2016-02-14(Sun)

十字架への道 2016年2月14日の礼拝メッセージ

十字架への道
中山弘隆牧師

 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに。その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章7~11節


 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
マルコによる福音書10章42~45節


(1)レントにおいて
 わたしたちは今レントの期間を過ごしています。この時期に、十字架に向かうイエスの姿を思い、信仰が一層強められますよう願う者であります。ここには、エルサレムに向かって進んで行かれたイエスの姿が描き出されています。
 「一行がエルサレムへと上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」と、10章32節に書いてあります。
 この非常に簡潔な表現は、主イエスの決意がただならぬものであったことをよく示しています。そこには不退転の決意がみなぎっていました。主イエスの体全体から出る雰囲気がその決意を感じさせたのです。それは主イエスの深い確信から出て来たものであり、自分の人生の必然的な終局を悟った方の力を感じさせました。
 弟子たちは長い間イエスに従い、神がイエスを通してなされた力ある業を数多く目撃しました。その度に彼らは驚き、強い感銘を受けたのですが、今回ほどに恐れを感じたことはありませんでした。
 世の多くの人々は生きるために死を避けようとします。しかしそれによってかえって生きる意味を見失ってしまいます。人は死を避けず、死に向かって進んでいくときに本当の意味で生きられるのです。主イエスの生涯はまさにそのような歩みでした。救い主としてのイエスの前半の活動は、必然的に後半の活動をもたらし、そこにおいて救い主としての死を全うする決定的な時が到来したのです。
 ここに「神としての人間」イエスの必然性が現わされています。イエスはすべての人間と違って、真の人間でありながら、しかも神は「自分の父」であり、自分は「神の御子」であると言う自覚を生まれながらに持ち、父なる神との間で愛と平和の人格的な交わりによって、わたしたち人間に神として語り、神として行動されました。
 罪人に対して神の赦しをもって親しく交わり、自らを誇る高慢な気持ちの毛頭ない神であり、罪人を愛し、自分の善きものを惜しみなく与えられた神でありました。それゆえ、罪人ザアカイは神の愛と赦しを知って、自分の利己的で貪欲な心を捨て、これまで自分が蓄えた全財産の半分を喜んで貧しい人々に施しますと、主イエスに申しました。また罪の女は主イエスの赦しの言葉と愛によって罪の束縛から救われ、感謝の涙と共に自分を主イエスに献げました。
 このような「神としての人間」イエスの必然的帰結は、人類を罪から贖うために、ご自身を十字架の犠牲に献げることでありました。

(2)弟子たちに対するイエスの意図
 この時、イエスは弟子たちを御許に呼び寄せて、次のように仰せになりました。
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10:33~34)
 ここで、主イエスは明らかに弟子たちにご自身の死の意味を教えようとしておられます。そのことが起こる前に、弟子たちにご自身の死の意味を理解させようとしておられます。
 この点マルコによる福音書は主イエスの意図をよく示しています。
なぜならば、マルコによる福音書では、主イエスの救い主としての活動が、前半と後半との二つの部分に明瞭に区分されています。前半では、主イエスはイスラエル全土を巡回して、人々に神の国について教えられました。神の国がイエスの宣教を通して開始していることを言葉と行為をもって示し、また神の国での信仰者の生き方について多く教えられました。
 後半では、できるだけ民衆との接触を避け、専ら弟子たちに教えようとされました。そこには深い理由がありました。すなわち十字架の死に向かって進んで行かれるご自身の歩みに、弟子たちも共に与らせ、そこにおいて主イエスの十字架の死と復活の意味を弟子たちに教えようとされたのです。
 もし主イエスが生前に弟子たちに十字架の死と復活について教えられなかったとしたら、弟子たちはそのことが実際に起こったとき、真の意味を理解することは到底できなかったでありましょう。
 しかし、弟子たちはこの時点では、まだ理解していなかったのです。否、彼らの理解は全く異なっていました。

(3)弟子たちの無理解
 「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたし共の一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』(10:37)
 これはイエスが神の国の支配者として、栄光の座にお着きになるとき、ヤコブとヨハネは自分たちだけが、弟子としての最高の地位に就くことを約束して頂きたいという申し出です。
 これは何という弟子たちの無理解を示していることでありましょうか。彼らは今や実現する神の国を非常に利己的にしか理解していませんでした。他の弟子たちを出し抜いて自分たちが高い地位に就きたいという欲望丸出しです。当然それを見た他の弟子たちは二人に対して非常に憤慨しました。
 この有様をご覧になった主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と仰せになりました。
 わたしたちは弟子たちのこの振る舞いを見て、弟子たちの思いは主イエスの思いと何とかけ離れていることかと驚きを感じます。弟子たちはどうして主イエスの心中を察することができないのだろうかと思います。彼らの心の感性は何と鈍いのだろうかと思います。弟子たちは主イエスの思いを感じ取ることのできない甚だ利己的な人間の姿を露わにしています。
 しかし弟子たちの姿は実はわたしたちの姿に他ならないのです。わたしたちは信仰が与えられていましても、依然として利己的な欲望を持っています。その点ではヤコブやヨハネの甚だ利己的な姿とちょうど二重写しになっています。

(4)主イエスの思い
 そこで、主イエスは次のように仰せになりました。
 「あなたたちも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:42~44)
 ここには、主イエスによってもたらされた神の国の性質が非常に明瞭にされています。それはこの世の性質とは根本的に異なります。この世では支配する人、権力を振るう人が、偉い人であり立派な人として尊敬されています。しかし、神の国においては価値ある行為は人に仕えることであり、信頼される人は皆に仕える人です。
 このような相違は価値観の逆転ではなく、全く異質な価値観であると言えます。神の国の価値観は、神の愛を根本とする価値観です。従って、罪人を愛する神の救いを受けた者たちの価値観であり、神に感謝し、喜んで神に従うことを根本とする価値観です。つまりそれは、主イエスが神として人間を愛し、人間の救いのために人間に仕えられた主イエスの思いを知って、自分たちもまた人に仕えることを尊ぶのです。
 実に、主イエスの生涯は神として人間に自己を与えること、すなわち人間の救いのために人に仕えるという思いで貫かれており、それを完成する行為が十字架の死でありました。このことは次の言葉ではっきりと表明されています。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)
 ここに、主イエスが十字架の死を父なる神からご自分に与えられた最大の使命であると自覚しておられたことが現れています。
 「人の子」とは単に人間と言う意味ではなく、もっと深い意味を持った言葉です。旧約聖書のダニエル書7章13~14節に預言されている「神の主権」を委ねられた者を意味する言葉です。
 「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、威厳、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸国語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」
 主イエスは御自分がこの預言されている「人の子」であると自覚しておられたので、自分に対して「メシア」と言う名称を用いず、「人の子」と言う名称を用いられました。しかし、この言葉は非常に謎めいた言葉であり、人々はその意味が分かりませんでした。
 さらに、そのような神の主権を委ねられた人の子の支配は、人類を罪から贖うことを通して実現すると認識されました。また旧約聖書のイザヤ書53章の預言をそのように理解され、ここで「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と仰せになっています。
 実に旧約聖書のこの二箇所を以上のように解釈し、ご自分の使命に適用されたのはイエス独特の洞察によるのです。神の御子として父なる神との交わりの中で、直観的に認識されたことによるのです。
 「多くの人の身代金」とはイザヤ書53書の預言の内容を要約したものです。人類の罪を贖うために献げる犠牲を意味しています。ヘブル語では人類全体を表す言葉として「多くの人」という言い方をします。また通常、身代金とは一般的には捕虜になった者を解放するために支払う金を意味していますが、ここでは全人類を罪の束縛から解放する手段を意味しています。罪の贖いの手段のことです。
 主イエスはそのために自分の命を与えられました。言い換えればご自身の全存在を与えられたのです。罪を贖う神として、イエスは人類の罪を一身に担い、死と虚無の渕に呑み込まれたのです。そのようにして人類の罪を贖う父なる神の意志に対する従順を全うされました。
 また、その行為はイエスが明確な認識をもって、自ら進んで実行された自発的行為です。人格的で自発的な愛によるイエス犠牲は同時に聖霊によってご自身を人類と結びつけたのです。このイエスの霊的連帯性によって人類の罪は贖われたのです。要するに人類の罪が贖われるためには、主イエスのそのような認識と、ご自身を人類に与えるという主イエスの愛による決断と行為が必要でありました。
 実に主イエスの父の意志に対する従順によって、神の真理と恵みが人間イエスの中に貫徹したのです。同時に、イエスと人類の連帯性によって、人間は罪から解放され、罪を赦され、神との人格的な交わりの中で生きる「神の子たち」とするという神の永遠の決定が下されたのです。

(5)主イエスの命と自由に生きる者
 今や、主イエスは死人の中から父なる神によって復活させられ神の国の支配者として、神の権威と力を持って働いておられます。その方が「人間としての神」である「主イエス・キリスト」なのです。今や、復活の主イエスは「神として」働いておられます。しかし、同時に「人間」なのです。それゆえに「救い主」なのです。復活の主イエスの栄光は、十字架の犠牲による罪の贖いの力の現れです。そこに罪人にご自身を与えられ、罪人を神の子とされた神の愛が輝いているのです。
 今や、わたしたちは十字架の言葉と復活の言葉を通して、神として働いておられる復活の主イエスと出会います。そして神の贖罪愛の尊さを知り、主イエスにすべてを献げ、主イエスに従い、また自分も人に仕えることを喜び、最大の使命とするのです。
 そのようにして、「イエスは主である」と告白し、「父なる神はイエスを死人の中から復活させられた」と信じるのです。その「信仰」によって、わたしたちは主イエスの思いと性質をもった「神の子」とされるのです。
 宗教改革者ルターは「神の子たち」としての自由を「クリスチャンの自由」と呼んでいます。そして「クリスチャンは君主であり、同時に隣人に仕える僕である。」と二つの面を提示し、クリスチャンに与えられている自由の性質と働きを説明しています。
 「君主」と言うのは、クリスチャンがこの世の支配者のように人を支配する者であると言うのではありません。また自分の欲することは何をしてよいと言うのではありません。そうではなくクリスチャンは罪の思いと悪い行動に打ち勝つ自由が与えられていると言う意味です。同時に神の御心に従い、隣人を愛し、喜んで隣人に仕え、共に生きる自由が与えられているということです。
 このような二つの自由を使用して、隣人に仕え、隣人と共におり、共に愛し合い、共に仕え合う交わりの中で、生きると言う意味です。
 このように生きるとき、神の国の支配者である復活の主イエスご自身がわたしたちの中で働いておられるのです。



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