2010-11-07(Sun)

聖徒の国 2010年11月7日(聖徒の日・永眠者記念日)礼拝メッセージ

聖徒の国
中山弘隆牧師

 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。
エゼキエル書47章1~5節、7節

 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
ヨハネの黙示録21章22節~22章5節

          (1)ヨハネ黙示録の目的
 本日は既に天に召された方々を覚えて礼拝を守っています。わたしたちもやがて召される天国がどういうところかについて想うため、ヨハネの黙示録を読んで、御言葉に聞くことを願っています。
 この書の目的は、1章1節に示されています。
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」
 このように本書の目的は、神が主イエス・キリストを通して完成させられる事柄、すなわち人類とこの世界の救いの完成を、証することです。

          (2)天地の更新
 この目的について、21章の1節に次のように記されています。
 「わたしたちはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。」
 ここで、キリストの黙示を示された預言者ヨハネは、目の前に啓示された新しい天地を説明しようとしています。
 それは古い天地とは根本的に変わっていますが、しかし、古い天地とは本来的に異なる別の天地が現れたというのではありません。そうではなく、古い天地が更新され、新しくなったのであります。このことは21章5節で一層明らかにされています。

 「すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。」
 玉座に座っておられる方とは、全能の神であり、天地の支配者でありますが、「わたしは万物を新しくする」と宣言されたのです。明らかに、神は新しい万物を創造すると、仰せになっているのではなく、既にある万物を新しくする、更新する、と仰せになっています。
このことは非常に重大な意味を持っています。万物とは神が創造された人類であり、またこの世界でありますが、人間が神への不信仰と不従順によって堕落したため、その結果世界も虚無に支配されるに至りました。従いまして、神様は人間の罪と悪を取り除き、神の栄光を現す世界へと根本的にこの世界を変えると言われたのです。
 これが聖書のメッセージの非常に重要な点です。すなわち神様は創造の時に意図された目的を、人間の罪と堕落によって、諦めたり放棄したりせず、救いによって達成されると仰せになったのです。

 さらに、重大な意味を持っている言葉は、21章6節です。
 「ことは成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう。」
 ここで、神は「ことは成就した」と仰せられました。これは地上にいるわたしたちの間では、まだ実現していませんが、神の御前ではすでに実現したのです。言い換えますと、主イエスの十字架の贖いの死と復活の中で、すでに成就したのです。主イエスの死と復活によって、神の御前には今や天国が出現したというのです。

 確かに、天国は時間を超えた永遠の世界です。しかし天国は以前からあったものではなく、今や神が主イエスの十字架と復活を通して、神の御前に実現されたのです。
 「ことが成就した」という深い意味は、神様が創造の当初から意図されていた目的が、主イエスの十字架と復活により、成就したという神的な事実です。人間の罪と堕落によって混乱した世界が、神の意志に従い、神の栄光を現す新しい世界へと変貌したという現実です。

 また重要な点は、歴史の世界が物質によって構成されているのとは異なり、新しい世界は霊的な素材によって構成され、真に存在する永遠の世界なのです。
 さらに聖書の救いは、人間だけの救いではなく、被造物全体の救いとつながっています。このことを思い巡らしますと、神様のなさることは何一つとして無駄なものはない、という驚嘆を覚えます。
わたしたちがその中に存在しています広大な宇宙は、終わりの時に実現する天国においても、変貌した新しい宇宙として存在するようになるのです。なんという広大な救いでありましょうか。

          (3)新しいエルサレム
 次に、ヨハネが見た人間の住まいは新しいエルサレムであります。10~11節でこのように言っています。
 「この天使が、霊に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下ってくるのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。」

 第一に、新しいエルサレムの特徴は、神殿がないということです。町全体が神の栄光を輝かせているのです。22節でこう言っています。
 「わたしは都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。」
 全能者である神と小羊とが、直接的に都の中に臨在しておられるというのです。小羊とは、屠られた小羊のことであり、人類の罪の贖いのために死に渡された主イエス・キリストを意味しています。
 神と主イエスがその中におられるので、天の都は神と主イエスから出る永遠の生命に満たされており、都全体が透き通った碧玉のように、神の栄光で輝いているのです。
実に都は神の栄光に照らされるだけでなく、透き通った碧玉のように、神の栄光が都の内部にまで浸透しているのです。その結果到底言葉では表現できない美しさで、都は宇宙の中に輝いて見えます。
特に、諸国の救われた者たちが、神と小羊の玉座に近づくために歩いてくる都の大通りは、21節で言われているように、「透き通ったガラスのような純金」で出来ています。聖書がいう碧玉は緑色であり、ガラスのように透明な純金は金色です。このコントラストも美しさを際立てています。
それにしても、都の素材はすべて透明であり、その中まで神の栄光で輝き、都の中に神様が臨在しておられることが一目でわかるのです。

また、人間も同様に、身体が透き通った霊的素材で出来ていますので、自分の存在全体がすべての人の目に見えるのです。従って、人は自分の秘密をもはや持たなくなります。また、自分の罪が取り去られ、人の前に隠さなければならない自分の汚点はすべてなくなるのです。そのため、人は互いに全存在をもって出会い、理解し、感謝し、喜び、大きな調和の中で存在することができるのです。

次に、地上の王たちは、自分たちの栄光を、そして諸国の民は、自分たちの栄光と誉を携えて来て、都の中心におられる神と主イエスの前に献げて礼拝します。このことは21章24~26節に、述べられています。
「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。----人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。」
これはなんという麗しい、明るい、そして肯定的な光景でしようか。ここで「誉れ」というギリシャ語の「ティメー」とは「価値」という意味もあります。彼らが地上の生活の中で達成した人間的なすべての価値を神に献げ、神はそれを喜んで受け入れられるというのです。
ここに、人間が神の創造の秩序の中で、努力して実現した真実な事柄は、霊的なものへと変貌し、神の栄光の中で輝くようになるのです。

もちろん、このようなことが実現するのは、20章に記されている神の最後の裁きを経て、初めて可能になったのです。
20章12節で、「死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。いくつもの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。」と記されています。
最初の書物には、人間のなしたすべての行為が記されていて、この書物によって、人は自分のなした行いに応じて裁かれなければなりません。
もう一つは、主イエスの贖いによって、神に知られている者の名前が記されている書物です。この書物は「命の書」と呼ばれています。すべての人間はこの二つの書物を経て、都に入るのです。
従いまして、都に入ってくる王たちや諸国の民は、命の書物に名を記された人たちです。なぜならば、都の中には、汚れた者は入ることはできないので、彼らは皆主イエスの十字架の血によって清められた者たちです。従って、彼らが携えてくる価値は、最初の書物によって裁かれ、あるいは篩にかけられ、悪い業は捨てられ、善い業だけが取り出されたものであります。

しかし、ここで非常に不思議で、心底から驚かされることがあります。それは19章19節の言葉です。
それによりますと、諸国の王たちは、主イエス・キリストと戦っているサタンの部下として、主イエスに反抗していた者たちです。
「わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。」(19:19~21)
従いまして、彼らはサタンと共に滅ぼされた者たちなのです。神の言葉の剣によって切り殺され、完全に無に帰した人たちのはずです。
それなのにどうして彼らが、神の国に入ってくるのか、と非常に疑問を感じるのですが、その秘密は主イエスの裁きを経て、彼らは最終的に救われ、彼らのなしたすべての悪い業は、滅ぼされ、彼らのなしたすべての善い業だけが、主イエスの恵みによって可能になった業として、神への献げ物ものとなっているのです。
主イエスの恵みによって、生かされた人間の業だけが、新しいエルサレムに集められ、神の栄光の中で永遠に存続するのです。
従いまして、すべての人間は、主イエスの裁きを経て、滅ぼされ、同時に、すべての人間は主イエスの恵みを経て、死者の中から復活し、神の都に入って来るのです。このことをヨハネの黙示録は神が達成される最後の業であると、語っています。
しかし、これは絵画的なイメージの枠を使用していますので、その通りになるという性質のものではありません。そうではなく、既に主イエスの十字架の死と復活の中で神が実現された霊的な事柄を絵画的に説明しているのです。つまり、神の「究極的な審判と救い」は実に主イエスの十字架と復活により、歴史の中心で「既に成就している」のです。
成就している事柄が、歴史の最後にこの世界に現れるため、そして「永遠の国の開始」のため、主イエスの中にある天の都が地上に下ってくるのです。この最後の日の様子を、ヨハネ黙示録は絵画的に説明している、と言えます。

          (4)神を見る
最後に、天の都でわたしたちが経験する一番の幸いは、神を見ることです。そのことは、22章3節~5節に次のように語られています。
「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、灯の光も太陽の光もいらない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」
ここで玉座は一つです。ギリシャ語の「ホ スロノス」は単数であります。しかも一つの玉座は、神と小羊の玉座なのです。
そして玉座の前で礼拝している者たちが、「神の御顔」を仰ぎ見るというのは、人類の罪を贖うために屠られた「御子、主イエス・キリストの御顔」を見るという意味です。
「父なる神」は万物の創造者であり、万物を超えて存在される「超越者」でありますので、天国においてもわたしたち人間が父なる神を直接に見ることは不可能です。あくまでも、父なる神の本質を完全に現してくださった「復活の主イエス・キリストの生ける姿」を見るのです。
そして「御顔」を仰ぎながら、神を礼拝するのです。このようにして、天国に入るすべての人間が「共に」神を礼拝します。実に礼拝こそ天国における一番の幸いです。

なお、「都の中心」には父なる神と主イエス・キリストの玉座がありますが、それだけでなく、玉座は天国に入るすべての「人間の心の中」にもあります。すべての人が自分の心の中にある玉座を凝視するならば、それは都の中心にあるように見えるのです。そして、玉座から常に流れ出る神の愛と霊的な力が、豊かに人間の心に湧き出るのです。このことが人間を生かす神の恵みです。
その上、神の恵みがすべての人間を照らしますので、その光の中で、「人間存在全体」が透明になります。その結果、人々が互いに理解し合い、共にいることを喜び、「大きな調和」に包まれます。実にこの調和の中で、人は神を「賛美」して生きるのです。

しかし、天国における人間は、何もしないで怠惰な生活をするのではありません。神と主イエスの僕として「神に仕える」のです。天国においても地上におけると同じように、人々が互いに仕え合うことによって、人は神に仕えるのです。正に、「人間が他の人々に仕える」ことが、神の国において、人間に委ねられた「統治」なのです。
それは主イエスが神の主権者でありながら、人間に仕えてくださったように、人間が互いに仕えるときに、救われた人間は「主イエスの兄弟」となり、「神の子たち」と呼ばれるのです。その統治を通して結ぶ愛の業を、玉座にいます父なる神と主イエスに献げて、共に礼拝するのです。これが天国です。



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