2015-09-13(Sun)

新生の必要 2015年9月13日の礼拝メッセージ

新生の必要
中山弘隆牧師

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
エゼキエル書36章25~27節


 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
ヨハネによる福音書3章1~14節


(1)イエスに面会したニコデモ
 本日の聖書の箇所はイエスのもとにニコデモが来て、イエスと対話したことが記されています。3章1節には、二人の出会いが次のように説明されています。
 「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(3:1)
 彼はユダヤ人社会を支配する議会の議員で、ファリサイ派に属し、さらに律法の教師でありました。いうなればユダヤ教の代表者と言える人物です。その彼が人目を忍んでイエスの所に来ました。
 「ある夜、イエスのもとに来て言った。ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(3:2)
 「ある夜」とは、ニコデモが人に知られないでイエスと面会するため夜中にイエスの所に来たのでしょう。同時に、これは「ユダヤ教の暗さ」の中から、イエスの持っておられる「本当の光」の前に出てきたとことを象徴しています。
 「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできません。」と言っているのは、ニコデモもイエスのなさった「しるし」を見て信じた多くのユダヤ人の一人であったことを表しています。
 「しるし」とはイエスが罪人の罪を赦し、病に苦しむ者を癒されたことです。しかも、それはイエスの口から出る神の言葉によるものでした。イエスの語られる言葉を通して、神ご自身が働き、罪を赦し、病を癒されたのです。この驚くべき出来事はイエスが神から遣わされた方であることを証しています。その点をニコデモは察知しました。
 ここでニコデモはイエスを「ラビ」と呼びました。これはニコデモがイエスを自分と同じように「ラビ」すなわち律法の教師として尊敬していることを表しています。しかし、それだけでなく、イエスをモーセやエレミヤのような偉大な預言者と見ています。
 確かに神は旧約聖書の預言者たちと共におられたように、イエスと共におられました。しかし、イエスは預言者ではなく、預言者を越えた方としてこの世に来られた「神の御子」です。なぜならば、旧約聖書の預言者たちは、確かに神の言葉を語りましたが、彼ら自身は決して神の御言葉ではありません。彼らに語られた神の言葉を聞いて、忠実にその御言葉を語った者たちです。
 それに対して、イエスは神の言葉自身なのです。イエスの存在、人格、性質、言葉、行動、振る舞いのすべてが、イエスを遣わされた父なる神を啓示しており、父なる神はイエスを通して行動されるのです。 
 そこにイエスの人格の秘密があります。しかし、イエスの人格について、この時点では未だ誰も理解できませんでした。

(2)神の国と聖霊による新生
 ニコデモの見解に対して、イエスは次のように仰せられました。
 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)
 イエスのこの言葉を聞いて、ニコデモは大変驚き、そのようなことは全く不可能であると考え、次のように答えました。
 「年を取った者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(3:4)
 ここで、ニコデモの「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」という質問は、「まさか、そんなことはできるはずがありません」という言い方で、相手もできないと答えることを期待しているのです。これは「人は、新たに生まれなければ」というイエスの言葉に対して、ニコデモはこの世界の秩序の中で考え、人間は「二度」生まれることは不可能であると判断しました。
 実は、イエスの言われた「新たに生まれる」というギリシャ語は「アノーセン」と言いますが、二つの意味を持っています。一つは「再び」と言う意味であり、もう一つは「上から」という意味です。ここでイエスは「上から」すなわち、「神によって」新しい人間として生まれるのだと、仰せられたのです。ヨハネによる福音書1章12~13節はこの点に関して、次のように言っています。
 「言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じた人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのです。」
 従いまして、人が上から生まれ、新しい人間になると言うことは専ら神の意思と神の働きによるのです。つまり、神が御子イエスの十字架の死と、死人の中からの復活を通して、御子イエスの中に神の子たちとされた新しい人間を創造し、御子イエスの中に保存されたのです。この御子イエスの中にある救いの客観的事実に基づいて、聖霊の働きによって御子イエスを信じる者は新しく生まれるのです。
 イエスはこの極めて重要な点を次のように説明しておられます。
 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:5)
 ここで、イエスは水と霊とによって新しく生まれると仰せられましたが、それは次のことを説明するためです。人は御子イエス・キリストを信じて、洗礼を受けるとき、聖霊が与えられ、聖霊によってその人は御子イエス・キリストに結ばれ、神の子としての新しい人間になるのです。
 つまり「神の国に入る」ということは、「自然的な人間」の努力によって達成される事柄ではない、すなわち、自然的な人間が直線的に神の国に連なっているのではないことを明らかにされたのです。
 イスラエルの民が神から選ばれた特別の民であることは確かな事実ですが、所詮それは「自然的な人間」の範囲の特権に過ぎないと言われました。神の国に入るには、そこに自然的な人間との断絶がある。その不連続を越えて神の国に入るには、神の霊すなわち聖霊によって、上から生まれることがどうしても必要であると仰せられました。
 そこでニコデモはますます驚き、全く理解できませんでした。この世と神の国の不連続性は、3章15節でも言及されています。
 「それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためです。」(3:15)。
 ギリシャ語でこの箇所は「人の子の中に」となっています。それは信じる者は主イエスの中に永遠の命を持つと言うことです。
 つまり人が主イエスを信じ、洗礼を受けるとき、聖霊が与えられ、聖霊によりクリスチャンは主イエスと結びつき、主イエスの中にある永遠の命に生きるのです。
 それゆえ、人は聖霊によって、主イエスと結ばれる以外には、永遠の命を持つことは不可能なのです。
         
(3)人の子が上げられる必要
 それでは、聖霊の働きとは何でしょうか。端的に言えば、それは「人間の中に働く神の救い」であると言えます。
 しかし、先ほど繰り返して申しましたように、人間に対する神の救いとは、あくまで主イエスによって、「主イエスの中」に神が達成された救いです。それゆえ主イエスの中に既にある人間の救いが、聖霊によって初めて人間の中に働くのです。
 しかし、聖霊はこの時点で弟子たちを含めて人間にまだ与えられていませんでした。それゆえ、人が聖霊を受け、永遠の命に生きるために、一番必要なことはご自身の十字架の死であると、主イエスは仰せになりました。次の御言葉がこの点を明らかにしています。
 「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、天にのぼった者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(3:13~15)
 「人の子」とは神の御子であるイエスのことです。御子は天にあって父なる神と共におられた方です。人間の救いのために神の「御子が人間となられた」ことを、人の子は天から「下ってきた」と言われたのです。人の子とは神と人間とを結ぶ「仲保者」であり、人間に神を啓示し、同時に人間の罪を贖う使命を与えられている方です。それゆえ再び天に「上げられる」のです。正に「その道」は十字架の死です。
 人の子が十字架の犠牲の死を全うすることに関して、十字架に「上げられる」という表現がされています。この重大な出来事を二重の意味を持つ「ヒュプソーセーナイ」というギリシャ語が表しています。ヨハネによる福音書は、イエスの死と復活及び昇天をこの一つの言葉で表現しています。「上げられる」という言葉は、十字架の上に「架けられる」こととイエスが「復活し、父なる神の右の座に上げられる」ことの両方を意味しています。
 要するに、人類の救い主であり、全宇宙の支配者である「主イエスの栄光」は十字架の苦難と死の中で現れているのです。これがヨハネによる福音書の強調点です。
 実に、人間に聖霊が与えられるためには、人の子が天から下り、再び天に上ることが必要であったのです。神の永遠の御子が受肉して人間となってこの世界に来られたこと、地上の生涯を通して、この世の誘惑に勝利し、父の御心を実行されたこと、神の国の宣教活動をされたこと、十字架の犠牲の死を全うされたこと、復活し、昇天して主イエス・キリストになられたこと、これら一連のことが達成される必要がありました。  
 これらのことを考え併せますと、わたしたちに聖霊が与えられるために、いかに大きな神の愛と犠牲があったことでしょうか。
 従いまして、これらの一連の神の行為と切り離して、わたしたちが聖霊を求めるということは甚だ見当違いです。父・子・聖霊の三位一体の神が人間の救いのためにご自身を投入された神の働きによって、主イエスを信じる者たちに、聖霊が与えられるのです。

(4)御子の霊
 最後に、聖霊は神の霊であり、同時に御子の霊です。御子の心です。聖霊は多様な働きをしますが、その中心は神を父として絶対的に信頼し、父に祈り、父の意思を喜んで実行された「従順な御子の心」です。 
 使徒パウロはこの点について、次のように言っています。
 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマの信徒への手紙8:15)
主イエス・キリストは幼少の頃から、父なる神をアッバと呼んで祈っておられました。アッバとは子供が父親に対して愛情を込めてパパと呼ぶ幼子の言葉なのです。
 御子イエスの生涯は父なる神を呼び求める祈りの中で始まり、進展し、父を知り、父の御心を実行することによって、つねに神の命を受け、父と共に歩まれたのです。それゆえ、主イエス・キリストとなられても、父なる神に対する心は幼い時の心と変わらないのです。 
 父なる神を完全に啓示する唯一の仲保者として、「わたしを見た者は父を見たのである」(ヨハネ14:9)と仰せられる「復活の主イエス」は、依然として幼子の心を持っておられます。
 実を言えば、真相はその逆で、神の独り子としての「御子の心」に、「幼子の心」が似ていると言うべきです。
 それゆえ、主イエスは幼子を抱いて祝福し、次のように仰せになりました。それはマルコによる福音書10章14~15節の御言葉です。
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 神が罪人を愛し、神との交わりに生かすために、主イエス・キリストによって罪を贖い、神の御子の心を持った新しい人間を創造して下さり、その基盤に立って、主イエスを信じる者を神の子たちとして、肉的人間から、霊的な人間へと生まれ変わらせられるのです。
 主イエスのこれらの御言葉と態度を思いますと、イエスを信じると言うことは、幼子のように単純に、素朴に、素直にイエスの言葉を聞いて信じることです。それが聖霊の働きです。
 同時に、聖霊の働きは、神の御子イエスの心を持って、父なる神に祈ることです。幼少の時のイエスが、そして現在の主イエスが父なる神にアッバと言って祈られるように、わたしたちも祈ることです。

 さらに言えば、人は小さい頃から、イエスの言葉を教えられ、「自分」で祈るように「大人」が導けば、その子はイエスに属する子どもとして、成長し、大人になっても、主イエスを信じ、主イエスとの人格的な交わりが心と生活の中にしっかりと根付きます。
 だれでも、既に神によって、主イエスの中に神の子としての新しい人間になっているのですから、幼子のような気持ちで祈るならば、神との交わりが与えられ、恵みと命に満ちた霊的な環境の中で、信仰者としての自覚が益々明瞭になるのだと思います。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR