2015-10-18(Sun)

岩の上に家を建てる 2015年10月18日の礼拝メッセージ

岩の上に家を建てる
中山弘隆牧師

 何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6章6~8節


 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
マタイによる福音書7章24~29節


(1)神の命令としての律法
 主イエスは信仰者が行うべき神様の命令について、山上の説教の中で教えられました。旧約聖書の中で人間に対する神の命令は律法として伝えられています。しかし、神の律法についてユダヤ教の律法学者たちが教える仕方とイエスの教え方は、全く異なっていましたので、イエスの話を聞いた群衆は非常に驚いたのです。
 「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者たちのようではなく、権威ある者として教えられたからである。」(7:28~29)

 律法学者たちの教え方は、律法に関する解釈を代々受け継ぐと言う仕方でなされました。先代の何々と言う律法学者はこのように言った。さらにその前の何々と言う律法学者はこのように教えたと言って、彼らの教えを正確に弟子たちに伝えることが律法学者の任務でした。
 そのような律法学者の連鎖を遡ると旧約時代の最大の預言者であるモーセの言葉に至ると主張していたのです。律法学者の立場からすれば、律法の権威は神様がモーセに律法を語られたことにあるのです。 
 しかし、モーセの律法を後世に伝えた律法学者たちは、モーセの言葉をその通りに伝えること、その意味を解釈することにより、神様が語られた本来の意味から外れて、単なる人間の言い伝えとなってしまったのです。ここに彼らが教える律法は、神様の本当の意志を不鮮明にする結果に陥ってしまいました。
 その理由は彼らが神様の重要な命令の周りを、人間の言い伝えの細かい規則で何重にも取り囲み、細則も含めたすべての規則の拘束力は皆同じである、と主張したからです。この点、イエスは厳しく告発されました。
 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、ウイキョウの十分の一をささげるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」(マタイ23:23)

 律法学者たちの人間の権威に対して、主イエスは神の権威をもって、律法の本当の意味を明らかにされました。そのイエスの教えが、マタイ5:21~7:12に記された山上の説教に記されています。
 イエスは、父なる神との直接的な交わりの中で、本当の律法を父から示され、また父なる神への愛と従順をもってそれを実行されたのです。イエスは神の御子であり、真の神でありますが、同時に真の人間となってこの世に遣わされた方なので、わたしたちと同じ条件のもとで、世界に蔓延している悪と罪の誘惑とに戦い、それらに勝利して、神の律法を実行されました。
 そのような方は人類の中でただ一人、イエスだけです。それゆえ、イエスは仰せになりました。
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)
 そういう方として、イエスは山上の説教の締めくくりの部分で、ご自身の語られた言葉を実行せよと、聞く者たちに仰せになりました。

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(7:24~25)
 岩を土台とした家は、豪雨となり、川が氾濫し、暴風が襲っても倒れないで持ちこたえます。他方、平らな砂地は家を建てるのに適しているように見えるのですが、パレスティナ地方では、そこはワディと呼ばれる川床なのです。乾季の時はワディに水が全くありませんが、雨期になりますと、激流が押し寄せます。もしそこ家を立てるならば、たちまち崩壊する運命にあります。
 この譬で、岩の上に立てた家とは、「信仰者の人生」を表しています。長い信仰生活の中では、様々な困難や試練と遭遇します。信仰を堅持することのできる者は、イエスの教えを神の命令として、実行する者だけであります。
 なぜならば、イエスの教えと命令を実行することによって、イエスの命と神の力がその人の中に働きますので、困難に打ち勝つことができるからです。イエスの教えや命令を知っているだけでは、何の役にも立ちません。なぜならば、イエスの言葉を実行しない者には神の霊的な力や神の愛が働いていないからです。
 英国で福音を伝道しましたバンヤンが1678年に書いた「巡礼者の旅路」という題名の本は、信仰の糧として多くの人々に愛読されました。その中で、主イエスを信じて、主イエスに従っている者と、信仰のことを単なる知識として知っている者との違いは、試練に出会ったときに明らかになると言っています。思わない災難に遭遇し、そこから脱する方法が見つからず恐れ苦しむとき、信仰が単なる飾りでしかない者はその試練に躓いて、主イエスを疑い、信仰を捨て、主イエスから離れて行くようになる。それに対して、本当に主イエスに従っている者は、試練の中で苦しみ悩んでも、試練に耐え、乗り越える道が備えられる。信仰が揺らぐことがなく、むしろ強化されるとバンヤンは言っています。試練の中でも、行倒れることなく、通り過ぎることができるのは自分の知恵や力ではなく、実に神の守りと力によります。その際に本当に神を信じ、神に従っている者でなければ、人間の目には見えない神の働きと人知を越えた神の計画に寄り頼むことはできません。そこで信仰が本物であるか、偽物であるかが試されるのです。バンヤンは信仰に関する単なる知識だけでは、人は天国への旅路を進めることができないということを、自分は試練を通して悟ったと言っています。

(2)偽善者たちの限界
 次に、天国に向かって進んでいると自称しながら、自分ちも天国に入らないし、他の人も入らせない偽善者たちが多くいます。主イエスはモーセの座に就き、人の言い伝えによって、権威を装っているイスラエルの宗教指導者たち、とくに律法学者たちとファリサイ派の人たちの偽善を暴露されました。
 第一の偽善は、モーセの律法を厳密に守って、善き業の功績を持っている者だけが天国に入ることができるという主張です。 
 これはユダヤ教の律法主義です。しかし人は律法を行う功績によって救われるのではありません。罪人であるわたしたちは主イエスにある神の恵みによってのみ救われるのです。イエスは神の国が幼子のような者たちのものである、と仰せになりました。
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない。」(マルコ10:14~15)
 子どもは決して自分の功績を主張せず、神の国を神の恵みとして素直に受け取るので神の国に属していると、主イエスは言われたのです。
 神の国とは、神の支配のことです。神の直接的な支配のもとで、神との人格的な交わりが与えられ、神の命令を実行することによって生きる場所です。本来、神の国が完成するのは、歴史の終わる時ですが、神の国は主イエスを通して、すでに歴史の中で開始しています。
 第二の偽善は、彼らは律法の細則を非常にたくさん定め、それを厳密に守っていると自認していますが、実は彼らはそのことによって、神の重要な律法を守っていないのです。律法学者たちが定めた細則は、熱心な者であれば自分の力で守ることができる種類の命令でありますので、それを実行していた律法学者たちは自分の義と功績を主張していました。しかし彼らの実行した律法は実は神の命令ではないのです。 
 この点をイエスは指摘されました。
 「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』と言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にすると言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」(15:3~6)
 第三の偽善は、彼らが身体の外面を清めても、心の中は汚れているということです。この点について、イエスは厳しい批判をされました。
 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」(23:25~26)
 実にここに人間の罪の実体が心の中に潜んでおり、そのような人間は神の律法を実行することができないという厳しい現実があります。いわばそれは罪人を取り囲む不可能の壁です。

(3)律法の実行を可能にする主イエス
 この壁を打ち破るために、すなわち、罪人である人間が罪の束縛から解放され、神の意思を知り、それを実行するようになるため、御子イエスは父なる神のもとからこの世界に遣わされました。そこで、神から遣わされた御子イエスの使命には二つの側面があります。
 第一は、人間に対する神の命令である「本当の律法」を示し、それを実行することです。御子イエスは父なる神に信頼と愛を持って徹底的に従順でありましたので、「父なる神の意思」を父なる神から直接聞き、それを知り、理解し、弟子たちに語られました。
 「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行なっておられるのである。」(ヨハネ14:11)と仰せられた御子イエスは父なる神との直接的な交わりの中で、神の意思を知り、神の意思を語られたのです。
 同時に、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることは何でも、子もその通りにする。」(ヨハネ5:19)と仰せられた御子イエスは、父なる神との人格的な交わりの中で、父への絶対的な依存と従順により、父の意思を完全に行っていると仰せられました。
 それは御子イエスに対する父なる神の愛の中で、御子イエスは父の意思に従い、それを実行することが、また御子イエスの父なる神への愛であるからです。このように人類の中で誰も実行することのできなかった神の命令を完全に実行された方こそ、御子イエスです。しかし御子イエスの実行されたすべてのことはわたしたちのためなのです。
 第二は、御子イエスご自身が、わたしたち人間の義と贖いと命と自由となるためです。正にそのために、罪のない御子イエスが人類の罪を背負って、十字架の死による神の裁きを受けられました。その際に御子イエスは神の裁きの目的を理解しておられました。
 すなわち裁きを通して、人類の罪を贖い、罪人を罪の束縛から解放し、罪の赦しを与えること。無罪とすること。さらに神の裁きの意図はより積極的に罪人を「義なる人間」とすること、神の意思を実行する新しい人間とすることを理解しておられました。
 それゆえ御子イエスは死の極みまで神に対する従順を全うされたのです。その結果、御子イエスの死は人間に対する「神の義の要求」を完全に満たし、御子イエスの死は父なる神の御心に適ったので、父なる神は御子イエスを復活させ、天地万物の主とされました。つまり、罪人である人類に対する神の裁きの目的は、御子イエスの死と復活によって達成されました。
 その結果、復活の主イエスが「わたしたちの義と贖いと命と自由」になられたのです。同時に、神は罪人を御子イエスの義と贖いと命と自由によって生きる「新しい人間」にされました。そして新しい人間の存在を主イエスの中に置かれたのです。それゆえ、今やわたしたちの「新しい存在」は、わたしたちの中にではなく、主イエスの中に与えられているのです。
 これが主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち人間のために生起した出来事であり、神の「究極的な判決」であり、啓示なのです。最早それ以上の啓示はない「究極の啓示」なのです。
 今や復活の主イエスは昨日も、今日も、未来も、永遠に生きて働いておられる主権者です。世界の歴史の唯一の支配者です。神の究極目的である人類の救いと被造物世界の完成を実現するために働いておられる主権者です。
 正にその復活の主イエスは御言葉をもってわたしたちと日々出会い、信じる者の中に臨在し、働かれるのです。主イエス・キリストを「信じる」とは、主イエスの十字架の死と復活において与えられた神の究極的な啓示を「受け入れ」、その啓示に「服従する」ことです。実にその信仰によってわたしたちは主イエスと結ばれるのです。そのような者として神の御前に生きるのです。
 それゆえ主イエスはわたしたちの存在の基盤です。救いの岩です。
 「この岩の上」に立てられた者として、わたしたちは主に従い、主の命令を実行するのです。
 なぜならば、わたしたちの中に「すでに自由」が与えられているので、主イエスの言葉を実行することができるからです。「そのような者」として、主イエスはわたしたちに「御言葉を実行しなさい」と命じておられるのです。



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