2015-09-27(Sun)

霊的な礼拝 2015年9月27日の礼拝メッセージ

霊的な礼拝
中山弘隆牧師

 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
エレミヤ書9章22~23節


 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書4章13~26節


(1)真の礼拝
 今朝は、礼拝についての聖書の御言葉を共に聞く者でありたいと思います。わたしたちの礼拝が本当の意味で礼拝となるために、どうすればよいかを、主イエスは本日の聖書の箇所で教えておられます。
 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝をする者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(3:23~24)
 それまでは、サマリア人はサマリアのゲリジム山で礼拝し、ユダヤ人はエルサレムで礼拝していましたが、それぞれが旧約聖書に従った正しい礼拝をしていると主張していました。確かにサマリア人は、創世記から申命記まで五つの書を聖書としていました。それに基づいて自分たちは正しい礼拝を行っていると考えていました。
 それに対して主イエスは神の権威をもって次のような回答を与えられました。神はユダヤ人やサマリア人の民族的な枠を超えた普遍的で霊的な礼拝を求めておられる、という全く新しい内容です。そして、神は霊であるから、礼拝する者も「霊と真理」をもって礼拝なければならないと、仰せられました。
 ここに実に重要な意味があります。人の目にはいかにも敬虔らしく見る礼拝をすることで満足しているとしても、人間の思いや言い伝えによって礼拝している限り、それは決して神の望まれる礼拝ではないのだと、主イエスは仰せられたのです。
 主イエスが「神は霊である」と仰せられた意味は、神は人間のように身体をもっておられる方ではないから、人間の目には隠された神である。しかし全能の力をもって働いておられる生ける存在であり、ご自身の意志をもって語り、ご自身の力を持って行動する「人格的な主体」である。それゆえ、神はいつでも、どこにでも、存在し、働いておられる。従って、ユダヤ人は礼拝する場所がエルサレムである、サマリア人はゲリジム山であると言っているが、そうではない。神が臨在されるところで、人は礼拝しなければならないと仰せられました。 
 この重要な点に関して、イエスは次のように仰せられました。
 「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたは、この山でもエルされるでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(ヨハネ3:21)
 それでは、神が臨在される場所はどこか、と言う問題は非常に重要です。実にそれこそ主イエス・キリストがおられる場所なのです。
 第一の理由は神が主イエス・キリストを通してご自身を啓示される神であるからです。
 第二の理由は、人が神を礼拝するために神の御前に出るためには、人間の罪が贖われなければなりません。旧約聖書では、それは動物の犠牲の血による罪の贖いでした。エルサレムの神殿の一番聖なる場所は至聖所と呼ばれていましたが、そこに大祭司が年に一度入り、贖罪所の上に、犠牲の動物の血を注ぎかけ、イスラエルの民の罪を贖うことが礼拝の中心でした。しかし動物の血は人格を持っていませんから、人間の罪を贖うことはできません。それは罪の贖いの象徴でした。
 ヘブライ人への手紙は、この点について次のように言っています。
 「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じ生け贄によって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。」(ヘブル10:1)
 これはどういう意味かと少し説明致しますと、旧約聖書時代の幕屋における礼拝は、モーセがシナイ山で神から授けられた律法の中で、規定されていました。これは後にエルサレム神殿の規定となります。しかし、そのような規定は終わりの日に神が与えられる真の礼拝の「陰」であり、「実体」ではなかったのです。それは真の礼拝の到来を約束するものでした。今や主イエスによって人類の罪の贖いが、ご自身の十字架の死によって成就しましたので、真の礼拝が可能となったのです。
 主イエスがサマリアの婦人にこのように仰せになった時点を考えますと、十字架の死と復活はまだ実現していませんでした。それゆえに、
 主イエスは、「しかし、まことの礼拝する者たちが、霊と真理とを持って父が礼拝する時が来る。今がその時である。」と仰せになったのです。(3:23)
 実に真の礼拝が可能となるために、神の御子が人間となり、真の神・真の人である「御子イエス」として、今サマリアの婦人と出会い、語っておられると言うことは、旧約聖書で約束された人類の罪の贖いの時が、今始まっているのです。それゆえ、今がその時である、と仰せになりました。歴史的に言えば、真の礼拝はイエス・キリストの十字架の死による人類の罪の贖いと、死人の中からの復活と、引き続いてイエスが神の右の座に着かれたことによって、可能となったのです。
 これらのことを考慮しますと、イエスがサマリアの女性に話された礼拝の時とは、その時点ではなく、後になって初めて明らかになったのです。
 第三の理由は、御子イエスにおいて真理が実現し、現れたと言うことです。ヨハネによる福音書は特に「御子イエスの真理」を福音にとって最も重要な事柄として強調しています。
 「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キエイストを通して現れたからである。」(1:17)
 ヨハネによる福音書でいう「真理」とは決して正しいと言う意味の抽象的な概念ではなく、全知全能の神が人間に対して、「ご自身の本質に対してどこまでも忠実」に行動されること、人間の中に「ご自身の意志を貫徹さる」ことなのです。それゆえ御子イエスにおいてのみ、真理が実現したのです。そこに真理が人間を救う神の力である所以があるのです。それゆえ真理とは御子・主イエス・キリストの存在と行為の中に現れた人間を生かす命と恵みに溢れた「霊的現実」です。
 それゆえ人間の救いとなり、人間が新しく生きることのできる現実、人間の最も頼りとなる現実です。そのことをヨハネによる福音書は「真理」と呼び、特に重要視しています。
 次に礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならないと、主イエスが強調された「霊」とは「聖霊」のことです。
 聖霊こそ、御子イエスが語られる御言葉の意味をわたしたちに理解させる方です。さらに、キリストの義と命と自由をわたしたちに与え、わたしたちがキリストの命令に喜んで従い、神の御前に生るようにされる方です。同時に、聖霊は復活された主イエスの性質と働きをわたしたちに理解させ、わたしたちが復活の主イエスの御姿を心の目で見ることができるようにしてくださる方です。
 それゆえ、わたしたちが主イエス・キリストにおける神の愛と恵みに応答する在り方、すなわち信仰と愛と希望は聖霊の働きなのです。
 尚、キリストは人間と出会い、御言葉を語られるとき、必ずその人に聖霊を与えてくださるのです。なぜならば、主イエス・キリストは父なる神と共に聖霊の所有者であるからです。
 従って、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とは、わたしたちは真理である「主イエス・キリスト」において、そして「聖霊の働き」によって、神を礼拝することができる。それゆえに、そのように神を礼拝しなさい、という積極的な勧めです。

 さらに、キリストは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とマタイによる福音書18:20で仰せになっています。この御言葉はキリスト教会における礼拝こそ真の礼拝であることを示しています。 
 このように主イエス・キリストを信じる者が集まるところには、主イエス・キリストは臨在しておられることが保証されています。それゆえに、教会の礼拝は真の礼拝となるのです。
 わたしたちは一人でも聖書を読み、祈ることによって神を礼拝することができます。しかし、本来の礼拝は信仰共同体の中で行うべきなのです。わたしたちは一週間の生活の中から、神様に呼び出されて、教会に集まります。このことをしっかりと心に受け止め、感謝の思いを込めて礼拝を守らなければなりません。
 また信仰共同体としての教会は、礼拝することによって、教会が教会として新しく形成されます。従いまして、教会の使命はあくまで礼拝であります。正に教会は礼拝する信仰共同体です。

(2)御言葉に聞く
 わたしたちは共に礼拝し、そこにおいて聖書が読まれ、御言葉に基づいて説教がされることによって、主イエスが臨在し、わたしたちと出会い、直面しておられます。その時、実は主イエスご自身がわたしたち一人一人に対して直接に御言葉を語っておられるのです。
 
 この御言葉をわたしたちは聖霊によって理解します。さらに聖霊によって主イエスの性質と働きを理解することができます。何と言う幸いでありましょうか。正にこれが主イエスとの人格的交わりです。
 それゆえ、わたしたちは一人一人が心の中で祈り、神様、わたしは何をすればよいのでしょうか。わたしに対する神様の命令を聞かせてください。わたしの思い、言葉、行動が神様の御心に適う者とさせてくださいと祈り、自分の状態を反省することが必要です。
 自分の思いを神の意思に従わせ、自分の決断を主イエスによって、正され、自分の行動、振る舞いが主イエスの指示によって、整えられるようにするのです。
 このことが可能となるのは、わたしたちの思いと言葉と行動と振る舞いの中で、主イエスの真理がわたしたちの中に明瞭になり、わたしたちの思いと決意と献身を貫くからです。
 そのとき、わたしたちは主との親密な交わりの中で、自分が絶えず新しく造り変えられて行きます。このことこそ、何よりも感謝であり、幸いです。
 御言葉に聞きくとき、キリストによって実現した真理の中で、神の御心に反するこの世の思いは破棄され、滅亡しており、最早わたしたちを支配しないことを知ります。他方、神の御心を実行することが人間の生きる道であり、キリストの真理の中でわたしたちはそれを行う自由が与えられていることを知るのです。
 それゆえ、キリストの真理によって、わたしたちは神の命令と指示を実行することを決意するのです。自分の存在と生活のすべてを投入して、実行するために努力するのです。このことが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生け贄として献げる。」(ローマ12:1)という神の恵みに対する応答であり、礼拝の目的です。
 このように、聖霊によって、聖書の御言葉を通して、わたしたちは生ける神の御心を知り、それを行うことを決心し、わたしたちの存在と生活全体を神に献げながら、努力するならば、その生活が主イエスとの「人格的交わり」の豊かな機会となります。
 そこに「聖霊」を通して、「主イエスの命」がわたしたちの中に豊かに働くのです。従いまして、主イエスは実に人間を本当の意味で生かす「命の水の泉」であることを体験するのです。
 そのとき、主イエスがサマリアの女に言われた「わたしが与える水を飲む者はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(4:14)との御言葉が、真実であることを知り、自分の内にいます「主イエス」こそ、命の水の泉であることをわたしたちは証するのです。

(3)隣人として出会う主イエス
 最後に、主イエスはわたしたちの心と存在の中に住み、働き、わたしたちを永遠の神の国に導いておられるのです。
 それゆえ、わたしたちは主イエスに見習い、主イエスの働きをわたしたちの働きの中で反映させるのです。これが神を賛美することです。神の栄光を現すことです。

 さらに、復活の主イエスはわたしたちの隣人の中に住み、そこに働いておられます。それゆえ、主イエスはわたしたちに対して、わたしたちの隣人として出会ってくださいます。
 一方で、最も小さい貧しい人の中に働いておられる主イエスは、わたしたちに助けを必要としている隣人として、出会われます。
 他方で、強盗に襲われた人を助けた良きサマリア人の中に働いておられる主イエスは、強盗に襲われた人の隣人として、わたしたちに出会われるのです。

 このように主イエスは人類の救い主として、人間の貧しさの中に入られた方でありますので、貧しい方の中に臨在しておられます。他方、救い主としての力と栄光を持っておられる方でありますので、貧しい兄弟を助ける隣人の中に臨在しておられます。
 このように、救い主である主イエスの貧しさと富との両方を表している隣人の中に臨在し、両者の間に交わされる自発的な助けと感謝、その愛の交わりの中心に主イエスは臨在しておられるのです。
 このように、わたしたちは共に主を賛美します。このように、主イエスはわたしたちを永遠の御国に導いておられます。



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