2015-11-08(Sun)

主の信仰を信じる 2015年11月8日の礼拝メッセージ

主の信仰を信じる
中山弘隆牧師

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。
イザヤ書42章1~3節


 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
マルコによる福音書9章21~27節


 聖書のいう信仰とは何か。このことはわたしたちにとりまして非常に大切な問題ですが、本日の聖書の箇所は実によくこの点を示しています。讃美歌458番に、「信仰こそ 旅路をみちびく杖、よわきを強める 力なれば」と、歌われておりますように、試練の多い人生を生き抜く霊的力を与えるものが、正に聖書的信仰です。
  
(1)悲惨な現実と不信仰
 「群衆は皆、イエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄って来て、挨拶した」(9:15)
 彼らはイエスがちょうどよい時に来られたのを見て、驚きまた喜んで、イエスのもとに駆け寄りました。しかし、ただそれだけでなく、ここで「非常に驚き」となっています言葉は、他の箇所でも使われております。例えば、イエスの復活されたことを告げるために天使が現れ、それを見た婦人たちが非常に驚いた、と記されています。それらはみな神の救いが現れるときと関係しています。
 それではここで人々はどのような状況の中にいたのでしょうか。
彼らは悲惨な現実の袋小路に行き当たり、今まで持っていた彼らの信仰は全く無力と化しました。そして責任を転嫁して、激しく弟子たちを非難し、弟子たちの側でも必死に自己を弁護していたのです。
 「何を議論しているのか」(9:16)と、イエスが尋ねられたのは、彼らは弟子たちの無能力を批判していたからです。
 「この霊を追いだしてくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(9:18)と言いました。
 人々は弟子たちができなかったことに対して、相手を非難していますが、同時にそれは自分たちの不信仰を露呈しています。イエスの見られた彼らの現実は、苦悩、議論、責任のなすりやいといった混乱と不信仰の暗さそのものでありました。
 「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと共におられようか。いつまで、わたしはあなたがたに我慢できようか。その子をわたしの所につれて来なさい。」(9:19)
 この主イエスの御言葉は、弟子たちと群衆との両方に向かって語られたものです。
主イエスから見れば、弟子たちも群衆も共に、一番必要な信仰を持たないで、子どもを助けることができず、お互いに言い争っているように映りました。
 弟子たちも民衆も神の救いのご計画においては、共に神の民となるべき者たちですが、彼らは神に対する信仰を頑なに拒んでおります。そこに、主イエスが感じられる心の痛み、魂の嘆きがあるのです。
 「いつまで、わたしはあなたがたと共におられようか」というイエスの言葉には、深い嘆息が伺われます。旧約聖書の預言者の嘆きが感じられます。エレミヤはイスラエルの民が悔い改めず、民が救われる時がいつまで経っても来ないので、断腸の思いを致しました。
 「刈り入れの時が過ぎ、夏は終わった。しかし、我々は救われなかった。娘なるわが民の破滅のゆえに、わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。」(エレミヤ8:20~21)
 こうしたエレミヤの断腸の思いが、主イエスの中で、今一層強く現れています。
 「なんという信仰のない時代なのか。いつまで、わたしはあなたがたと共におられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(9:19)という主イエスの言葉の中には、救い主として、十字架の道に進んで行かれる方の気持ちがよく現れています。
 イエスの歩まれた道は試練と苦難の連続でありました。そのような中で、主イエスは自分の信仰によって力を受け、父なる神への従順を全うされたのであります。
 主イエスは常に自らの極限状態を歩いておられましたので、自分にとっては早くこの世を去り、父なる神のもとに至りたい、という願いを持っておられました。
 しかし、他方で弟子たちや民衆が真の信仰を持つようになるためには、自分が少しでも長くこの地上にいる必要があるとの思いもあったことでしょう。そのような思いの板挟みの中で、このような嘆息が漏れるのです。
 「いつまで、あなたがたに我慢ができようか。」と仰せられた主イエスの御言葉は、単に弟子たちや民衆に語られただけではなく、実はわたしたちに対しても語られているのだと、思います。
 信仰が足りなくて、思い煩い、希望がもてず、右往左往しているわたしたちに対して、発せられた言葉であります。わたしたちは少し困難に遭遇しますと、気持ちが動揺し、不信仰に陥ってしまいます。
 また、将来のことは常に不確定なので、人は思い煩います。不安のために神経を消耗させるほど悩むのです。

(2)イエスの信仰
 主イエスは耳が聞こえず、言葉が語れないと言う二重の障害を持った子供に向かって、「その子をわたしのところに連れて来なさい。」(9:19)と、仰せられました。
 するとどうでしょうか、子どもの状態はよくなる兆しを見せるどころか、かえって前より悪くなりました。父親はそのような絶望的状況の中で次のようにお願いしました。
 「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい。」(9:22)
 父親は子を愛する気持ちから、止むに止まれずそうお願いしたのです。しかし、余りにも絶望的状態でありましたので、出来ないだろうという思いが彼の心に重苦しくのしかかっていました。
 わたしたちは自分のことを冷静に考えてみますと、もしこのような事態の中にいたとすれば、この父親と同じだと思います。
 そこで、主イエスは仰せられたのです。
 「『できれば』と言うのか。信ずる者には、何でもできる。」(9:23)
 この御言葉は主イエスご自身の信仰を如実に言い表しております。しかし、そこには誘惑に対する真剣な戦いがありました。ヘブライ人への手紙は5章7~8節で次のように言っています。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫びをあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」
 実に、主イエスこそ、信仰によってどんな事でも出来た人です。それでは人間が神を信じる、または信頼するとはどういうことなのでしょうか。それには三つの点があります。
 第一点は、神を信じる者は、自分の弱さ、無力さを自覚するということです。主イエスは御子でありましたが、真の人間となられましたので、自分の弱さを熟知しておられました。なぜならば、主イエスはこの世的な地位や権威や財力と言ったものは何一つ持ち合わせておられなかったからです。
 パリサイ人や祭司たちから、「あなたは何の権威によって、これらのことをするのか。」(マルコ11:28)と攻撃されたのです。
 それゆえ、主イエスは常に神に寄り頼み、神に祈られたのです。
 第二点は、信仰とは神が全能者であると、確信することです。人は神を創造者として信じるのですが、本当に神様が何でもできると信じているでしょうか。この点が大いに疑問です。大抵の人は、こんなに難しい病気は神様でも癒すことはできないだろうと考えます。
 しかし主イエスは、「人には出来ることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と仰せられました。これが主イエスの父なる神に対する信仰だったのです。
 神が全能であると言うイエスの信仰は、決して教理的な概念ではなく、生きて働いておられる人格的な神を信じることです。
 つまり、父なる神が人間の問題に対処される場合に、ご自身の義を貫徹される仕方で働いておられることに直面して、そのように働かれる方が真の神であると信じられたのです。
 それは生ける神と直面することによって、引き起こされる信仰です。同時に、その信仰はイエスの中に父なる神が臨在し、働いておられるからです。イエスの信仰は父なる神の働きによる信仰です。
 そのような信仰を持って、イエスは耳が聞こえないということと、言葉が話せないという二重の障害を背負っている人を神は癒すことができる、と信じられたのです。
 第三に、信仰者にとっての問題は、「信じる者には、どんな事でも出来る」という点です。
 この点で救い主としてのイエスの信仰が発揮されています。実際問題として、神の全能の力は主イエスのこの信仰を通して具体的に働きました。
 主イエスは中風の患者に向かって、「あなたの罪は赦された。」と宣言し、「床を取りあげて歩め。」と命じられました。わたしたちは主イエスが神の御子であるから、このような言葉が発せられるのだと考えがちです。しかし、主イエスがそのように語り、そのように行動されたのは、イエスの信仰を通してであったことを決して見逃してはなりません。
 従いまして、主イエスが神を知り、神の御業を行われたのは信仰を通してであります。この点では、わたしたちと共通しています。しかし、それにも拘わらず、わたしたちの信仰と主イエスの信仰とは決定的に違います。「信じる者は何でも出来る」という確信が主イエスの信仰でした。どうしてでしょうか。
 それこそ、イエスが神の御子であるからです。わたしたち人間と異なる御子イエスの特質は、イエスは父なる神から愛されているからです。それゆえ父なる神の愛を常に自覚しておられる御子イエスの父なる神に対する愛は、子として父に従順であると言うことです。 
 父に従順であるイエスの信仰もそれゆえに、父への従順の信仰なのです。これが神の御子イエスの信仰の特質です。
 この信仰の特質により、イエスは信仰によって何でも出来ると、極自然に信じておられたからです。イエスにとってはそのように信じることが極めて当然の事柄であり、むしろそのように信じないことが不自然なことでした。この点が主イエスの信仰の特異性であります。正に、この信仰は神の御子イエスの信仰であり、イエスの中に常に働いている聖霊による信仰なのです。
 従って、本当の信仰をもっておられた方は、主イエスだけです。
 主イエスを通して、真の信仰がキリスト教会に啓示されたのです。
 この点に関して、使徒パウロはキリストの到来と同時に信仰が到来したと、ガラテヤの信徒への手紙3章23~25節で次のように言っています。
 「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。--しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」
 こういう意味で、ヘブル人への手紙も「イエスは信仰の創設者であり、また完成者である。」(ヘブル12:2)と言っています。

(3)イエスに向かって叫ぶ
 今や、病める子どもの父親は、自分の目の前にこのような完全な信仰を持って立っておられる主イエスと対面して、自分の不信仰を痛感しました。主イエスは子どもが癒されると堅く信じられました。それに引き替え、自分は子どもが癒されるとは信じられなかったのです。父親は主イエスの信仰と自分の不信仰との対比が心に焼き付くほど鮮明に感じました。
 そして、あなたの子どもは癒されると信じて、自分の前に立っておられる主イエスにより頼んで、父親は次ぎのように叫びました。
 「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」(9:24)
 ギリシャ語では、「信じます。わたしの不信仰をお助け下さい。」となっています。生まれながらの人間の信仰はあってもなくてもそれは不信仰なのです。自分では信仰深いと思っていても主イエスから見れば、不信仰なのです。
 クリスチャンは皆、主イエスの信仰の圧倒的な力に直面し、自らの信仰ではなく、主イエスの信仰によって立つのです。
 そして、「信じます。わたしの不信仰をお助けください。」と主イエスに向かって祈るのです。このように主イエスに向かって叫んだ父親は実に主イエスの信仰によって愛する子どもを癒されました。 
 実に、主イエスを信じる者の中に働く信仰は、聖霊による信仰です。しかし、聖霊による信仰とは主イエスの信仰を聖霊がクリスチャンの中に働かせるのです。なぜならば、聖霊は父なる神と主イエスから出るからです。



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