2016-02-21(Sun)

愚かな金持 2016年2月21日の礼拝メッセージ

愚かな金持
中山弘隆牧師

 あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。あなたは御計らいに従ってわたしを導き、後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。
詩編73篇23~28節


 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12章13~21節


(1)主と結ばれて
 わたしたちは主イエス・キリストを信じて、神が人間のために、イエス・キリストにおいて実現してくださった神の義を与えられ、神の御前に生きる者たちです。それゆえ、わたしたちは主イエスと結ばれた者として、神の御前に平和を与えられています。
 この点に関して、パウロはローマの信徒への手紙5章1、2節で次のように言っています。
 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りとします。」
 それではわたしたちに与えられた平和とはどういう状況でしょうか。わたしたちは自己を誇ったりしないことです。そして他の人を羨ましく思わないことです。他の人の欠点を見て、その人を裁かない。その人を批判し、軽蔑しないことです。性質が自分とは違うからと言ってその人を嫌わないことです。人が自分に不当な悪い行為をしたときに、その人を恨まないで、赦すと言うことです。つまり、生まれながらの人間としての罪の思いと行為を捨て去り、最早それに捕らわれないと言うことです。
 その時に心が平和になり、神に受け入れられているという喜びで満たされます。これはわたしたちの心と体をともに生かす真の平和です。
 さらに積極的な面では、わたしたちは主イエス・キリストとの人格的な交わりを与えられていると言うことです。イエス・キリストと日々出会って、イエス・キリストの言葉と行動を見、その性質を知ることにより、神を知ることができると言うことです。
 キリストの全く清い、完全な愛に満ちた性質を知り、キリストの思いと決断と行為を知って、自分の思いと決断と行為を正しながら、そのような者として自分を神に献げ、キリストに従うと言うことです。
 そのとき、わたしたちは神の命令を不完全でも、実際に実行することができます。そのようにしてキリストによる神の恵みを体験し、神に生かされていることを知り、神を感謝するのです。そこに神の喜びが与えられ、心の中から神への賛美が湧き上がります。それは神が与えられる平和の中で生きると言うことです。
 さらに、キリストとわたしたちは存在的に結ばれ、キリストが「わたしたちの義となり、聖となり、贖いとなっておられる」(コリントの信徒への手紙一、2:30)ので、わたしたちは天国に国籍を持つ「神の子」とされています。長い信仰生活の中で、ある人は顔を輝かせながら、わたしたちは天国へのパスポートを渡されているからと、いつも言われたことを思い出します。
 そのような希望がクリスチャンの明るさであります。さらに、クリスチャンは自分たちの中心的な思いと生き方において、皆同じです。これが神の恵みの豊かさです。
 それではその思いとは何でしょうか。この点につきまして、またパウロは明らかにしています。ローマの信徒への手紙14章7、8節で次のように言っています。
 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
 なぜ、クリスチャンはこれほどまで思うことができるのでしょうか。その理由は、イエス・キリストはわたしたちを救うために、ご自身を十字架の死において与え、わたしたちが神の御前に生きるために、復活されたことこそ、実にキリストの愛の現れであるからです。キリストの愛がわたしたちに迫り、わたしたちを捕らえ、決断を迫るのです。
 このような根本的な思いと生き方が一致しているので、キリストの体である教会は、多様性の中ですべてが調和しています。そこにキリストの恵みの豊かさが現れています。教会においてはそれぞれのクリスチャンの個性を認める寛容さと愛による抱擁力が働いています。
 例えば、パウロが設立した教会では、信仰の強い者たちと弱い者たちがいましたが、強い者たちが弱い者たちを受け入れることによって、教会の一致が保たれたのです。具体的に言えば、信仰の弱い者とは、市場で売られている肉は、偶像に献げられた肉であるから、それは汚れているので、自分はクリスチャンとして絶対に食べないと考えていました。一方信仰の強い者は、食べ物自体はすべて神様が与えられたもので自由に食べてもよいと言っていました。しかし、信仰の弱い者が自分の良心に反して、そのような真似をすれば、信仰を失うことになります。そこで、パウロは信仰の弱い兄弟も主イエスの十字架の血によって贖い取られた者たちであるから、信仰の強い者たちは、信仰の弱い者を躓かせないために、自分の自由を制限しなさいと命じました。そして自分に与えられている自由を制限することが本当の自由であると教えました。
 このような判断は、クリスチャンは生きるにしても、死ぬにしても、キリストのために生き、キリストのために死ぬというキリストの愛に応答する仕方です。
 それでは、そのようなキリストの思いと行動に示されたキリストの愛がクリスチャンの生き方を規制する力はどうして永遠に変わらないのでしょうか。
 実に、それは十字架について死に、三日目に父なる神によって復活させられ、神の国の支配者とされた主イエス・キリストが永遠に生きて働いておられるからです。そこに復活の大きな意義があります。

(2)神に対する絶対的な信頼
 次に、地上で過ごされたイエス・キリストは恵み深い主権者である父なる神に対する人間の絶対的な信頼と従順を自ら実行されました。イエスは概念ではなく、ご自身の生き方を通して、実践し、示し、それをまた人々に要求されたのです。
 従いまして、人間は自分たちの生活の中で、人間に対して絶対的な要求をする神とサタンとの間に立ち、どちらかへの忠実を告白し、決断しなければなりません。これか、あれかの決断をしなければなりません。あれも、これもということは有りえないのです。
 絶対的な要求をされる神に逆らって、自分が人間と社会に対して安全と幸福を絶対的に保証するという者がサタンです。なぜならサタンは偽り者であるからです。しかしサタンは今日の世界で色々の形で働いています。それは富であったり、知能であったり、権力であったり、軍事力であったり、国家であったりします。そのような相対的な事柄を絶対視するとき、それらは悪魔の支配に隷属しているのです。
 今日のグローバルな時代で、経済的成長が最も必要であると言うのは、一種の拝金主義です。サタンに従う生き方です。そのような偽りをイエス・キリストはこの譬話を用いて暴露されました。
 この譬のなかで、金持ちは自分の畑の大豊作に出会って、驚きながらも喜んで、次のように自分に言い聞かせました。
 「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」と心の底から叫んだのです。
 もし人は誰でもこのような境遇に自分が出会うとしましたら、生活の心配から解放され、将来に対する希望に胸を膨らませるのではないでしょうか。あるいは、反対にそのようになった人を見て羨ましいく思い、一層自分を哀れに思うのではないでしょうか。
 しかし、主イエスはこの譬話の中で、「神が『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」(ルカ12:20)と教えられました。
 これはわたしたちが生きることと死ぬことは神様だけが決められるという神の主権に対する信仰の表明です。人間が生き、また死ぬ時期は神様だけが決めることができるのです。それは恵み深い神の主権に属する事柄です。
 わたしたちがたとえ貧しく困難な状況の中に置かれていても、生きている限り、それは神様が生かしてくださっているのですから、その間に神の御心を行うように努力しなければならない、と思い行動することが神の主権を信じることです。また、どれほど困難な状況でも、神から与えられた使命を果たすまでは自分は死なないと、捨て身の覚悟で使命を果たすことが神の主権を信じることです。このような揺るぎない逞しい信仰と忍耐が神の主権に感謝の応答をする神の民の生き方です。
 しかし、このような徹底した信仰は人間の力では全く不可能です。それにも拘らず、キリストの使徒たちや弟子たちを初めとして、無名で無数のクリスチャンたちがキリストに従って来ました。そこに不信仰な者を信仰者に変える神の力が働いているのです。
 言い換えれば罪人を救う神の力が働いているのです。この信仰こそ御子イエス・キリストにおいてご自身を罪人に与えられた神の力です。先ず、そのような信仰はイエス・キリストにおいて現されました。
 ある父親が霊に取りつかれた息子をイエスのもとに連れてきて、「もしお出来になるなら、私共を憐れんでお助け下さい。」と申しました。その時、イエスは「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる。」と仰せになったのです。イエスのこの言葉を聞いて、父親はすぐに叫びました。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」(マルコ9:24)。ここで、父親はイエスの真の信仰を知って、「信じます。」と言ったのです。
 実に、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と言うのがイエスの信仰です。
 ここで人類の救い主として、この世界に遣わされた神の御子イエスの神に対する信仰と認識が顕われています。同時にまた、父なる神に対して絶対的従順を全うされたイエスが祈り求められたことは、神の御心だけが実現すると言うことです。従いまして、イエスはゲッセマネの園で、必死に祈られたその祈りの言葉は次の内容でした。
 「アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことでなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)
 これこそ神に対する真の信仰です。このようにしてイエスは人類の罪を贖う十字架の死を全うされたのです。主イエスは神の御子でありますが、わたしたちと同じ人間となり、信仰と祈りとによって神の御心を示され、それを実行する力を神から受けられたのです。

(3)主権者としての復活の主
 しかし、ここが同じ人間であり、同じ信仰者でありましても、主イエスとわたしたちクリスチャンが決定的に相違する点です。主イエスは父・子・聖霊の交わりの中で存在しておられる神の御子が人間イエスとなられた方ですから、イエスは父なる神との直接的で完全な交わりを持っておられるのです。
 父なる神がイエスの中に臨在し、語り、働いて、ご自身をイエスの父として啓示されました。そのことにより、イエスは神が自分の父であることを自覚しておられました。同時に、自分は神の御子であること、言い換えれば自分は人間に対して神であることも自覚しておられたのです。
 さらにご自分が神であるゆえに、父なる神に絶対的に依存し、父なる神に絶対的に従順であったのです。そのような方として、イエスは信仰と祈りによって、父なる神を知り、父なる神への従順の人生を歩み、その従順の頂点が十字架の死による人類の罪の贖いでありました。
 今や復活して神の国の支配者として働いておられる主イエス・キリストは神が人間に要求される絶対的な信頼と従順を、ご自分に従うクリスチャンに要求されるのです。
 その理由は主イエス・キリストが神の国の支配者であると同時に、神の国に生きる者たちの「義であり、聖であり、贖いである」からです。つまり、わたしたちは主イエス・キリストの中に救われた自分、神の子たちとされた新しい自分が与えられている者として、主イエスと存在的に結ばれているからです。
 言い換えれば、復活の主イエスがわたしたちの中に内在し、働いておられるからです。その主イエスに従うことによって、わたしたちは神の御前に生きるからです。
 それゆえ、主イエス・キリストはご自身が語り、実行された言葉、そしてキリストの使徒たちが語った福音の言葉が新約聖書の神の言葉です。さらに父なる神が預言者たちを通して語られた言葉が旧約聖書の神の言葉です。そして旧約聖書の律法を「キリストの自由なる律法」としてキリストが承認された律法が旧約聖書の神の言葉です。 
 復活の主イエス・キリストはそのような新約聖書と旧約聖書との全体を通して、今日のわたしたちと出会い、わたしたちに御言葉を実行するように命じられるのです。さらに主イエスは信じる者に聖霊を与えられる方です。
 それゆえ信仰者は聖霊によって、自分の中に主イエスが臨在し働いておられるのを知ることができます。聖霊によって主イエスの言葉を聞き、その言葉を理解することができます。さらに聖霊によって御言葉に応答して、主イエスに従うのです。このようにして、わたしたちクリスチャンは恵み深い主権者である主イエスへの絶対的な信頼と従順の中で、愛において働く信仰の人生を前進して行く者たちです。



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