2016-01-31(Sun)

赦す愛 2016年1月31日の礼拝メッセージ

赦す愛
中山弘隆牧師

 わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました、「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました。あなたの慈しみに生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも、その人に及ぶことは決してありません。あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって、わたしを囲んでくださる方。わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
詩編32篇5~11節


 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18章23節~35節


(1)神の国
 キリスト教会が宣べ伝えている福音とは、神の救いを告げ知らせる喜ばしいメッセージであり、神の救いが主イエス・キリストを通して既に到来し、そして今その完成に向かって前進していることを知らせる言葉です。
 この福音は、最初主イエス・キリストご自身によって語られました。マルコによる福音書は、最初にイエス・キリストが神の国を宣教されたと言っています。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14~15)
 それでは、神の国とは何でしょうか。神の国とは第一に、神ご自身による民に対する恵み深い支配を意味しています。第二は、神の恵み深い支配のもとで、人間は罪の束縛から解放され、神の御心を知り、感謝と喜びを持って、自ら進んで神の御心を実行することです。そのようにして人間が神の御前に生きる所、それが神の国です。
 従いまして、神に敵対している罪深い人間が自由と命の溢れた神の国に生きる可能性は、人間の内には全くありません。専らその可能性は、神の側にあります。しかも、罪深い人間を神さが愛されると言う人知を超えた神の愛によるのです。
 それゆえ、神の国の到来は、神様が人間の救いを実現されることであり、その救いを通して、神様がいかなる方であるかを人間に啓示されることに他ならないのです。
 そのために神様ご自身が人類の歴史に直接介入されることが必要でした。このことは旧約聖書の時代に既に預言されていたのです。
 例えば、イザヤ書40章9~11節が語っています。特に10節はこのように言っています。
 「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実は御前に進む。」
 この預言は、神の統治が開始するために神様だけが持っておられる全能の力によって、人類の罪を贖い、神に反抗している罪人が神を知り、神に従う新しい人間とされると言う内容です。すなわち神の子たちとされる、いう神の決断と計画の告知なのです。
 今やその時が満ちて、神の御子イエス・キリストが到来されたのです。このことをイエス・キリストは要約して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されました。
 キリストの使徒パウロもまたガラテヤの信徒への手紙の中で、同じように言っています。
 「しかし、時が満ちると、神は、御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ4:4~5)
 ここで、神は御子イエスによって、律法の支配下にある者を贖い出し、神の子とするためであったと言っています。それは旧約聖書における神の民は、律法の支配下で、罪に束縛され、神に背く者たちであったことを意味しております。なぜならばイスラエルの民は人間に対する神の命令である律法によって神の意思を知っていたのですが、他方それを実行することができず、罪の中に閉じ込められ、その結果、旧約の民はまだ救いていなかったからです。
 しかし、今や神の御子イエスが神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ、と仰せられたことにより、このときイエスは救い主として、行動開始の宣言をされたのです。
 確かに旧約聖書の時代に、イスラエルの民はエジプトの奴隷階級であったのですが、神の力をもって、エジプトの王ファラオの手から解放され、シナイ山でモーセを通して律法が与えられて、神との契約による神の民とされました。これがイスラエルの選びです。
 従いまして、政治的、社会的な面ではイスラエルの民は奴隷から自由人へ解放されたのです。しかし、人間の存在と内面においては、彼らは依然として罪の奴隷でした。彼らはモーセを通して与えられた神の律法によって判断するとき、何が善であり、何が悪であるかを知っていたのです。そういう意味で彼らは自分たちが異邦人のように盲目的な民ではなく、異邦人を啓発し、導く教師であると自負していました。
 それにも拘らず、イスラエルは異邦人と同様に利己的で、貪欲で、頑なであり、正義と公平と憐みを要求される神に従わず、常に反抗している罪人たちでした。
 この点でも、熱心なユダヤ教徒から復活のイエスに出会って、福音の使徒とされたパウロは罪に束縛されている自分の悲惨な状況をローマの信徒への手紙の中で、次のように告白しています。
 「わたしの内には、わたしの肉には、善が住んでいないこと知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善を行なわず、望まない悪を行なっている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:18~20)
 ここで、パウロは「わたしの肉」は、善を実行できないと言っていますその肉とは、「生まれながらの人間」として古い人間を意味しています。従って、パウロはまた次のようにイエス・キリストの救いを賛美しています。
 「わたしは何と言う惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7:24~25)
 それではこの告白はどういう意味でしょうか。生まれながらの自分は罪に束縛されている哀れな人間である。しかし、主イエスを信じて、主イエスの中で新しく創造された「霊的な自分」は、罪から解放され、神に従う者となっていると意味です。
 主イエス・キリストを信じて、イエスと結ばれることにより、人は誰でも「新しい人間」とされます。それが神の救いです。新しい人間とは「神の子たち」であり、神との人格的な交わりに中で、神の御前に生るのです。そこが神の国です。
 主イエスによってそこに入るとき、そこは命と自由に溢れた神の家なのです。そこにおいて神は恵み深い父であり、クリスチャンは神の子とされているのです。
 しかし、決して忘れてならない点は、神の子たちとされたクリスチャンに自由と命が与えられているのは、クリスチャンがキリストと繋がっているからです。言い換えれば、クリスチャンは自分の存在の中心を自分の中に持つのではなく、キリストの中に持つ者とされたのです。つまり、これはクリスチャンがキリストの支配される神の国に入れられていると言う意味です。
 従って、わたしたちがキリストの思いと性質を知り、キリストの命令を聞き、キリストの命令を実行するときに、神の子として既に与えられている自由と命がわたしたちの中に働きます。これがキリストの支配です。それゆえ、わたしたちはキリストにつながり、キリストに祈り、神の命令を聞きとり、それを実行することが必要です。要するに、「肉なる古い自分」とその悪い行いを捨て、「キリストの命令を実行し」、キリストの内にある新しい人間に生きることが、神の子たちの生き方です。
 このような者たちとして、クリスチャンの特徴は神の愛を隣人や兄弟に実行することです。それゆえ、神の愛が何であるかを明確に悟って、実行することです。クリスチャンの知っている神の愛とは、罪人を愛し、キリストの義を与え、罪を赦し、ご自身との人格的な交わりに入れられる神の愛です。それこそ正に贖罪愛です。
 従って、贖罪愛に生かされているクリスチャンは神が罪人としてのクリスチャンをキリストの十字架の死とそこからの復活によって赦され、神との間で愛と平和の交わりを与えられていることを良く自覚し、そのようにクリスチャンが互いに赦す愛であり、隣人を赦す愛です。これ以外にクリスチャンの知る神の愛、クリスチャンが実行する愛は最早ないのです。

(2)贖罪愛の実行
 本日の聖書の箇所で、キリストの使徒ペトロは罪の赦しについて主イエス・キリストに次のように尋ねました。
 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイ18:21)
 それに対してキリストは仰せになりました。
 「あなたに言っておく。七回どころ七の七十倍までも赦しなさい。」
(マタイ18:22)
 聖書では七と言う数字は完全数であります。従って、七の七十倍までも赦すということは「何の条件」もなしに、「心から」赦すことです。キリストは人を赦すならば、心から赦さなければ、それは赦したことにはならない、と強調されました。
 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(18:35)
 この言い方は否定的に聞こえますが、そうではありません。十字架の死において、罪人のためにご自身を与え、復活して、信仰者にご自身を与え、信仰者の中に働き、信仰者を導き、命令しておられる方として、復活の主イエスは、わたしたちに兄弟を心から赦しなさい。そうするとき、あなたは神の愛の中におり、神の愛の中で生きているのだ、と仰せられるのです。
 この赦す愛を実行するとき、キリストはわたしたちの中に働かれるので、わたしたちは命と自由を経験することができます。そこに自分たちの状況を常に新しくする創造的な働きと喜びがあるのです。このことを体験することが神の子として、新しい人間として生きることです。
 ここで、また忘れてはならないことは、クリスチャンは神の子としての自由と命が与えられていますが、それでも生まれながらの人間としては依然として罪人なのです。罪の誘惑に負けて罪を犯すことが多くあります。宗教改革者マルティン・ルターは「わたしは義人であり、同時に罪人である。」と言いました。クリスチャンは生まれながらの人間としては自分の中には善は少しもないのです。不安と思い煩いに満ちており、悪い思いに捕らわれているのです。しかしそれにも拘わらず、主イエスの十字架の死と復活により、既に義人であり、神の子なのです。それゆえ、神は常に赦しをもってクリスチャンと出会ってくださいます。その神の赦しによって、わたしたちは互いに赦し合うとき、神の子として生きるのです。

(3)アメージング・グレースの心
 アメリカでは開国以来、自分の安全は自分で守ると言う独立心が旺盛で、銃を自由に販売し、銃を所有することが法律で認められています。そのため、銃の乱射により、多くの人命が奪われる痛ましい事件が多発しています。
 昨年6月、白人至上主義の男に牧師や黒人9名が射殺されましたその追悼式にオバマ大統領が壇上に立って力強いスピーチをしていた最中、突然中止して、下を向いて10秒ほど沈黙をしていました。皆が「何をしているのだろう」と思ったとき、オバマ大統領は、伴奏なしでアメージング・グレースの讃美歌を歌い始めると、たちまち参列者は立ち上がって、天を見上げ、大合唱になりました。追悼式の1週間前に、逮捕された容疑者が裁判所に出廷した時、遺族の一人は、モニター越しに男に語りかけました。
 「あなたは私から大切な人を奪いました。もう母に話し、抱きしめることもできません。でも私はあなたを赦します。」「私は自分がとても憤っていることを告白しますが、憎むことはありません。赦さねばなりません。あなたの魂のために私は祈ります。」
 地元の教会で赦すことの意味を説いて来た牧師のブレイルスフォードさんもこの言葉に圧倒されたと新聞に出ていました。アメリカで人種差別と闘っている人たちの長い苦難の歴史を支えたのは実に赦す心です。「我々の歴史は、痛みの歴史です。何か被害を受けたとき、赦さなければ、いつまでも憎しみに支配される。赦すことは、自らを解放することなのです。」という牧師に対して、隣の人が身を乗り出すようにして、「何が起きても、私たちは前進しないといけないからね」と言い、その牧師が「その通りだ」と応じて、二人は顔を見合わせて大きく笑ったと、朝日新聞にアメージング・グレースの歌が紹介されていました。
 この讃美歌の中で、「多くの危険と労苦、誘惑を乗り越え、やっとたどり着いた。こんなに長い道のりを無事来られたのも神の恵み、神の恵みは私を天の故郷に導いてくださる。」という一節を牧師は朗読したと報じられていました。
 神との人格的な交わりは実に神の赦しによるのです。それはわたしたちが古い自分に死に、御子イエスの中に与えられている新しい自分に生き、神の愛を実行するようにさせる赦しなのです。



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