な悔い改めをしませんでした。否、為しえなかったのです。それにも拘わらず、エレミヤはイスラエルの民を愛し、彼らの罪がもたらす悲惨な現状を見て、断腸の思いで神に執り成しの祈りをしていたのです。そのような孤独な戦いの中で、エレミヤは神の言葉と取り組みました。
 預言者として神とイスラエルの板挟みになったエレミヤは苦しい自分の立場を記録しています。それが20章8~9節です。
  「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じこめられて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」
 このような預言者としての厳しい戦いの中で、エレミヤは自分自身もイスラエルの民と同様に罪人であることを深く知るようになったのです。遂に、エレミヤは絶望的叫びを上げています。
 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(17:9)。
 しかし、誠に不思議なことですがエレミヤは自分自身の暗黒の渕を覗き込んだとき、神の救いの言葉を聞いたのです。それは終末的な救いでした。言い換えれば人間を根本から新しくする神の救いです。それは恵み深い神の主権による救いです。
 その救いによるイスラエルと神との新しい関係をエレミヤは「新しい契約」と呼んでいます。エレミヤ書31章33節の有名な言葉です。
 「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
 これはどういう意味でありましょうか。今までイスラエルの民は律法を文字として知っていただけ、実は本当の意味が分からなかったので、それを実行することができませんでした。しかし神が一度人の心の中に律法を記されるならば、人は律法の意味を理解し、従って実行することができると言う意味です。これは神様ご自身が人間の心の中に働かれると言う人智を超えた大きな恵みです。言い換えれば、神様は人間の心の中に神の聖霊を与えられると言うことです。そして聖霊の働きによって、人は律法を理解し、それを実行するのです。
 これは正に人間の存在と行動の全体が神ご自身の働きにより、根本的に変革され、創造されて、全く新しい人間となるということです。ところで、この新しい人間の創造こそ、神が御子キリストによって達成されるのです。そういう意味で、新しい契約の預言はキリストの到来を約束しています。
 確かに、キリストの到来の約束はアブラハムの時代から与えられていましたが、その必要性を内面的に捉え、信仰者の存在の問題として理解したのは、エレミヤであります。イスラエルの民の不信仰との戦いの中で、否エレミヤ自身の内面的な戦いの中で、人間は根本的に新しくされ、神を理解し、神に従う人間となることの必要性を知りました。そういう意味で、エレミヤの新しい契約の預言は、人間を罪の束縛から解放するキリストの救いの預言となっています。
 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」(31:31~32)
 それでは神様はどうして古い契約を更新し、新しい契約を設立されねばならなかったのでしょうか。その理由は古い契約は神様が歴史の支配者としてイスラエルの民をエジプトの王ファラオの圧制から解放して、イスラエルの民に独立した国家を与えられたことです。しかしそれによってイスラエルの問題は解決されませんでした。
 それゆえ、民が神の律法を実行するために、人間を束縛している人間の罪から、民を解放する必要があったのです。正にそのため神の御子の死による人類の罪の贖いが必要なのです。この点で、主イエスによる罪の贖いによって設立さる新しい契約こそ、実にキリスト到来の預言なのです。
 他方、神様がエレミヤを通して預言された新しい契約は、古い契約の成就です。なぜなら、古い契約の当初の目的を実現するため、新しい契約を神様は御子キリストを通して設立されたからです。

(3)キリスト証言としての旧約聖書
 次に、このような旧約聖書における神の言葉を総括して、ヨハネによる福音書5章39節で、主イエス・キリストは次のように仰せられました。
 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」
 主イエスはここで、「旧約聖書の中に永遠の命がある」と言うユダヤ教の考え方は間違っている、と言われました。
 そして「旧約聖書はあくまでわたしについて証しするものだ」と仰せになりました。つまりこれは旧約聖書において神が約束された永遠の命は「わたし」を通して与えられると仰せになっているのです。
 さらに主イエスがここで仰せになった意義は、旧約聖書に記録されている神の言葉は「主イエス」を通して、本当の意味で「生ける神の言葉」となるのだ、という主イエスの宣言にあります。
 それゆえ、主イエスは旧約聖書の律法を神の言葉として具体的に説明しておられます。マタイによる福音書の5章に記されている山上の説教の中で、「人を殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、貪ってはならない。」と言う律法は、外面的な行為そのものだけでなく、人間の内面も問題にしている。なぜならば、神は人間の外と内の両方を見ておられる方であるから、神の命令はわたしたちの存在全体に関わっている、と仰せになりました。そして外面的な行為だけでなく、行為に至る前段階の心の中に潜んでいる意図と計画を見ておられる神様の前で、自分の思いが正されなければならないとして、心の中の思いを重要視されました。
 それに対して、律法学者たちはユダヤ教の長い伝統の中で、旧約聖書の中にある613個の律法は外面に現れた行為それ自体を重要視していると主張し、心の思いを何ら問題として取り上げませんでした。
 ところで、主イエスは人間の外面行動と内面の思いの全体を重要視する神の律法を教えられただけでなく、ご自身で完全に実行された方です。それゆえに、わたしたちは主イエスの教えを学ぶだけでなく、教えを実行された主イエスと出会い、主イエスに従う生活の中で、主イエスを直視することによって、律法の本当の意味が分かるのです。
 尚、わたしたちは主イエスと出会うとき、主イエスは聖霊をわたしたちに与えて下さり、聖霊を通して、ご自身の命と自由を与えて下さいます。そのようにして、わたしたちは律法を実行することができるのです。
 これはユダヤ教徒のように律法を実行することによって、神の救いを獲得しようと言う思いを一切排除し、ただ神の恵みに感謝して、自ら進んで、喜んで律法を実行するようになります。この点が主イエスによってクリスチャンに与えられた自由なのです。
 もう一つ重要な点は、主イエスの到来によって、特に主イエスの十字架の死と復活によって、主イエスを信じる者は真の神を礼拝することができるということです。神に近づく自由が与えられたのです。
 旧約聖書での礼拝の中心は礼拝に関する様々な律法によって、大祭司が年に一度、イスラエルの民の罪が赦されるために、神殿の一番奥の至聖所に入り、動物の犠牲の血を、「贖罪所」と呼ばれている「契約の箱の金の蓋」に、その血を注ぐことでした。そのようにして神に対する礼拝が行われていました。しかし、それによっては人間の罪は赦されなかったのです。なぜなら、動物の犠牲の血は、人間の心を清めるためではなく、儀式的な律法に違反したとき、体が汚れるので、汚れた体を清めるための礼拝であったからです。
 実に、新約聖書の時代では、主イエス・キリストを通して、生ける父なる神の御前に出て、礼拝することが可能となりました。主イエスを信じて、主イエスに祈り、主イエスの十字架の死による贖いに基づく罪の赦しと主イエスの義を与えられ、生ける神の御前に立ち、主イエスを通してご自身を現わされる父なる神を礼拝するのです。礼拝において、主イエスとの交わりが与えられ、主イエスの御言葉と人格、思い、行動、性質を知らされて、同時に主イエスの命と自由が与えられ、主イエスの命令を聞き、そこから命令を実行するため生活の場に送り出されて、そこで主イエスに従うのです。このようにして信仰者は神の御前に生きることができます。
 また礼拝は決して個人の生活だけでなく、礼拝は信仰共同体としての教会を形成する霊的生命の永遠に湧き出る泉なのです。

(4)世界に対する神の主権の確立
 最後に重要な点は、旧約聖書における神の主権は、イスラエル国家だけでなく、万国と全世界の歴史を支配する働きをしていました。
 この点でも、新しい契約の時代に、国家や世界に対する神の主権は主イエス・キリストによって行われています。
 
主イエスの支配は人類の罪を贖うことによって、人類の歴史を支配しています。主イエスは信仰共同体である教会とすべての人間の共同体である国家に対して、神の言葉の主権を行使しておられるのです。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR