2015-10-25(Sun)

信仰による神の義 2015年10月25日宗教改革記念日礼拝メッセージ

信仰による神の義
中山弘隆牧師

 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記15章2~6節

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ローマの信徒への手紙3章21~26節


(1)宗教改革の原点
 本日の礼拝はキリスト教会にとって非常に大きな意義を持っている宗教改革を記念する礼拝です。
 今から498年前の1517年10月31日に、ローマ・カトリック教会のアウグスチヌス会の修道士マルティン・ルターが、ヴィッテンベルグ教会の扉に、カトリック教会が発行していました免罪符について95の論点を掲示し、公開討論を呼びかけました。
 これが発端となって、乾ききった草原に火が燃え広がるように、宗教改革の嵐はたちまちヨーロッパ全体に及びました。当時のヨーロッパの人々は一人残らず、自分はプロテスタントに属するか、それともカトリックに属するかの決断を迫られるようになりました。実に、ヨーロッパ全体に及ぶ宗教運動は、他方で社会的、政治的、経済的、文化的な面を巻き込んだ運動でもありました。
 しかし宗教改革の中心はあくまでも信仰の問題でした。人間の救いに関わるキリストの福音とは何か、信仰とは何かが真剣に問われたのです。従いまして、宗教改革の原点は神の御前での魂の平安を求めて、修道院に入り苦闘していたマルティン・ルターの体験にあると言えます。
 彼は聖書の研究を通してキリストの福音を再発見し、それによって神の与えられる魂の平安を体験することができたのです。彼は免罪符に関する公開討論を呼びかける数年前に、既にこの体験をしていました。
 彼はドイツで有名なエルフルト大学を卒業し、さらに父親の願いによって、エルフルト大学で法律学の勉強を始めた途端に修道院に入りました。それは彼が以前から自分の存在を破滅に陥れるような恐怖に襲われ、自分は闇の中をさ迷っているという不安を感じていたことが原因です。つまり、ルターは自分が神の御前から締め出されていると考え、魂の平安を求めて、修道院に入ったのです。 
 見習いの修道士なって間もなくヴィッテンベルグの修道院に移され、同時にヴィッテンベルグの神学校で神学を学びました。そこでは修道士として要求される仕事に励み、しばしば司祭のもとに行って罪を告白し、執り成しの祈りをしてもらい、罪の償いのために課せられる祈りと、奉仕と苦行を熱心に果たしましたが、魂の平安は得られず、数年にわる苦闘が続いたのです。
 彼は24歳のとき司祭になり、29歳のとき神学博士の学位を取得し、聖書の講義をする教授の地位が与えられました。そのころ、詩編の講義、ヘブライ人への手紙の講義をしながら、魂の平安を求め続けたのです。
 ヴィッテンベルグの修道院の庭にある塔の一室が彼の書斎となっており、そこで1511~1512年にかけてルターはローマの信徒への手紙を研究しました。
 その中で、1:17節の言葉を熟慮しているとき、彼の心を啓示の光が照らしたのです。
 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」
 ここで「神の義」という言葉を、これまで自分が理解していたのとは全く違う意味で聖書が語っていることに気づきました。なぜなら「信仰を通して神の義が実現する」という神の義は、ルターが考えていたように人間の罪を罰する「神の怒り」を意味しているのではなく、「罪人に与えられる」神の義であると、気づいたからです。
 神の義とは主イエス・キリストが罪人のために、罪人に代わって、達成してくださった「神への従順による義」を意味していると確信したのです。その時ルターはローマの信徒への手紙の言葉を、信じる者に神の義が無償で与えられると理解することができました。
 ルターは実に、このことによって長年求め続けた魂の平安を遂に見いだしたのです。実に、神の義に対するこの理解によって、神ご自身がルターと出会ってくださったことを体験したのです。
 神はルターにご自身を示し、神の義を与え、恵みを与え、神の御前に生きるようにしてくださいました。言い換えれば、永遠に変わることのない「神との正しい関係」に入れられたのです。
 聖なる神と出会い、神との人格的な交わりを与えるこの関係は、キリストの贖いによる絶対的な罪の赦しに基づいた不変の関係です。すなわち、救いの根拠です。実にこの確信こそ宗教改革の原点です。

(2)信仰のみ、恵みのみ
 次に、この「ルターの確信」が福音を正しく理解するための啓示の光となりました。彼はアウグスチヌス派の修道院で、アウグスチヌスの神学と聖書解釈を研究して来ましたので、これまで救いは「神の恵みによってのみ」与えられることを理解していました。今や、この体験によって「信仰」と「神の恵み」が結びついたのです。神の恵みは信仰によってのみ、恵みであることを知ったのです。
 このとき、ルターはそれまでは救いに関するカトリック教会の教理に従って救いを求めていたので、自分の苦悩の原因がどこにあったのかが判明しました。なぜならばカトリック教会の教えによれば、信仰者は神の恵みによって、神の命令を実行し、「実際に正しい者」となるとき、救いに入れられるのだ、と言えるからです。
 ルターはこの教理に従って、神の最後の審判を思う度に、自分は必ず滅びるという不安が誘発され、魂に平安がありませんでした。その原因は神の義が罪人に審判を下す神の基準であると考えていたからです。自分は神の審判の基準に達していないことがよく分かっていたからです。
 さらに、カトリック教会の教理では、「救いは神の恵みと人間の協同の業による」という救いを構成する二つの要因があります。従って救われるために、クリスチャンは神の恵みを使用して、自分が達成する功徳が必要である、と言うことになります。
 そうしますとクリスチャンは努力しても、死ぬときに功徳が足りず、実際にまだ正しい者となっていないので、普通のクリスチャンは、天国に入る前に、一旦煉獄に行って、そこで罪から清められなければならないのです。同時にカトリック教会には、自分が救われるために必要である以上の功徳を達成した聖人達の余剰功徳がプールされています。従って功徳の足りない人達にカトリック教会は乗除功徳を分け与えることができると言う教理があります。
 そこから、免罪符を販売すると言う宗教の堕落が始まりました。なぜなら功徳は販売するものでなく、無償で与えるえるべき性質のものだからです。
 ルターがヴィッテンベルグの教会の扉に張り付けた95の論題の第62条項では、教会の「本当の宝」とは「聖人たちの剰余功徳」ではなく、「神の栄光と恵みの最も清い福音である」と言っています。
 ドイツでは免罪符の効用を宣伝する説教者の周りに多くの人が集まり、免罪符を購入しました。他方そのようにしてドイツの貨幣が吸い上げられイタリアに持って行かれ、大きな損失を被っていましたので、ドイツでは免罪符に反対する気風が広まっていたのです。

 ルターは「二種類の義」と題した説教の中でも第62条項の説明をしています。そこでキリストの功績は、クリスチャンが自分の善き業によって獲得する自己の功績ではなく、キリストが「誕生から十字架の死に至るまでの生涯」において、神に対する徹底的な従順の歩みによって達成されたことによる「人間のための義」であると言っています。
 そして神はキリストを信じる者にキリストの義を無償で与えると、神の権威を持って決定されたので、人間は神から正しい者と認められるのである。それゆえ感謝と喜びを持って、神の命令を実行することができる。つまり人は神の恵みによってのみ、信仰によってのみ救われると語っています。

(3)神の義とクリスチャンの自由
 次に、本日の聖書の箇所では神の義がさらに詳しく説明されています。
 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。そのように神は忍耐をしてこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自身が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ローマ3:25~26)
 ここに、三つのことが宣言されています。一つは神が「正しい方」であるということ。一つは神が人間の罪に対する裁きを、「直接一人一人の人間にではなく、御子イエス」において執行し、「神の義」を達成されたこと。一つは、それゆえ神は「イエスを信じる者を義とされる方」であること。この三点がはっきりと述べられています。
 つまり、神は人類の罪を贖い、人類を神の御前に正しい者とするために、キリストを罪の贖いの犠牲として、神の前に備えられたと聖書は言っています。この点が重要なのです。神は罪人に対する御自身の義を貫徹する裁きを行うために、罪人の代理者として最愛の御子イエスを裁かれました。ここに神の愛が最高に啓示されました。言い換えれば、罪人に神の御子イエスを与えられたのです。それは「贖罪愛」です。ここに「神の義」と「恵み」が一つであることが啓示されたのです。
 それでは、キリストの死による罪の贖いはどのような効果をもたらしたのでしょうか。
 エフェソの信徒への手紙は、次のように言っています。
 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1:7)
 この福音の言葉は、主イエスの贖いが信じる者たちに対して日々罪の赦しを与える、と言っています。確かに、わたしたちは弱い者で、日々罪を犯します。また主イエスに従い、愛の業を行い、神の御心を実行することの極めて少ない者たちです。
 しかし、主イエスを信じて、主イエスと結ばれているわたしたちは、自分の現状がなんであっても、それとは全く無関係に、わたしたちの罪が神の御前に日々赦され、わたしたちは神の御前に立ち、神との人格的な交わりに入れられるのです。それはキリストの贖いにより、信じる者は神の絶対的な赦しの中に置かれているからです。 
 ここに主イエスを信じる者の確信と魂の平安と喜びがあります。それが信仰義認です。ここに信仰義認によるクリスチャンの自由があります。
 それではその自由とは何でしょうか。それは自分の中にある罪と戦い、それに打ち勝つ力が与えられていることです。なぜならば、キリストは十字架の犠牲の死によって、これまで罪人を支配し、隷属させていた罪の束縛を取り去られたからです。しかし、これはクリスチャンが罪を犯さなくなる、罪は最早クリスチャンの中に働かなくなると言うのではありません。
 そうではなくクリスチャンに与えられている自由によって、罪に勝利すると言う意味です。言い換えれば、それは消極的な自由です。
 他方、キリストによって、クリスチャンの中に積極的な自由が与えられています。それこそ信仰義認によって与えられる自由です。

 それはクリスチャンが信仰によって、キリストと結ばれているときに、神の命令を喜んで、自ら進んで、実行することができるのです。これが積極的な自由です。
 この点でも、エフェソの信徒への手紙は次のように言っています。
 「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備をしてくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行なって歩むのです。」(エフェソ2:10)
 この意味は、わたしたちはキリストの十字架の死と復活により、「復活のキリストの中」に存在する「新しい人間」として創造されているということ。それゆえキリストの中で、わたしたちが実行すべき愛と善い行いも既に備えられていること。それゆえに、わたしたちは主イエス・キリストに従い、神の御心を実行するということです。これが積極的な自由です。
 神が人間の救いのすべてを既に御子イエスの十字架の死と復活の中で達成されたという神の事実に基づいて、クリスチャンが主イエスに従い、良い業を行うことによって、神の恵みを明らかにし、神の栄光を現すのです。この生き方が永遠の御国へ向かう歩みです。
 今や復活の主イエスはクリスチャンの中に臨在し、働き、導かれるので、クリスチャンは主に従うのです。主イエスはわたしたちに、「わたしに従う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい。」(マルコ8:34)と仰せられます。
 この命令はわたしたちが主イエスによって与えられている自由を使用して、悪い行いと共に、生まれながらの古い自分を捨てること。同時に自由を使用して、善い行いをすると共に、主イエスの中に与えられている新しい自分に生きること、この二つを日々繰り返しながら、わたしたちは終わりの日の復活を目指して歩むのです。



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