2015-11-22(Sun)

世に勝つ者 2015年11月22日の礼拝メッセージ

世に勝つ者
中山弘隆牧師

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
エゼキエル書36章25~27節


 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
ヨハネの手紙一 5章1~12節


(1)世を支配する力
 今日の日本社会では、人身事故で電車のダイアが混乱することが多発しています。その背後に多くの原因があるでしょうが、詰まる所、この世に蔓延している闇の力の犠牲となった人たちです。本当に痛ましい限りです。また、中学生がいじめにあって自殺したニュースも多く聞きます。
 大江健三郎氏は「イジメにあって悩んだり、苦しんだりするときに、イジメや嫉妬はマイナスのエネルギーで、そこからは何も生産的な力は湧いてこないということを弁えると、それが苦にならなくなる。人は何かを生み出すプラスのエネルギーを持つものに向かって、努力していかなければならない。」と語っておられます。
 このことを良く考えますと、わたしたちは自分の持っている時間や命を闇の力に支配されて、マイナスの方向に用いるか、それともそれに打ち勝って建設的な方向に用いるかが、実に人生を有意義にするために重要な問題です。

(2)闇の力に勝利する
 闇の力は人を惑わし滅亡をもたらしますが、他方人を教え生かす力は愛です。人を愛することは闇の力に打ち勝つことであると言えます。もちろん人を殺す愛もあります。それは利己的な愛で、ストーカーを働くような自己本位の愛です。
 神様が人間に命じられる愛は、自分を愛するように他を愛することです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)という一句によって、神の戒め全体は全うされると使徒パウロは言っています(ガラテヤ5:14)。
 これは自分と同じように他を愛するという意味です。ところで自分を愛するということは決して利己主義でなく、健全な人間の心です。それは自分を受け入れることです。
 具体的に言えば長所と短所のある自分を有りのままで受け入れることです。しかし神様に愛され、神様に受け入れていただくときに、初めてそれは可能となります。そのとき初めて自分を愛するように、他の人を愛することができます。
 それゆえ神様が人間に命じられることは、自分と同じく他を愛することでありますので、そこに共同で何かを造りだすという積極的で前向きの生き方が生まれるのです。

(3)愛することは可能か
 しかし、実際問題として、人は自分と同じように他を愛することが可能であるかという根本的な問いがあります。これは世の思いに従って生きるとき、人はだれでも罪の束縛の下にあるので、他の人を自分のように愛そうと努力しても、不可能であるという厚い壁に突き当たってしまいます。
 従いまして、主イエスはこの壁を打ち破り、「隣人を自分のように愛しなさい」という旧約聖書の戒めを有効な戒めとするために、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言い直されました。 
 ヨハネによる福音書15章12節で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と弟子たちに仰せになっています。
 正にここに愛の可能性が主イエスによって提供されているのです。クリスチャンはこの主イエスが与えられた掟を「自由の律法」と呼んでいますが、その理由は主イエスがわたしたちを愛してくださったという事実に基づく命令であるからです。
 さらに主イエスがわたしたちを愛されたということは、人類の罪を贖うために、ご自身を十字架の死の犠牲に献げられたことです。同時に、それは罪人である全人類のために御自身を与えられたことを意味しています。人類の罪のために主イエスが死なれたことによって、初めて人類の罪が贖われました。その結果、父なる神は主イエスを死人の中から復活されました。復活は天地創造に優る神の創造の業であり、主イエスの復活の中で、すべての罪人は神に従う神の子たち、すなわち神との人格的な交わりの中で生きる新しい人間となったのです。要するに、新しい人間は復活の主イエスの中で神によって創造され、しかも主イエスの中に保存されているのです。
 それゆえ、わたしたちが主イエスを信じるとき、主イエスの中に存在する新しい人間として、わたしたちは神の命令を実行する自由が与えられています。
 ここで、聖書は次のように言っています。
 「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」(ヨハネ一、5:3)
 このように聖書は、神を愛するとは神の掟を守ることですと、はっきりと言っています。この点が一番重要です。ともすればわたしたちは自分の能力により、或いは神から与えられた良い賜物を用いて、神の役に立つようになることが、神を愛することだと考えますが、それは間違っています。なぜなら神の御子が父の命令に従順であることを通して、父なる神を愛されたのと同じように、わたしたちが神に従順であり、神の命令の実行することが、神を愛することであるからです。これが聖書の教えです。
 さらに、聖書は「神の掟は難しいものではありません。」と言っていますが、その理由を次の4節が説明しています。
 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。」(5:4)
 ここで、聖書が「神から生まれた人」と言うのは、人間が神になったと言うのでは決してありません。そうではなく、神によって創造された新しい人間になると言う意味です。この点、主イエスは次のように仰せられました。
 「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)
 このように、神は主イエスの十字架の死と復活の中で、神の子と呼ばれる新しい人間を創造されましたので、主イエスを信じる者には、神の戒めを実行する自由が働くのです。それゆえ、神から生まれた者は、喜んで自ら進んで戒めを実行します。
 この生き方こそ、正に世に打ち勝つことに他なりません。それゆえ、主イエスがわたしたちを愛されたように、互いに愛し合うことこそ、この世に対する勝利となるのです。
 さらに言えば、そのような愛、そのような命とは、この世から出るものではなく、またわたしたちの所有物でもありません。それは全く神の愛であり、主イエスの命です。神の愛がわたしたちの中に働くことにより、わたしたちは互いに愛し合うのです。
 従いまして、現代カトリックの代表的な神学者であるカール・ラーナーは「人は他の者を愛する愛を実行するとき、そのような愛を可能にする者として、神を体験し、神を知る。」と述べています。
 これは実に的を射た深い洞察であると言えます。

(4)永遠の命
 従いまして、ヨハネによる福音書、またヨハネの手紙はキリストの福音を「永遠の命」という視点から語っています。つまり、信仰者が「キリストの命に生きる」という視点から語っています。
 ヨハネの手紙一は1章2節で次のように言っています。
 「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証し、伝えるのです。」
 ここで「永遠の命」とは人間を本当の意味で生かす「霊的な命」です。正に永遠の命は神と共にあったと、この聖句は言っています。しかし今や永遠の命を神は主イエスを通して与えられる、とも言っています。
 神は主イエスを十字架の死から復活させ、復活の主イエスを永遠の命の所有者とされました。主イエスは仰せられます。
 「父は、ご自分の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(ヨハネ5:26)
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)
 従いまして、主イエスはここで「信じるか」と仰せられている通り、わたしたちが永遠の命を受けるのは、主イエスを信じることによってです。さらに、主イエスを信じることは主イエスとの人格的な交わりの中で生きることです。
 ヨハネの手紙一、1章3節はこのように言っています。
 「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」
 人は決して孤独では生きられません。わたしたちは普段から友人や他の人と交際をしています。交際の中で、互いに語り合い、互いに理解し、励まし、助け合います。そこからわたしたちは積極的に物事を考えるようになり、有意義なことをする力が湧いてきます。
 同じように、主イエスとの交際は、主イエスと信仰者が「われと汝」との関係において、出会い、対面します。主イエスは御言葉をもって、ご自身の意志と命令をわたしたちに語られます。同時に主イエスはご自身の命をわたしたちに与えられます。
 それゆえ、主イエスはわたしたちに主イエスの命令を実行することを要求されるのです。そこでわたしたちが主イエスの御言葉に応答し、命令を実行するとき、主イエスとの交際がわたしたちを本当の意味で生かすことが理解できるのです。
 但し、交わりの相手が復活の主イエスでありますので、わたしたちの肉眼では見えませんが、復活の主イエスはわたしたちの存在の中に臨在し、働いておられることが、主イエスとの交際の中で分かるのです。それが信仰です。
 信仰こそ復活の主イエスを見つめる心の目です。なぜなら信仰自身が神の働きであるからです。
 このような人格的な関係と存在的な結びつきを主イエスは譬えで説明されました。
 「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人とつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)
 葡萄の枝は、幹につながっていれば、幹から養分を受け、豊かな実を結ぶように、クリスチャンは主イエスの人格的な交わりによって、主イエスがクリスチャンの中に臨在し、働かれるので、主イエスの命を受け、愛の業を実行することができるのです。
 
(5)最後の勝利の確信
 最後にヨハネの手紙は、世に打ち勝つ者とは誰かという問いを出し、それは神の御子イエス・キリストを信じる者であると、答えています。
 「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」
ところで、聖書の信仰は、ただ神を信じるというだけではなく、「人間イエス」を神の御子メシアとして信じることなのです。
 初期キリスト教の信仰告白は、人間イエスを「主」と告白することでした。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
 これがキリスト教の中心的な信仰告白です。しかし、ヨハネの手紙が書かれた西暦125年頃になりますと、異端が発生しました。「キリスト仮現説」と呼ばれている異端です。それは「神の御子キリスト」とマリアから生まれた「人間イエス」とを区別する見方です。神の子としてのキリストはイエスが十字架に架けられたとき、イエスを離れて天に昇り、残されたイエスだけが死んだという見方です。従って神の御子としてのキリストはただ人間イエスの姿を取って仮に現れたという仮現説です。
 それに対し、使徒的な教会の信仰を告白しているヨハネの手紙は自分たちが信じる救い主は、「御子イエス・キリスト」であり、十字架について死に、復活して神の右に坐し、父なる神の栄光と力を授与された方であると言っています。それゆえ主イエスとは、永遠の神の御子が、処女マリアから人間性を自らの上に取り上げ、ご自身の中で、神であることと人間であることとを結び合わされた方です。
 この結合はイエスの誕生の時も、地上の活動の時も、十字架の死の時も、復活して主となり、神として働いておられる今日も、絶対に断ち切られることはないのです。
 それゆえ、主イエス・キリストは真の神であり、真の人間であることがわたしたちをご自身との交わりの中に入れ、わたしたちを生かす根拠です。宗教改革者マルティン・ルターは、クリスチャンが現在どのような悪魔の攻撃にさらされていても、最終的勝利がキリストによって与えられているので、笑うことができると言いました。 
 実に神の御子イエス・キリストを信じることによる勝利です。



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