2015-10-04(Sun)

神に栄光を帰す信仰 2015年10月4日の礼拝メッセージ

神に栄光を帰す信仰
中山弘隆牧師

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
エゼキエル36章22~24節


 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
ローマの信徒への手紙4章13~25節


(1)生ける神を信じる
 聖書では、アブラハムは信仰の父と呼ばれています。それでは、アブラハムの信仰とはいかなる信仰でありましょうか。本日の聖書の箇所に次のように記されています。
 「『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてある通りです。死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」(4:17)
 ここでアブラハムは多くの民の父と定められたとは、彼の子孫のことではなく、彼の信仰を受け継いだ「神を信じる多くの民」の父となったと言う意味です。それではアブラハムは神をどのような方として信じたのでしょうか。実に、アブラハムは死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。これは真に大変なことです。神を信じるとは自分の都合の良いように中途半端な気持ちで信じているのではありません。神を神として、神を聖なる方として、真剣に信じることです。世の中にはご利益を求めて神仏に祈る人が多くいますが、自分が存在していることは当然のこととして、自分の欲しい物が与えられるように祈っています。しかし、自分の存在そのものが、実は神によって造られ、保たれていると信じている人は余り多くいません。
 それに対して、聖書の神は人間の存在そのものを呼び出される方、無から有を呼び出される方、それゆえ、しかも御言葉をもって語りかけ、御言葉を通してご自身を示し、人間と出会われる神です。それゆえ、神は御言葉を聞くわたしたちに応答を求められます。
 神ご自身の存在から発せられる御言葉を人は聞き流したり、無視したりはできません。なぜなら御言葉には神の無限の力が秘められているのです。そして人間に御言葉が語られるとき、わたしたちは良心に目覚めるからです。
 他方、自分は神様の言葉を本当に聞いたのだろうか。それは自分の錯覚に過ぎないのではないか。そのような思いが交差する中で、わたしたち人間は祈るより他ないのです。
 熱心に祈ることによって初めて神の言葉が段々と確かになるのです。アブラハムは神の御言葉を自分の心の中で繰り返し考え、神が確かに語っておられることを知り、応答しました。そのようにしてアブラハムは生ける神と出会いました。
 聖書はアブラハムが「その御前でわたしたちの父となった」と言っていますが、「御前」とは神が臨在される場に「面して」と言う意味で、生ける神と出会っていることを意識しつつ、神を信じたのです。それゆえ神を信じるすべての者の父となりました。
  
(2)御言葉に対する応答
 次に、聖書は創世記12章でアブラハムは神からどのように呼びかけられたかを記しています。
 「主はアブラハムに言われた。『あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。----』アブラハムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12:1~4)
 このように彼は神の大いなる約束の言葉を聞き、信仰をもって、応答せざるを得ませんでした。
 その理由は神が人間に御言葉を語られるとき、そしてわたしたちが神の御言葉を真剣に聞くとき、神は「わたしたちの心の中」に臨在されるからです。そのときわたしたちは他のいかなるものも媒介にせず、神と直接に出会うのです。
 もちろん神は人間や他の被造物とは異なり、目に見える神ではありません。しかし、わたしたちが神の言葉に聞こうとするとき、御言葉を語っておられる神が目の前に存在し、働いておられることが分かります。実に生ける神が自分に対して人格的に出会っておられることを知って、神を信じることが聖書の信仰です。
 それ以外に信仰の確かさはありません。もし信仰の確かさを求めて、御言葉以外に奇跡や予期せぬ幸いの「しるし」を欲しがるならば、それは神が求められる信仰ではありません。

 しかし、御言葉を通して真の生ける神が自分に直面しておられることを知ると、人は自ら進んで信じ、喜んで神の言葉を受け入れ、御言葉に従います。
 主イエスは弟子たちに天国の譬え話を多くされましたが、わたしたちの心を強く打つ譬えがあります。それは畑に隠された宝を発見した農夫が取った行動です。
 「天の国は次にようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)
 畑に隠されている宝とは、主イエスを通して神の国が到来しているという霊的な無尽蔵の宝です。それは人の目に隠された形で到来しているのですが、主イエスの言動を良く注意し、主イエスの御言葉に応答する人は、主イエスの中に与えられている霊的な宝を発見します。それゆえ、あらゆるものを犠牲にしても、喜び勇んで主イエスに従う人生を歩み出します。これがクリスチャンの信仰であり、心が熱く燃える信仰です。

 さらに、神の恵みを約束する御言葉は、同時に命令を伴っています。アブラハムに対する命令は「あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」という内容です。
 古代世界では、自分が属している部族から離れて遠くに行くならば、いつ生命と財産が奪われるかもしれないという大きな危険が待ち構えていました。
それにも拘らず、神がそのように命じられたのは、そのことを通して、神の創造的な力が働くためでした。
 信仰とは、御言葉をもって語られる神の意志に従うことです。アブラハムは行く先がどのようになっているのか皆目見当がつかないまま、遠い旅に出発しました。実に、この態度が神の呼びかけに心底から応答したことを示しています。彼は神の約束を信じ、神にすべてを委ね、神が導かれる未知の未来に向かって歩み出したのです。
 真に大きな冒険をしました。しかしそれは賭けをするのではありません。どこまでも信じて従っていくことです。彼の生涯は、山あり、谷ありの険しい道を歩むことでした。
 彼が神の命令に従って、新しい土地に来て先ず分かったことは、既に土地を所有している民族がいるという厳しい現実でした。明らかにそれはアブラハムの期待に反したことでした。それにも拘らず、信仰は弱まりませんでした。神は歴史を貫く長い時間を経て必ず約束を実現されると考え直して、そこに居住したのです。
 このように信仰者は予期しない困難に遭遇するとき、自分の信仰が試されます。様々な形で疑いが起こるのですが、それにも拘らず信じるのが聖書の信仰です。
 アブラハムはそのような信仰者として、神を礼拝しました。
 「アブラハムは、そこからベテルの東の山に移り、西にベテル、東にアイを望むところに天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。」(創世記12:8)
 新しい土地に来て先住民族の間で、寄留者としての生活を余儀なくされたアブラハムは、主のために祭壇を築き、御名を呼ぶことを生活の中心に据えました。それは礼拝を中心とする生活です。
 実に、アブラハムは礼拝をして神の意思を知り、神に祈り、神に従うために、呼び出されたのです。それはこの世的な繁栄ではなく、歴史を支配しておられる神を礼拝し、神の恵みと導きの中で、霊的な豊かさを経験し、神を知り、崇め、賛美することがアブラハムに与えられた祝福であることを知らせるためでした。
 そのようにして、アブラハムは疑いを乗り越えて信じ続けることができたのです。

(3)神に栄光を帰す信仰
 次に、アブラハムの遭遇した最大の危機は、自分の財産を相続させる嫡子が与えられないという試練でした。妻サラはもう子を産むことは不可能であると言う絶望の淵に陥りそうなとき、アブラハムは神の約束を信じたのです。
 「そのころ彼は、おおよそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、しかも妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱りはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(4:19~21)
 アブラハムは自分も妻サラも全く無力で、人間的には神の約束実現は不可能であると言う極限状態の中で、神は真実な方であり、約束されたことを必ず実行される、しかも人間は不可能であっても神には可能である、神は全能であるから、と神に栄光を帰し、神を賛美する信仰を持ったのです。
 この信仰とは実に不思議な信仰です。神を信じ、神を神として崇め賛美するとき、正に人間の疑いに勝利する信仰の光が輝くのです。これがアブラハムの信仰でした。それゆえ聖書は言います。
 「だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」(4:22)
 神はアブラハムのその信仰を御前に有効な義とされたのです。神はアブラハムの信仰を義と認められたのです。それがアブラハムの場合の「信仰義認」です。聖書は「信仰義認」によって、アブラハムに与えられた神の約束が成就し、彼の嫡子が与えられ、その後彼は多くの信仰者の父となることができたのだ、と言っています。
 それに対して、クリスチャンの場合はどうでしょうか。パウロは次のように言っています。
 「わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるさめに復活させられたのです。」(4:24)
 パウロはクリスチャンが十字架につけられて死なれたイエスを父なる神が復活させられたと信じることが神に対する本当の信仰であると言うのです。そのようなクリスチャンの信仰を神は義と認められるのです。アブラハムが人間的には全く不可能な事態に直面しながら、神に栄光を帰する信仰が義とされたことは、クリスチャンの場合にも相通じているのです。
 イエスが十字架の罪の贖いのために死なれたことは、人間にとって万事休すと言う絶望的現実でした。しかし、父なる神はイエスを死人の中から復活させ、主とし、生ける救い主とされました。そのことを信じるのが神を信じることなのです。
 人間的に全く不可能なことを可能とされた方が神であると信じるのです。アブラハムの場合は、その信仰が義とされたのです。
 それに対して、クリスチャンの場合は、アブラハムの場合より、一層明らかに神の義がキリストにおいて啓示されたのです。そのキリストを信じることが信仰義認です。
 言い換えれば十字架について死し、復活された生ける主イエス・キリストご自身が神の義であるという点が何よりも重要となっています。なぜならば、キリストは人類の罪を贖い、罪を赦すために死なれました。そのキリストが復活した現実こそ、信じる者の義なのです。要するに、クリスチャンの受ける義はキリストであると言うことです。
 聖書は「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるさめに復活させられたのです。」と言います。それゆえ、神がすでに「キリストの中」に実現してくださった「人類の救い」を信じて、クリスチャンはキリストの義を授与され、神から義とされるのです。それが「信仰義認」です。

(4)実を結ぶ信仰
 最後に、「信仰義認」はクリスチャンが神との人格的交わりの中で、生きる不変不動の基盤です。それゆえに、神に従い、神の命令を実行し、神の豊かな恵みを体験し、神の栄光を自分たちの歩みの中で反映させるのです。
 主イエス・キリストは良い木は良い実を結ぶ、と仰せられました(マタイ7:17)。
 信仰義認によって、神との交わりの中にある者は、良い木とされています。それゆえ良い実を豊かに結ぶのです。しかし豊かな実を結ぶとは、主イエスの命令を聞き、それを実行することです。 
 なぜならば、わたしたちは主イエスを信じて、既に良い木とされており、命令を実行できる者たちなので、主はわたしたちに命令を実行しなさいと仰せられるのです。



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