2010-10-24(Sun)

メシアの秘密 2010年10月24日の礼拝メッセージ

メシアの秘密
中山弘隆牧師

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
イザヤ書42章1~4節

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
マルコによる福音書8章27~38節

(1)マルコによる福音書の特徴
  マルコのよる福音書は、1章1節で、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記していますように、イエスを「神の子」であり、神の子として「キリスト」であることを告白しています。そしてこの信仰をもって神の子イエス・キリストの福音を語っています。
 わたしたちが福音書を読む場合に、まず留意しなければならないことがあります。それは、福音書とは「全人類に対する神の救いのメッセージ」であります福音を語っている書物であるということです。言い換えますと、福音書はあくまでもイエスに対する信仰をもって、イエスの生涯を証し、告げている書物なのです。
従いまして福音書はイエスの生涯を語っていますが、いわゆるイエスの伝記を語っているのではないという点です。しかしこれまで多くの人々が「イエス伝」を書こうとして、福音書に記されたイエスの姿からキリスト教の教義によって脚色されていると思われる部分を取り去れば、歴史的に実在したイエスの姿が浮き彫りになるのではないかと考えました。そのような企画によって多くのイエス伝が出版されましたが、皆失敗しています。その理由は、それらは実在した歴史的なイエスの真の姿に迫ることができないからです。
実在した歴史的なイエスは、もともと普通の人間が考え、行動する領域を超えた霊的な領域で考え、行動された方です。それゆえイエスは人間でありながら、本来的に神と親密な人格関係を持った方であり、神がイエスを通してご自身の意志と目的を実現された方であります。
福音の強みは、人間の救いが神話的な架空の人物によってなされたのでなく、本来的に人間の領域を超えた方が人間となってこの歴史の中に実在し、歴史の中でその業を実現されたという点です。
この「神的な事実」を歴史的に記した書物がマルコによる福音書であります。従いまして、マルコによる福音書がイエスについて叙述している内容が、一般の人たちの伝記に見られるような歴史的内容とは質的に異なっていましても、それは優れた意味でイエスの歴史なのです。たしかにイエスの言動と意識が神と直結し、この世界を超えていますが、それでもイエスは人間として、この世界の中でそのように行動し、歴史的な結果をこの世界にもたらされたのですから、マルコによる福音書はそれを「イエスの歴史」として語っているのです。つまり神と人間とのかかわりが、歴史の推進力となっているような歴史が形成されました。その歴史をマルコによる福音書は「イエスの歴史」として語っています。
もちろん、マルコによる福音書のすべての部分が、歴史的なイエスの教えや行動を正確に伝えているというのではありません。例えば、キリストの再臨に関する黙示文学的な記事は、当時の教会の教義や希望により着色されている部分があります。しかしそれはマルコによる福音書の一部分であり、全体的に見れば、マルコによる福音書は歴史的なイエスの言動を忠実に伝えています。

(2)弟子たちの告白
 本日の聖書の箇所は、イエスの弟子たちが、「あなたは、メシアです。」と言って、イエスをメシアと告白した時の状況が記されています。
 弟子たちはイエスに従い、これまでイエスがガリラヤ地方でなされた「神の国」の宣教活動をつぶさに見てきました。イエスは神の国を人間に対する神の直接的な支配として理解し、その神の恵み深い支配が今やイエスを通して、到来し、開始していることを宣教し、ご自身の言動をもって、その力を現されました。
 神の国とは旧約聖書で預言されている神の究極的な救いであります。その神の国が、すでにイエスの中に実在し、今やイエスの言動を通して開始していることを示されました。
例えば、イエスは罪の赦しを宣言し、病人を癒されました。それは神の究極的な恵みの現れです。イエスはご自身に対して「人の子」という意味深長な名称を使用されましたが、「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。」(マルコ2:10)と言って、中風に罹っている人を癒されました。
 このとき、人々は神一人のほかに罪を赦すことはできないのに、イエスがその神の権威を持っておられるのを目撃して、この人は一体誰なのだろうかというイエスに対する問いを持つようになりました。
 また、神の国について、多くのたとえをもって語られましたが、その中で種を蒔く人の譬話をされました。「また、ほかの種は良い地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」と言って、神の国の成長を教えられました。このとき次のように仰せになっています。
 「聞く耳のあるものは聞きなさい」(マルコ4:9)
 この言葉は、神の国が何であるかを知る者は、そして神の国に入ることのできる者は、イエスの宣教を通して始まっている「霊的な現実」を信じる者であるということを意味しています。それは「信仰を通して認識」する者であるという意味です。
 また、マタイによる福音書13章16節では、同様のことを仰せになっています。
 「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたの見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
 見る目とは、信仰の目をもってイエスを見て、イエスの中にある神の現実を知ることです。そういう意味で神の国は人々に聞く耳、見る目を持つことを要求しているのです。従いまして、神の国の霊的な現実はイエスの人格とその働きに密接に関係している、と言えます。

 他方、イエスは神の国の宣教をご自分が神の御子であるという深い自覚をもって遂行されました。
 マルコによる福音書は、イエスが救い主キリストであることの基盤を、イエスが神の御子であることの中に見ています。マルコはその事実をイエスの生涯の要所ごとに記しています。
 先ずイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられてとき、天からの御声があり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神の声が聞こえてきた、と記しています(1:11)。
 また、イエスが三人の弟子たちを連れて、高い山に登られた時、イエスの姿が弟子たちの見ている前で変わり、天からの声が聞こえました。これは神が弟子たちにイエスを証された言葉です。
 「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』(9:7)
 また、イエスはユダヤ教の最高法院で裁判にかけられましたが、大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋問した時、イエスははっきりと「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」と証されました(14:62)。
 そして最後に、イエスが十字架の上で息を引き取られたのを一部始終目撃していたローマの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」(15:39)と証言しました。

 他方イエスが神の御子であることは、イエスご自身の振る舞い、話される言葉、そして神の子としての力強い業の中で示されています。 
 例えば病人を癒されたこと、悪霊につかれた人を癒すために、悪霊との戦いに勝利をされたこと、その他多くの面で霊的な力と権威とをもって、自らが神の御子であることを現されました。

 しかし、イエスが神であるということは、イエスが人間であることの中で、神の威力が働く場合に示されたのです。ここでイエスは神がただ単に人間の仮の姿を取られたという方ではありません。そうではなく、イエスは本当に人間になられた方なので、人間の制限を身に帯びておられました。
人間としてのイエスの具体的な有様が随所に見られます。病を負う者の苦しみを、同じ人間として同情し、ファリサイ派や律法学者たちの偽善に怒り、また彼らの心の頑なさと盲目さを悲しみ、郷里の人たちの不信仰に驚き、弟子たちは幼子がイエスに近づくのを制止したので、彼らの子供に対する無理解と不親切に怒りを覚えられました。また再臨がいつ来るかという知識に関しては父なる神だけがしっておられ、自分にはわからないと正直に言われました(13:32)。また、十字架の死が目前に迫ったとき、ゲッセマネの園の祈りにおいて、「イエスはひどく恐れて悶え始め、『わたしは死ぬばかりに悲しい。』」と言われました(14:33~34)。裁判にかけられた時、そして十字架の上で、群衆や祭司長や律法学者たちから愚弄され、侮辱を受けられたとき、沈黙し一言も言われませんでした。そして十字架の死において、神への従順を全うされました。
 これらすべてはイエスの人間性を表しています。イエスが真の人間であることを示しています。

従いまして、イエスは本来からの神の子であり、神としての本質を持っておられましたが、同時に真の人間でありましたので、地上におけるイエスはあくまでも「隠された神」でありました。
マルコによる福音書は、イエスの完全に人間としての生涯の背後に、イエスが神であることは隠されていた、と見ています。そして、イエスの人格、教え、行為を洞察する目をもっている人たちだけに、イエスが神であることが見えたとマルコは言っています。
 
このような波紋と衝撃をイエスの宣教活動は周囲に及ぼしました。ちょうどその時期に、イエスはガリラヤ地方の伝道を締めくくるため、周囲の人々の反応がどうなっているかを、弟子たちに尋ねられました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(8:27)
それに対して、弟子たちは次のように報告しました。
「洗礼者ヨハネだ」という人たち、また「エリヤだ」という人たち、さらに「預言者の一人だ』という人たちがいると、伝えました。
その時、イエスは弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」とイエスに対する信仰を要求されたのです。

(3)イエスがメシアであることを秘密にされた理由
この時、ペテロは弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」と告白しました。しかもこのとき、イエスが次のように仰せになりましたのは、これまた実に驚くべき、極めて不思議な事柄です。
「するとイエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(8:30)
マルコによる福音書によりますと、イエスが誰であるかに関しては、イエスが態度と行動をもって証しておられる面と、それを言葉で言い表すことを拒否し、秘密を守っておられる面とがありました。ここに、イエスが神の御子・メシアであるのはその中に緊張関係をもっていた、と言えます。
イエスの宣教活動の最初から、イエスが神の子であることを知っている悪霊に厳しく命じて、このことを誰にも知らせないようにされました。このことは1:24節に書いてあります。悪霊に取りつかれた男が「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。」と叫びました。その時イエスは「黙れ。この人から出て行け』と命じられましたので、悪霊はその人に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行きました。
また、1:33では、「また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うのをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」と説明しています。
他方、弟子たちに対しては、ペテロの告白の後に、イエスがメシアとして、果たさなければならない十字架の死、復活について、そして最後の日に父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来られる再臨について、教えられました。さらにイエスのこの言葉を保証する出来事が山上の変貌でありますが、その時も他の人々に知らさないように、厳重に注意されました。
「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」(9:9)
このほかにも、中風の患者を癒されたときも、五千人に給食されたときも、そしてエルサレムに入場し、最高法院での裁判においても、メシアの秘密のテーマがそこに横たわっています。実にイエスの生涯にはそれを織りなす縦糸と横糸の関係が存在します。つまり縦糸とはイエスが神の御子として、神の力を発揮された行為であり、横糸とはメシアの秘密です。このように縦糸を横糸が常に横切っているのです。
これはどうしてでしようか。マルコによる福音書において、いわゆる「メシアの秘密」と呼ばれている事柄は、決して当時の教会の教理をイエスの生涯の中に反映させるために、イエスの言葉として記したものではなく、まさにイエスご自身がメシアの使命を理解された通りにその使命を遂行するため、ご自身の意志によって秘密にしておくように命じられたことなのです。
マルコによる福音書は、メシアの秘密をイエスご自身の歴史的事実として、正確に記しています。要するにメシアの秘密は、イエスが理解しておられたメシアの性質そのものなのです。
聖書を読むとき、わたしたちがこのことを理解するならば、イエスが「どのようにメシアであったか」について、本当の意味が分かるのです。実に、わたしたちがイエスの救いを受け、信仰生活を深めていくために、このことを理解することが不可欠です。
イエスにとって、メシアとは決して「身分の事柄」ではなく、「行動の事柄」であるからです。イエスの判断によれば、イエスは病人の癒しの業においてメシアなのです。悪霊の追放とサタンの力に対するイエスの勝利、イエスの受難と死、そして復活、さらに天の雲に乗って来られる再臨、これらすべての業においてメシアなのです。
つまり、イエスにとってメシアとは「神的な必然としての運命」なのです。それはイエスが実行される事柄であり、父なる神がイエスにおいて完成することを欲しておられる事柄であり、イエスが御子としての愛をもって父の御心を成就される事柄なのです。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(8:31)
 新共同訳で、「必ず---することになっている」という言葉は、原典のギリシャ語では「デイ」ですが、この言葉は「神的必然」「神的運命」を意味する言葉です。
従いまして、イエスは弟子たちにご自分が復活するまでは、メシアの秘密を守るように命じられた理由がそこにあります。
要するにイエスは既にメシアでありました。そのような方として、イエスは神的必然による自分の運命が成就するまで、メシアになることを「欲せられなかった」のです。このことがメシアの秘密の理由です。

最後に、イエスは地上のすべての時間を、その時々に真剣勝負で生きられました。怠惰に過ごす余裕は少しもなかったのです。この意味でイエスの生涯は激しい戦いの生涯でした。その中で父に祈り、父の御心に従い、人類の贖いのために、ご自分のすべてを与えられたのです。ご自分の全存在をもって、常に全力投球で、メシアの使命を果たされたのです。人類の罪の贖いのために、ご自分を人類と連帯化させ、人類の代表となり、人類の罪を一身に担い、神への従順の献身を十字架の死において全うされました。
その結果、父なる神は人類の救い主、神の国の主権者として、イエスを復活させられえました。ここに至って初めて、イエスは名実ともにメシアとなられたのです。ここに神的必然が明らかにされました。
それゆえ、イエスがメシアであることはこの神的必然の中にあるのです。同時に、イエスがメシアであることは、イエスの人格と自覚が救いの業と完全に一致していることによって「成就」したのです。
この神的必然性を実現する推進力こそ、神の愛であります。ここに、神の愛の力があります。それは常に働き、常に救いをもたらします。
それゆえ、わたしたちも全存在と全力投球で主の恵みに応答するとき、わたしたちの中に神の力が働くのです。



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