2016-04-17(Sun)

わたしの軛は軽い 2016年4月17日の礼拝メッセージ

わたしの軛は軽い
中山弘隆牧師

 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
イザヤ書55章1~3節


 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音世11章25~30節


(1)呼びかける神
 始めに、人類の創造者であり人類の歴史の支配者であります神は、つねにわたしたち一人一人に呼びかけられる神です。わたしたちが人生の途上において、様々な困難に遭遇し、行き詰まり、孤独であり、不安の中にあることをご存知でありますので、わたしたちの近くに来られて、呼びかけて下さる方です。わたしたちの側でも悩みながら、闇の中を手探りして慰めと平安と希望を見つけるため、自分の心を神の声のする方向に次第に向けるようになります。
 それは自分で神を思うことでありますが、同時にクリスチャンに出会ったり、自分で教会の礼拝に出席したりすることでもあります。

 これはもうずっと以前の話しですが、わたし自身がその人に会って聞いたことです。岐阜県の山間部にあります田瀬教会に糸川という婦人がおられました。その方のご主人は世界第二次大戦のとき、軍隊に召集され、戦争が終わっても帰還されませんでした。戦死したという知らせはなかったのですが、多分戦死し、戦場にそのまま放置されていたのでしょう。その方は大変よく働く、気丈夫な人であると近所の人々から見られていました。女性一人で農業をし、二人の子供の教育と、お年寄りの世話をしておりましたので、村の人々から大変感心されていました。それでも、ご本人はこれから先、どうして生きていったらよいのか分からなくなり、自分から力が抜けていく寂しさと不安に襲われるときがありました。そのような折りには、仕事中に畑の片隅で人に見られないようにして泣いておられたそうです。
 その時、東京から空襲で焼け出され、村の中学校の英語の教師に赴任し、同時に牧師としてその村で開拓伝道に着手されました梶内重信先生と出会われました。たまたま先生は中学校の校長先生に伴われて、村の人たちに新任の挨拶周りをされました。
 そこで、「わたしはキリストによる心の平安以外には、皆様に差し上げるものは、何もありません。キリストによる平安をもって、学校では英語の教師として、教会では牧師として、一生懸命に働きますので、どうぞよろしくお願いいたします。」と挨拶されました。
 その場に居合わせたその婦人は、「そうだ。自分に最も欠けているものは心の平安である。何とかして自分にも心の平安が欲しい。」と強く感じられました。
 しかし女性一人で農業を営んでいる者にとって日曜毎に教会に出席するのは大変なことです。週日に夜遅くまで働いて、片付けなければならない仕事が多くあります。そのようにして毎日曜日の朝、教会に出席しておられるのを見ておられた舅さんから、体が持たないから教会を休むようにといわれました。糸川さんは、自分の体を心配してそう言ってくれる舅さんに「教会に出席して、心に平安を与えられることが、自分の力になるのです。」と答えられ、礼拝を休まれることは一度もなかったそうです。
 苦難に打ち勝つ心の平安を与えられたその方は、二人の息子さんを立派に育て上げ、しかも信仰を受け継ぐようになられたので、「神様のなさる業は、何と素晴らしいのでしょう。」と仰いました。その顔の輝きをわたしは今でも思い出します。
 古代キリスト教会の指導者でありましたアウグスティヌスは、告白録の中で、人間の魂は神に造られているので、神の中に平安を見いだしたとき、わたしは初めて真の平安を得ることができました、と神に向かって告白しています。
 神様が与えてくださる平安は、ここにも少し、あそこにも少しあるという部分的で相対的な平安ではなく、わたしたちの心と存在の全体を包む絶対的な平安です。

(2)神の平安
 本日の聖書の御言葉は生ける主イエスのわたしたちに対する呼びかけです。11章28節以下で、このように仰っています。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイ11:28~29)
 主イエスの目から見るならば、人はたとえどんなに強がりを言っていても、本当は自分の重荷を負いきれず、疲れ果てている者と映るのです。どれほど活力に溢れた人でも、休息をとらなければ倒れてしまいます。
 聖書で定められています安息日とは、一週間の中でその日に仕事を休むように命じられているだけではありません。それだけではなく、わたしたちが休み、わたしたちの中に神様が働いて下さることにより、わたしたちはリフレッシュできるのです。これが安息日の意味です。
 旧約聖書のイザヤ書55章1節以下で、神はこう仰せになっています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。…なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」
 神様は無限の愛をもって、わたしたち人間を愛し、わたしたちに豊かな命を与えて下さるのです。それは金を出して買う必要はありません。またそれを得るために働く必要もありません。必要なことは神のみ許に来て、神の御言葉を信じ、受け入れることです。
 このように旧約聖書で呼びかけられた生ける神は、今や主イエス・キリストにおいて、真の人間となり、神ご自身の性質を完全に示して下さいました。そしてわたしたちのために主イエスの中に実現して下さった霊的生命、すなわち永遠の生命と自由とを、今やわたしたちに与えて下さるのです。それゆえに、主イエスはわたしのもとに来なさい、と招かれるのです。
 実に主イエスこそ、わたしたちのすべての状態を理解しておられる唯一の御方です。なぜならば、主イエスはわたしたち以上に、人生の重荷を背負い、試練に会われ、わたしたち以上に、人生の残酷さ、恐ろしさ、悲哀といった一切のものを味わい尽くされたからです。しかもその中で、父なる神から命と自由を与えられ、父に信頼し、従いうことによって、すべての試練に勝利されたのです。
 そのような方であればこそ、重荷と試練とに負け、嘆き、悲しんでいるわたしたちをご自身のことのように理解できるからです。それゆえ、主イエスはわたしたちを真に理解して下さるだけでなく、わたしたちのあるがままの姿において受け入れて下さるのです。それだから、休ませてあげよう、と仰せられるのです。
 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。」(11:29)
 それでは主イエスはどのようにして、わたしたちに休みを与えられるのでしょうか。それはわたしたちの負うべき軛を交替させる方法によってであります。
 軛とは畑を耕す鍬を、牛や馬に引っ張らせるため、首に付ける横木のことであります。最初、軛という言葉を使用した者は、ユダヤ教の律法学者でありました。彼らは聖書の中で、律法と呼ばれています神の戒めを、人間の負うべき軛であると教えました。彼らは、「もし人が律法の軛を負うならば、人がそれまで負わされていたこの世の専制君主の圧迫と、この世の様々な思い煩いとの軛から、解放されるであろう。」と主張しました。
 最初、これを聞いた人たちは、それによって自分の精神が鼓舞され、自分の人生に高い理想が与えられたことを喜び、勇気を出したのです。しかし後に律法学者の要求する軛を負う道は偽りの道である、と気づくようになります。その理由は、神様の意志である律法を律法学者たちは、自分の力で実行することができると主張し、自らの功績を誇り、実行できない人たちを見下げていたからです。
 それでは律法学者たちの教えは、最初から間違っていたのでしょうか。決してそうではありません。彼らがこの世の圧迫や思い煩いの中で嘆息している人々を、解放するために、神の支配に従う生活を勧めたのは正しいかったのです。彼らの出発点は正しかったのです。霊によって始めたのです。しかし最後は肉で仕上げる結果となってしまいました。「霊」とは人知を超えた神ご自身の意志と働きのことです。神の働きの現実です。それに対して、「肉」とは生まれながらの人間の思いと働きのことです。つまり、律法の命令は、神様の霊的な力を受けることによって実行すべき事柄であるのに、彼らは人間の力で実行しようとしていたからです。
 ここで主イエスは豊かな霊的生命を与える御方として、わたし達に主イエスの軛を負わせられるのです。「主イエスの軛」とは主イエスの「支配」を意味しています。そして軛を負うと言う意味は主イエスに従っていく信仰生活です。
 ここで、主イエスの軛は負いやすいと仰せられる理由は三つあります。第一に、それは人間の生活に、全面的で絶対的な平安をもたらす真の神の軛であるからです。
 なぜならば、それは主イエスがわたしたちの責任をわたしたちに代わって背負い、わたしたちの罪のために十字架の死を引き受けられ、同時に死に至るまで、神の裁きに従順であったことにより、わたしたちが神の御前で生きるときに必要な義を、わたしたちのために達成して下さったからです。そのようにして神はわたしたちが御前に新しく生きる道を主イエスによって備えられました。それこそ父なる神様がイエスを復活させ、全人類の主権者とされたことによってです。
 それゆえ、わたしたちが信仰によって主イエスと結ばれるとき、わたしたちは平安を与えられ、神との人格的な交わりの中に入れられるのです。
 わたしは、主イエスに直面し、主イエスを信じたとき、人生の最大の決断をせざるを得ませんでした。それまでは、自分は自分の人生に対して忠実でなければならないと考え、自分の人生の主人公として生きてきましたが、その結果、人間の責任の総体を問われる神の御前で、すでに破産者であることを知りました。同時に、主イエスがわたしの人生に再生の道を開いて下さったことを知りました。それゆえ、わたしが自分の人生に対して忠実であろうとするなら、自分の人生の主人公の座をイエスに明け渡さなければならないと思い、主イエスを信じました。そのとき自分の人生にとって一番大切な決断をしたと思いました。
 さらにそれだけではなく、最後の審判において神様から問われることはこれ以外にないと思いました。自分は最後まで主に従って行けるかどうか分からない甚だ弱い人間ですが、自分の将来は主イエスの御手の中にあるのだ、と思うと平安でした。その時の心境は何処までも続く家並みの平凡な夕暮れの空に、十字架の光が射していて明日の約束を語っているように感じました。
 第二に、主イエスはわたしたちに軛を負わせられるに当たって、先ず主イエスご自身がその軛を負って下さり、軛を負うわたしたちと共に歩んで下さるからです。
 このようにわたしたちの存在に対する根本的な解決を与えてくださった御方として、主イエスは「わたしの軛を負って、わたしに学びなさい。」と言われるのです。
 第三に、主イエスの軛を負う者の中に、聖霊を通して、主イエスの霊的生命が働くからです。

(3)主イエスに従いつつ学ぶ
 最後にそれでは主イエスに従う人生とは何を意味しいるのでしょうか。わたしたちの全生涯を通して、否それだけでなく死ぬときにも主イエスに従うのです。主イエスと共に死ぬのです。そのことによって主イエスと共に復活するという確かな希望が与えられています。使徒パウロはローマの信徒への手紙14章8節で言っています。 
 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
 このように主イエスに従う中で、わたしたちは主イエスから学ぶことが出来ます。それは主イエスに従い、主イエスに生かされ、主イエスの性格に似る者へと聖化される道を歩むことです。これが主イエスの軛を負うわたしたちの人生の目的です。



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