2015-08-23(Sun)

主イエスに従う 2015年8月23日の礼拝メッセージ

主イエスに従う
中山弘隆牧師

 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
イザヤ書40章10~11節


 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
マルコによる福音書8章31~38節


(1)復活の主イエスの臨在
 わたしたちクリスチャンは、主イエスを人類の救い主と信じて、人生の旅路を主イエスに従って行く者たちです。本日の修養会で、他の何物にも代えがたい主イエス・キリストの恵みを再確認し、一層熱心に主イエスに仕える者となることを願っています。そのことによって、教会形成の力が発揮されることを願う者であります。
 ところで、主イエスに従う信仰は、先ずイエス・キリストが御言葉をもって、出会ってくださったことから始まっています。わたしたちは自分の人生をどのように生きたらよいかと迷っているとき、イエスの方からわたしたちに呼び掛けて下さった者たちです。
 イエスの中に自分がこれまで知らなかった良いもの、新鮮なもの、尊い生命が働いていることを感じて、主イエスの言葉に注目するとき、「わたしに従ってきなさい」と命じられるイエスの御声に不思議な魅力を感じると同時に、それは本当に信頼してよいかどうかが、大きな問題となります。
 なぜならば、イエスがわたしに従って来なさいと、仰せられるとき、わたしたちがイエスを全面的に信頼して、自分の存在のすべてをイエスに委ねて従うことを要求されるからです。従いまして、イエスとの関係に入れられるならば、それはこれまで全く経験したことのない関係となりますので、不安と躊躇を覚えます。
 このような関係は、わたしたちが他の人々との間で、職場で、サークルや団体で経験している関係、また社会や国家に対する関係とも全く異なっているからです。それらの関係は自分の生活の一部分と関わることを要求しています。それに対して、イエスはわたしたちの全存在と関わることを要求されます。言い換えればイエスの要求は神様だけができる要求です。それゆえ、人は当惑します。
 その要求を受け入れてイエスに従っていくときに、後でこんなはずではなかったと後悔することにならないだろうか、と言う思いが交差し、イエスの要求を受け入れることが安全であることを証明する何らかの手段を見つけようとします。しかしそれは無駄であるとすぐに気づきます。なぜならば、生命を与えることを約束し、トータルな救いを約束される方であるイエスに関する確かさは、イエスご自身が示される確かさ以外にはないことに気付くからです。
 それではどうすればよいのでしょうか。それは聖書に記されているイエスの御言葉にひたすら聞き、注意を払い、祈ることによって与えられる以外に確かさはありません。それがイエスの確かさです。必死になって聖書を読み、イエスの御言葉と行動を思い巡らし、祈るならばイエスが単なる過去の人物ではなく、実に生ける人格であることが分かります。それが信仰です。
 信仰とは死人の中から復活されたイエスが、今や神として働いておられ、わたしたちのもとに臨在し、信仰共同体の中に働き、そしてイエス・キリストを信じる一人一人と出会っておられるその生ける現実が分かることです。
 この信仰による確かさ、目には見えない復活の主イエスの生ける人格の確かさ、わたしたちを新しく生かすイエスの命に溢れた霊的現実の確かさを知ることが、わたしたちの信仰生活の基盤です。その基盤の上に立って、復活された主イエスとの人格的な交わりが与えられるのです。このことを信じるのが信仰です。
 わたしはクリスチャンになる時、そして献身して神学校に入ることを決めるときに、この確かさを知るために聖書を読み、ひたすら祈ることによって与えられました。その確信を信仰によって与えられることを経験しました。
 しかし、後になって、次第に聖書に対する知識が深まり、キリスト教神学を学ぶようになり、そのような信仰の確かさは、実は聖霊の働きであることが分かりました。
 そして復活の主イエスは、御言葉を通してわたしたちと出会われるとき、同時に聖霊をわたしたちに与えられる方であることも分かりました。この点こそ、復活の主イエスの神としての権限です。復活し神の右に上げられ、主となられたイエスは、父なる神と同様に聖霊の所有者であり、聖霊を与えられ方となられたのです。
 それからもう一つ大切な点があります。それは復活し、父なる神の右の座に着かれた高挙された主イエスは、地上で歩まれたナザレのイエスと同一の明確な人格を持っておられるということです。
 それゆえ、わたしたちが福音書を読み、そこに記されているイエスの言葉と行動と性質をわたしたちが理解し、そこから命と力とを受けることができる秘密はその点にあります。福音書が語っているナザレのイエスは復活されたイエスと同じ人格であるからです。
 言い換えれば、復活された主イエスは福音書が伝えているナザレのイエスを通してご自身を示し、ご自身が語り、行動されるのです。ここに神の言葉としての福音書の秘密があります。
 要するに、復活の主イエスは今や人間をご自身の復活の命で生かす方として、教会の中に臨在し、信仰共同体を形成し、一人一人のクリスチャンの中に働き、クリスチャンに「わたしに従って来なさい」と命じられるのです。
 同時に主イエスは聖霊を一人一人のクリスチャンに与えられますので、聖霊がクリスチャンの心を照らすとき、復活の主イエスの臨在とその働きをクリスチャンははっきりと認識できるのです。それゆえ、霊的身体を持っておられる復活のキリストの霊的姿を「心の目」で見ることができるのです。その生ける人格が分かるのです。
 そのことにより、クリスチャンは主イエスに従い、イエスの命令を実行するのです。そのようにして主イエスに似る者へと次第に聖化されていきます。

(2)聖霊の働き
 次に聖霊の働きについてしっかりとした認識を聖書から与えられます。このことについて、先ず神がイエス・キリストの中に人類の救いをどのように実現されたかを知る必要があります。
 聖書は次のように言っています。神が御子イエス・キリストの十字架の死による人類の罪の贖いにより、そしてキリストを死人の中から復活させられたことにより、人類を神と和解させられました。
 この和解の根本は神がキリストの中に神の御前に生きる新しい人間を創造されたことです。
 「だからキリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。」(コリント二、5:17)。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3:3)と聖書は言っています。
 わたしたちが神様との人格的な交わりに入れられる根拠は、人間が神様と和解することですが、その和解は神がキリストの中に新しい人間を創造されたことです。つまりキリストの中に新しい人間が既に創造されていると言う事実が最も確かな「客観的な救い」です。
 他方、その客観的な救いがわたしたちの信仰生活の中で、「わたしたちのもの」となり、わたしたちが体験できる救いとなることが、実に聖霊の働きなのです。
 従いまして、わたしたちが「実際に具体的に」、神の御前で生きる新しい人間として自覚し、考え、行動することそれ自体が、聖霊の働きなのです。こういう意味で、聖霊の働きは次の諸点です。
 第一に、主イエス・キリストを信じることです。第二に、主イエスの命令を自ら進んで実行すること、すなわち愛する行為です。第三に、終わりに日に出現す神の国と救いの完成を確信し、喜び、待望することです。この聖霊の働きを総括すれば、「主にある者」としてのクリスチャンに与えられている「自由」と言えます。
 次に、聖霊はクリスチャンに新しい人間としての「自己理解」を与えます。この点について、パウロは次のように言っています。
 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆りたてているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方がすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちがもはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることです。」(コリント二、5:14~15)
 十字架の死を通してご自身を与えられたキリストの贖いにより、わたしたち人間は最早自分の所有者ではなく、キリストがわたしたちの所有者となってくださったのです。その結果わたしたちはキリストの物として、キリストに従って生きるのです。
 それゆえ「キリストのために」生きるとは、すなわち「キリストに従う」ことです。しかも喜んで従うことです。報酬を求めず、ひたすら感謝の業として、キリストの命令を実行することです。
 なぜならばキリストはわたしたちが実行することのできる自由を既に与えてくださったからです。それゆえキリストの命令に従って、互いに愛し合うことは、互いに重荷を負うことであり、互いに仕えることです。また他者の建徳のために、「キリストの愛」ゆえに自分の自由を制限することです。制限できる自由が本当の自由なのです。
 さらに、聖霊の働きはキリストを通して、クリスチャンの中に働く、神の絶大な力であると言えます。
 エフェソの信徒への手紙は次のように教えています。
 「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。--また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(1:17~19)
 そしてこの絶大な神の力は、キリストの復活の中で現れていると言っています。
 「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自身の右の座に着かせられた。」(1:20)
 今や神の絶大な力は、主イエスの支配を通して、日々働いています。その力によってわたしたちは困難や悩みの中でも、それに打ち勝つ喜びが与えられ、神の意思を実行するのです。
 その霊的な力とは、クリスチャンを生かすキリストの復活の命です。復活の命はクリスチャンの行き詰まりと破局の中で、最早自分自身を頼らず、キリストを復活させられた神を頼るときに働くのです。そのようにしてクリスチャンは破局を打開するのです。
 それゆえ、キリストに導かれているクリスチャンは常に未来に対して開かれた心を持っています。キリストに従っていくとき、自分には未知の世界と遭遇しますが、その未知の世界を神の働かれる恵みの機会として、受け取る態度が、未来に開かれていることです。

(3)キリストの御足の跡を辿る
 最後に、キリストに従うことは具体的に言えば、地上の人生においてキリストがかつて通られた道を、わたしたちクリスチャンも復活のキリストと共に行くことです。
 しかし復活のキリストは霊的身体を持っておられるので、肉的身体を持っているわたしたちの目は見ることができません。それゆえわたしたちは信仰と聖霊によって復活のキリストを知り、その姿を見つめながら歩むのです。
 それゆえ、主イエスは弟子たちに仰せになりました。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34~35)
 「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」とは、自分の命を得るために、自分の力と功績に寄り頼む考えを放棄するという意味です。
 自分の力により、救いを獲得しようと言う考えは、神の恵みを拒否することです。そういう罪人の生き方から、主イエスは十字架の贖いにより解放し、復活された主イエスの中に与えられている新しい人間としての生き方を与えて下さいます。
 それゆえ、主イエスに従う者はこの世の思いと行為を捨て、キリストの思いと命令を選び取って行く二者択一の決断をしながら歩むのです。その歩みが神の子たちとされたクリスチャンの自由です。
 それゆえ、使徒パウロは次のように言っています。
 「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、創り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされなさい。」(コロサイ3:9~10)
 このように歩むために、復活の主イエスは神として、同時に復活した人間として、わたしたちの中に臨在し、わたしたちの中に働いておられます。
 それは御自分が地上の人生を父なる神に従って歩まれた御足の跡を、わたしたちが復活の主イエスと共に辿るためなのです。
 このことが人生の本当の意味です。これほど大きな慰めと幸いと喜びに満ちた人生は他に絶対ありません。
 なぜならば、この歩みの終局はわたしたちも死人の中から復活させられ、霊的身体が与えられるからです。そのとき初めてわたしたちはキリストの姿を「顔と顔を合わせて」見るようになるのです。
 同時にこの世界が永遠の御国に変貌します。そこにおいてすべての者が神を賛美するのです。これがわたしたちのゴールです。



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