2015-07-19(Sun)

御言葉の実行 2015年7月19日の礼拝メッセージ

御言葉の実行
中山弘隆牧師

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。
イザヤ書55章8~11節


 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
マタイによる福音書8章5~13節


(1)聖書の神に対する信仰
 従来の日本の社会には、神を祀る神社や仏に祈願する寺が多く見られますが、それらは聖書の神と根本的に異なっています。
 そのような神や仏は自己の意思と働きを持たず、神や仏としての性質が人間や自然の中に宿っていると思われています。その類の神は人間や動物、木や花、或いは山や川、すべてのものと融合している神です。すなわち、汎神論的な神であって、人格的な神ではありません。
 それに対して聖書の神は「わたしとあなた」、「我と汝」との対面の中で人間と出会い、交わりを持たれる人格的な神です。その交わりの手段が神の御言葉です。さらに、御言葉は人間との交わりの手段だけでなく、実は神ご自身の存在と働きの仕方なのです。
 従いまして、問題は神がご自身を人間に現すために語られる御言葉を人間がどのように聞いたか、そして人は御言葉に応答して、何を為したかということです。そこに神の啓示と、神の救いが歴史的な出来事となって現れるのです。
 このような御言葉こそ、世界を創造し、人間を救う神の権威と力を秘めています。
 預言書イザヤ55章11節では、次のように証されています。
 「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
 このように御言葉は神の目的を表し、しかもそれを実現する神の力と働きなのです。それゆえ、神が永遠に生きる存在であるのと同じく、御言葉も永遠なのです。
 このことをイザヤ書40章8節は証しています。
 「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
 同様に、「神の言葉それ自身」であります神の御子・主イエスも次のように仰せになりました。
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)。
 「天地は過ぎ去るだろう、しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らない。」と仰せになっています。

(2)イエスの御言葉に対する信仰
 本日の聖書の箇所には、主イエスと出会った人に、主イエスに対する信仰が発生したことが記されています。
 その状況はマタイによる福音書8:5~13、ルカによる福音書7:1~10、ヨハネによる福音書4:43~54にそれぞれの仕方で伝えられています。福音書によって多少異なる点がありますが、基本的な点は皆同じです。
 マタイでは、ローマ兵の百人隊長の部下が中風で、ひどく苦しんでいるので、癒されるようにイエスのもとへ、隊長が懇願に来た、と書いてあります。ルカでは、その部下を隊長は非常に高く評価し、自分の片腕のように信頼していたと説明されています。ルカ7章2節では次のように述べられています。
 「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。」(ルカ7:2)
 隊長はイエスに懇願しました。隊長のこの切なる願いを知って、イエスはその家に出かけようとして、「わたしが行って、いやしてあげよう。」と言われたのです。
 そのとき百人隊長が言った言葉が、次にように記されています。
 「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)
 ここには、イエスを通して、神が働いておられるという信仰と、イエスの語られる御言葉こそ、生きて働く神の言葉であるという信仰が見事に告白されています。
 百人隊長は言葉の持つ権威と効力を、軍人としての立場から、認識していたものと思われます。彼は中間職として、上の大隊長の命令を受け、自分の部隊では部下に命令を与える立場でありましたから、上官の命令が絶対的な権威であることを日頃から熟知していたのです。しかしその命令の権威は、軍隊の中にだけ通用していました。
 それに対して、イエスの命令は通用範囲のいかなる制限もありません。あらゆるところに通用する権威です。
 クリスチャンの中には、信仰は心の中の問題であり、信仰と政治とは別問題である、と考えている人がいますが、それは神の働きの領域を自分勝手な考えで制限しているだけです。
 さらに神の働きは、社会体制の区別を越えて有効です。資本主義社会であろうと、共産主義的、または社会主義的社会であろうと、或いは民主主義的な現代社会であろうと、国王が独裁的な主権者である古代や中世の社会であろうとも、神の求められる正義と公平と憐みが実行されるならば、人々が神の意志に従って行動し、そこに神の働きが現れているのです。それゆえ、主イエスの働きは、クリスチャンであろうと、他の宗教の信者であろうと、また無神論者であろうと、人間的な差別はありません。
 問題はただ一つ、イエスに対する信仰を通して現れるという神の事実があるのです。
 なぜならば、主イエスの到来が神の究極の啓示であり、旧約聖書で約束されていた神の救いの成就であるからです。従って、イエスを信じることが、旧約聖書の神を信じることなのです。逆に言えば、旧約聖書の神を本当に信じているかどうかの試金石はイエスを信じるかどうかなのです。実に、隊長は神のこの究極的な事実を信じました。彼の告白に接して、イエスは非常に感心し次のように仰せられました。
 「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」(マタイ8:10~11)
 ここでイエスはイエスの御言葉に対する信仰によってのみ、イスラエルの民であれ、異邦人であれ、人は誰であっても神の国に入ると、仰せられました。
 その意味は、神の救いはただイエスに対する信仰によってのみ与えられるということです。従って、ここでイエスが与えられた癒しは、本当に神の癒しであるゆえに、それは神の救いの印として与えられた、と言えます。
 そこで、イエスは百人隊長に言われました。「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」(マタイ8:13)
 ここで、「あなたが信じた通りになるように。」と言うギリシャ語の原文は、「あなたが信じたよう通りに、なれ。」と言う命令形なのです。
 正に、神の権威を持つイエスの命令によって、そのとき百人隊長の部下は癒されました。「ちょうどその時、僕の病気はいやされた」とマタイ福音書はこの出来事を証しています。
 この点をヨハネによる福音書はもっと強調しています。ヨハネ4章50節で次のようにイエスは仰せになりました。
 「『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」
 ここで、「あなたの息子は生きる」とイエスが言われた言葉は特別の表現の仕方です。「生きる」という言葉はギリシャ語の文法で「動詞の現在形」です。しかし、それは普通の現在形の意味ではなく、特別の意味を持っています。つまり、イエスがこの言葉を口から発せられると同時に、「あなたの息子は生きるのだ」と言う意味です。言い換えれば、イエスの発言と同時に、その言葉を通して、神の力が働くので、「あなたの息子はまさに今生きる」と仰せになったのです。
この発言は実に驚くべき事柄です。これはイエスが神の権威を持っておられる方であることを具体的に実際に現わしています。
 この物語をイエスの奇跡として解釈する人たちは、イエスの言葉の遠隔作用であると考えます。イエスの癒しは御言葉と共に病人に手を置き、病人との直接的な接触を通して、イエスの生命力が病人に伝わり、病気が癒されるのが普通である。但しこの場合は、例外的でイエスの遠隔作用による癒しであると、説明しています。 
 しかし、イエスによってなされた癒しは、そのような仕掛けや細工による癒しでは決してありません。人間の思いをはるかに越えた神の力が、イエスの御言葉を通して直接働き、病人は癒されたのです。
 他方、イエスに対して、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエスに対する信仰を言い表した百人隊長は、イエスから「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」という御言葉を頂いて、帰って行きました。
 そうしましたら、イエスが御言葉を発せられた「ちょうどその時、僕の病気は癒された」ことが判明したのです。これは実に驚きです。百人隊長はイエスの御言葉を信じて、家に帰って行ったことにより、神の偉大な働きの現れるのを体験しました。
 このように人は誰であっても、イエスの御言葉を聞いて、御言葉は必ず実現することを信じて、行動する者に神の力が働きます。

(3)クリスチャンに対するイエスの命令の意味
 最後に、クリスチャンに対するイエスの命令の意味について、聖書から学びたいと思います。
主イエスの御言葉は、必ずその中に命令も含まれています。従いまして、信仰者は主イエスの御言葉を聞くだけで、何も実行しないということは不可能です。
 ところで、主イエスの命令とは何でありましょうか。使徒パウロは主イエスの律法は、「隣人を自分自身のように愛しなさい」(ガラテヤ5:14)と言う一句に集約されると教えました。また使徒ヨハネは、イエスの命令を次のように伝えています。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12)
 それゆえ、主イエスの命令は、わたしたちの内に主イエスを通して「神の愛」が働く時に実行可能なのです。
 その場合に、神の愛は先ず、神から命じられた道徳律を信仰者が満たすことの中で働いています。これは旧約聖書に示された具体的な数々の良い業を実行することです。この点を軽視しては、家庭や社会の中で、神の愛を実行することはできません。クリスチャンが教会の中でクリスチャンらしい振る舞いをしていましても、社会で通用しないのであれば、その信仰は未だ本物ではありません。信仰は善良な、正直で、責任を果たし、社会でも信頼される人間を造り出します。
 しかし、神の愛がクリスチャンに働く場合、それ以上のことが実現します。その意味で主イエスは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは天の国に入ることはできない。」(マタイ5:20)と仰せられました。
 ファリサイ派や律法学者が代表しているユダヤ教では、自分の能力と努力によって律法の命じる業を行い、それを自己の功績としました。
 そして人は自分の功績によって神の救いを得られると信じています。また愛の対象を「自分たちの仲間」に限定しました。さらに貪欲は罪ではないと主張し、富を得ることを人生最大の目標としました。
 それに対して、主イエスはクリスチャンが神の御心に従い、神の栄光を現そうという一心で、善い業を行いなさいと命じられます。また主イエスは「敵を愛しなさい。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせておられる」と仰せられます。さらに、「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。あなたたがは、神と富とに仕えることはできない。」と言われます。
 マタイによる福音書でいう「天の国」とは、他の福音書では「神の国」を意味しています。さらに、福音書でいう「神の国」とは、パウロの手紙では「復活の主イエスが支配される国」です。
 パウロはコロサイの信徒への手紙で、この点を明瞭にしています。
 「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13~14)
 それゆえ、復活の主イエスが支配される神の国に移されたクリスチャンは神に従い、隣人を愛する「自由」を与えられているのです。
 今や主イエスの支配は、御言葉と聖霊とを通して、この世界の中に、特にキリスト教会の中に、そしてクリスチャンの中に働いています。
 しかし、クリスチャンが自分に与えられている自由を使用して、イエスの命令を実行するためには、主イエスの命令を自分の心で直接聞くことが必要なのです。イエスの御言葉を実行するためには、主イエスの御言葉を真剣に聞く態度が必要です。同時に聞いて直ちに実行することが必要です。
 復活の主イエスは「御言葉によって」わたしたちと出会あってくださる方です。しかし復活の主イエスの姿は肉眼では見えませんので、その霊的現実をわたしたちが知り、確信するために、イエスは聖霊をわたしたちに与えてくださいます。
 それゆえ、わたしたちと出会われる主イエスを、わたしたちは「聖霊によって」見つめて、主イエスの性質と御心を思い、わたしたちに一対一で語られる御言葉を信じ、実践することがクリスチャンの生き方です。



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