2015-09-20(Sun)

人を赦す者 2015年9月20日の礼拝メッセージ

人を赦す者
中山弘隆牧師

 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。
詩編51篇5~14節


 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18章21~35節


(1)神の国の福音
 キリスト教会が宣べ伝えている福音とは、神の救いをわたしたち人間に告げ知らせる神様の喜ばしいメッセージです。
 一番初めに、神様は罪人を救い、ご自身との交わりの中で生かすことをご自身が欲して、主イエスの中で、すでに人間の救いを実現してくださいました。
 福音はまずそのことを告げ、その基礎に基づいて、主イエスの支配と導きによって、神の救いがわたしたち人間の中で、いかに開始し、前進し、完成に向かっているかを告げる神の言葉です。
 この福音は、最初主イエス・キリストご自身によって語られました。イエスによって語られた福音を、マルコによる福音書は「神の国の福音」として伝えています。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14~15)
 ところで「時が満ち、神の国が近づいた。」という言葉は、旧約聖書の預言が実現し、「今や神の国が開始しつつある。」という霊的現実を指し示しています。言うまでもなく、これは主イエスご自身を通して、神の国が開始しているという意味です。
 しかしこれは人類がこれまで経験したことのない人間の思いをはるかに超えた神の恵みであり、霊的な現実でありますので、先ずそのことに対して人々の心の目を開かせなければなりません。その使命が神の子イエスに与えられました。
 そこでイエスが採られた方法は、神の国の特徴である罪の赦しをご自身の行動をもって示し、さらに、譬話を用いて神の国ついて、また父なる神について教えられることでした。
 主イエスの行動の中心は、あくまでも罪人に対して罪の赦しを与えられることでした。そして神の赦しの「しるし」として多くの病人を癒されました。
 これはマルコによる福音書2:1~12に記されています。
 「『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(2:5)
 実にこれは驚くべき言葉です。罪の赦しは神様だけが与えられる最も神聖な事柄です。それなのに主イエスは罪の赦しが、自分の言葉と同時に与えられると仰せになったのです。これを目撃した律法学者たちは、イエスが自分を神と等しい者として、神を汚す言葉を口にしたと激しく非難しました。
 しかし、イエスの宣言は神の事実です。その結果として中風の人は長年の病苦から癒されたのです。さらにイエスは人々に神のこの恵みと愛を信じるように、訴え、要求されたのです。
 もう一つは、譬話を用いて神の愛について、すなわち人間を神の御前に生かす神の恵みについて教えられたことです。
 イエスはわたしたちが礼拝すべき神は、人間に対して恵み深い父であると教えられました。神は自ら人間の父となることを欲して、父として人間を愛しておられると教えられました。同時に神の愛は、罪人を赦す愛、すなわち贖罪愛であると仰せになりました。
 そして放蕩息子の譬話をされました。ルカ福音書15:11~32に記されている有名な話です。放蕩の挙句、落ちぶれて父の家に帰ってきた痩せ衰えた息子を喜んで迎え入れた父親の話です。
 「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:24)
 この父親の言葉は、悔い改めた息子について語ると同時に、放蕩な生活を欲して家を出て行った息子を、なおも愛し続け悔い改めて父のもとに帰ってきたことを何よりも喜んだ父の愛を示しています。
 このようにイエスは神が贖罪愛をもって人間を愛しておられる父であると仰せになりました。それゆえ、人はイエスの人格と言動を通して、神が恵み深い父であることを信じるとき、誰でも悔い改めて神のもとに立ち帰ることができるのです。

(2)悔い改めとは何か
 次に、悔い改めて神の国の福音を信じなさいと主イエスが仰せになったのは、罪に慣れ親しんだ生活をしていた者が、過去の過ちを悲しみ、単に後悔するというだけではありません。そうではなく自分の存在の根底を入れ替えることです。つまり自分の存在が罪人から、罪を赦された新しい人間へと、すなわち神の子たちへと存在的に変わることなのです。
 この根本的変化と関連して、イエスは罪を人間が犯す個々の悪い行いではなく、もっと深い心の問題として洞察しておられます。
 イエスの人間洞察はマルコによる福音書7:14~23に記されています。律法学者やファリサイ派は、人間を汚す諸々の悪から身体を清めるために、食事の前に律法の命じる作法に従って、手を洗わなければならないと主張しています。
 それに対して、イエスは人を汚すものは、外から来る悪ではなく、人の心の中から出る様々な悪い思いが人を汚すと言われました。
 「次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。』」(マルコ7:20~23)
 人は悪いことをする場合に、先ず自分が悪いことを欲し、考え、実行するための計画を立てることから始まります。それゆえ、イエスは罪を外側に現れた行為だけでなく、心の中に潜んでいる悪い思いこそ罪であると仰せられます。人は内面の様々な悪を隠して、日々を過ごしているならば、その人は暗闇の中をさ迷っているのであり、正にそれは死であります。
 他方、人間のこの状況を実はユダヤ教の律法学者たちも知っており、人が心に抱く悪い計画を行動に移させないために、神は悪い行いに対して厳しい罰を定め、一方善い行いに対して祝福を与えられる、と教え悪い行いを未然に防止しようと試みました。
 しかしそのような方法は、病気である人に病気そのものの原因を取り去る治療をしないで、病気が引き起こす様々な痛みを緩和する治療を施すいわゆる対症療法と全く同じです。
 それに比べて、主イエスは心の中に生じる様々な悪い思いを指摘し、心が病んでいる状態を罪とされました。それでは罪の根源は何かと言いますと、それこそ人間が自分中心に物事を考え、自分の思いと力で生きようとし、世界を自分のものにしようとする貪欲な高慢な思いと生き方です。
 この生き方は、人間が神に敵対し、神から離れている状態です。その結果、人間は自分の犯した罪の力に束縛され、闇の中をさ迷う悲惨な状態に陥っています。
 実に、神様はこのような罪人を憐れみ、愛し、人間の罪の根源を取り去り、神の御前に生きる新しい人間、すなわち神の子とするために、神が人間に代わって、すべてのことを成し遂げて下さいました。すなわち御子イエスを十字架の死に渡し、御子イエスにおいて、人間の罪を裁かれました。
 イエスの十字架の死による罪の裁きは、神が人間と万物の主権者でありますから、ご自身の意志に従って人間の罪を取り去られたことです。同時に死に至るまで父なる神に従順であった御子は、神の御前に通用する人間の義と命と自由を達成されたことです。
 それゆえ神は、御子を死人の中から復活させ、御子イエスご自身を「人間の義と命と自由」として、人間に与えられました。つまり、神は主イエス・キリストを「人間の救い主」、「人間の主権者」、「人間を救いに導く方」として任命されたのです。
 従って、わたしたちが神の御前に立ち帰るために、必要であるができないでいる一番重要なことを、御子イエスが成し遂げ、わたしたちが神のもとに立ち帰る道を開いてくださったのです。
 それは人が福音を聞いて、主イエスを信じて、主イエスとの人格的な交わりに入れられることです。
 この実情をイエスはマタイによる福音書12章43~45節で、譬え話を用いて教えられました。
 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻って見ると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
 これは何を意味しているかと言えば、クリスチャンはキリストの十字架の死によって、罪の支配から解放されただけでは、不十分であるという点です。その状態はあたかも空き家になった状態なので、悪霊が戻って来て、クリスチャンは前よりもひどい罪の束縛を受けることになります。従って悪霊を追い出された復活の主イエスがクリスチャンの中に住み、クリスチャンの主となる必要があるのです。
 さらに主イエスと人格的に交わるとは、主イエスがわたしたちの中に臨在し働かれるだけでなく、同時に主イエスは御言葉と聖霊を通して、わたしたちと出会い対面されることです。その出会いにおいて、主はご自身を示し、わたしたちに命令を与えられるのです。
 どうして主イエスにこの二つが可能かと言えば、復活された主イエスが今や神として働いておられるからです。神は人間を超えておられると同時に、人間の内に内住され、また御言葉をもって人間と人格的に出会い、対面できる方であるからです。さらに、そのような神として働いておられる復活の主イエスは、ナザレのイエスの人間性を持った神であるからです。
 この主イエスに対面するとき、わたしたちは主イエスの義と命と自由が既に与えられている現実に目覚め、主イエスの命令はその自由の中での生き方を示し、導くことであるのが分かります。それゆえ、主イエスの命令を実行するとき、わたしたちは生きるのです。
 さらに主イエスの命令を実行することは、クリスチャンが神を愛することなのです。神を愛するとは、絶対的に神に依存し、神に祈り、神に従い、神の御心を実行することであるからです。
 次に、兄弟を、そして隣人を愛するということは、わたしたちが神を愛することの中に含まれています。なぜならば、隣人を愛することは、わたしたちに対する神の命令であり、神から自分が愛されている神の愛をもって隣人を思い、接し、行動することであるからです。
  
(3)主イエスの思いに生きる人間の特徴
 最後に、主イエスの思いを持った神の子と呼ばれるクリスチャンとは、端的に言えば、隣人に対して赦す心を持った人間です。その点に関して、本日の聖書の箇所でありますマタイによる福音書18章21節以下の御言葉は実に明瞭に語っています。
 この譬えの眼目は、人間の罪は神様に対する無限の借金であること、従って人間はそれを返さなければならないのに、返済不可能な状態に陥っているので、贖罪愛をもって人間を愛される神は、ご自身がその負債を御子によって返済してくださったと言うことです。
 それゆえ、神の赦しは実に尊い赦しです。実に神がご自身を罪人に与えられることであり、これほど尊いことは他にありません。この事実を知るとき、わたしたちは兄弟を赦すことができるのです。
 要するに、この譬えはイエスの心を持った者は誰でも、兄弟を常に赦す者である、というのです。
 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたと同じようになさるであろう。」(18:35)
 従って、この主イエスの御言葉は、わたしたちが兄弟を赦さなければ、神様もわたしたちを赦されないという意味ではありません。またわたしたちが兄弟を赦すから、わたしたちは神から赦されると言うのでもありません。
 それは神から赦されている者として、兄弟を赦すのです。赦すことができる。それゆえに赦さなければならないのです。わたしたちが人を赦すと言うことは、神がわたしたちを赦してくださっていることなのですから、それは人間関係の破れを回復させ、創造的な新しい道を開きます。
 人間関係において、互いに意見が対立し、相手を疑い、嫌い、差別し、無視しているならば、そこは暗闇で希望の光が全く見られません。しかしそのような状態の中で、神様の赦しを受け、相手を赦すならば、そこに再生の道が開かれます。神の赦しを自覚して、互いに赦し合うときに、共に神の御前に生きるのです。そこに和解が成立します。神との和解は、人間が新しい人間として生きることです。そこに喜び、信頼、協力、希望が生まれるのです。
 他方、もしわたしたちが対立する相手に依然として、不信と嫌悪の念を抱いているとするならば、わたしたちが神から赦されていないのではなく、神の愛と赦しが何であるかをまだ本当に理解していないのです。
 赦すことのできる者は神を知っており、神との人格的交わりの中で生き、神を賛美し、神の栄光を現します。
 この点を明らかにするため、主イエスはこの譬話をされました。



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