2015-07-05(Sun)

わたしはある 2015年7月5日の礼拝メッセージ

わたしはある
中山弘隆牧師

 わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
イザヤ書43章10~11節


 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
ヨハネによる福音書8章21~28節


(1)人間にとって最も必要なもの
 わたしたち人間が生きるために、最も必要なものは何でしょうか。
 健康でしょうか。能力でしょうか。金でしょうか。職業でしょうか。社会的地位でしょうか。今日のようなグローバルの世界で、競争の激しい時代に、そして変化の速い社会では、自分の将来がどうなるかは極めて不確定であります。このような時代にこそ人間とは何であるかをしっかりと認識し、自分の人生を逞しく生きることが最も必要です。 
 しかし、そこでは人生を見る視点が何よりも重要です。具体的に言えば、人間は縦と横との関係の中で存在しています。
 税金のことで主イエスを罠にかけようとしたファリサイ派やヘロデ派の人たちに主イエスは仰せになりました。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)。この言葉は人間が神との縦の関係と、他の人々との横の関係の交差点に立っているということを示しています。
 人は誰であっても先ず縦の関係を第一とすることによって、横の関係も正常に保たれるという意味です。
 今日の科学技術の発展した時代に人間は何でもできるという安易な考え方が世界に蔓延しています。近い将来には、人間は宇宙に進出し、宇宙に住めるようになると考えている人が多くいます。しかし、神様が人間の住む場所として与えられたのはこの地球だけです。人間は地球の環境と資源を守りつつ、生きなければならないのです。
 神は万物の創造者であり、その支配者でありますから、神だけが全知全能なのです。この神の偉大な力と知恵を知りますとき、人間は神との関係を第一とすべきです。

(2)人間を求められる神
 ただそれだけではありません。神との関係は人間が創り出したのではなく、神が人間を選び、主イエスを通して、神ご自身が人間との関係を創設されたのです。
 先ず、神が人間を愛し、御子を人間に与え、御子によって人間を罪の束縛から解放されたと、聖書は言っています。
 ヨハネによる福音書はこの事に関して、次のように言っています。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:16~17)
 さらに神が御子を人間に与えられたことを具体的に説明するために、次のように言っています。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)
 ここで「言」とは、神であり、詳しく言えば父・子・聖霊の三位一体の神である「御子」です。御子は父・子・聖霊の愛と平和の交わりの中で永遠に存在しておられる神ですが、人間の救いのために、神のもとから父なる神によって人間の世界に遣わされ、人間となられました。ここで、「肉」とは単なる肉体ではなく、人間性を意味しています。それは御子が「真の神・真の人間」となられたことを意味しています。
 従って、真の神・真の人間となられた御子によって、神は人間を救う神となり、人間は神を知り、神に従う神の民となったのです。
 このことをヨハネによる福音書は証し、御子は「恵みと真理」とに満ちていた、わたしたちはその栄光を見たと、証言しています。
 ここで、「恵み」とはそれを受けるに全く値しない者に対する神の好意です。それゆえ「憐れみ」とも言えます。
 他方、「真理」は「救いの真理」です。救いは神が罪人である人間を救う際に、「神の性質」に全く一致した方法で対処されたということです。ご自身の性質にどこまでも忠実に神は人間の罪を裁き、新しい人間を創造されました。それゆえ御子イエスにおいて神の真理が全うしたのです。
 このような方として、神は主イエス・キリストを通して、人間に神ご自身を「完全に啓示」されました。さらに最も屈辱に満ち恐ろしい死に方である十字架の死を引き受け、人類の罪を裁かれる神に対して、死の極みまで従順であったキリストによって、人類は「罪の束縛」から解放されました。それゆえ父なる神はキリストを復活させ、復活の「キリストの中」に、神に従う「新しい人間」、すなわち「主イエスの復活の命」に生きる新しい人間を創造されたのです。
 それゆえ、主イエスは天に上げられ、神の右に坐し、天地万物の主となり、すべての人間の救い主となり、神の民の支配者となられました。その結果、聖霊が神の民である教会に与えられたのです。
 今やだれでも教会が宣教するイエス・キリストの福音を聞き、聖霊によって福音を理解し、主イエスを信じるならば、罪が赦され、神ご自身との人格的関係に入れられるのです。
 言い換えれば、人間は「主イエス」において、「聖霊」を通して、神を礼拝し、神の言葉を聞き、祈り、神の言葉を実行することができるのです。そのようにして人は主イエスの永遠の命に生きるのです。 

(3)仲保者である御子イエス
 それゆえ、主イエス・キリストは、次のように御自分について仰せになりました。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:25~26)
 従いまして、人間を神の御前に生かす永遠の命とは、主イエス・キリストの命です。正確に言えば、復活のキリストご自身が永遠の命なのです。聖霊を媒介として、人はキリストとつながるとき、永遠の命を受けるのです。
 また、次のようにご自身について仰せになりました。
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(8:12)
 「命の光」とは命を与える光という意味です。光とは人間の心を照らして真の神を認識させるのです。言い換えれば真の神を啓示します。正にその方として、主イエス・キリストは真の神・真の人なのです。言い換えれば、神と人とをつなぐ「仲保者」なのです。
 旧約聖書の時代に、神は御自身を御言葉によって預言者たちに示しされました。ヘブライ人の手紙は冒頭で、次のように教えています。
 「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。--御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです。」(1:1、3)
 今や神の言葉は御子イエス・キリストによって、完全に明確に究極的に語られたのです。この点について、イエスに反対するユダヤ人たちに対して、イエスは次のように仰せになっています。
 「あなたがたはその方(わたしの父)(あなたがたの神)を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知り、その言葉を守っている。」(8:54~55)と証しておられます。
 どうしてそうなのでしょうか。その秘密はイエスの人格にあります。
 真の神・真の人であるイエスは父なる神との直接的な交わりを持ち、父がイエスの中に、イエスが父の中に、互いに内住しておられるので、イエスはご自身の心と知性よって父を知っておられるのです。この点が預言者たちとは異なるイエスの特異性です。

 預言者たちは人間であって、神ではありません。それゆえ、預言者は心に聖霊が与えられ、信仰を通して神の意思を知り、神の言葉を聞いたのです。しかし、彼らの神に関する認識は不十分でした。
 それに比べて、真の神である人間イエスは自分の心と知性によって直接父なる神を認識され、その認識は完全でした。しかしイエスの認識は信仰によるのではありません。ここにイエスの特異性があります。
 また、イエスと父なる神との交わりは、御子と父との交わりであるゆえに、イエスは父の栄光を求め、ご自身の栄光を求められませんでした。これが御子の性質であり、イエスの真理なのです。この点を証しておられます。
 「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」(5:41~43)
 それゆえ、イエスが神の言葉を語られることは、そこで神の啓示が生起しているのです。この現実を弟子の一人であるフィリポに仰せになっています。
 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行なっておられるのである。」(14:10)
 このように、イエスが語り、行動された時、イエスの言葉を通して、父なる神が語り、行動されたのです。その神の霊的現実が、人を救い、生かすのです。それゆえ、「歴史的なイエス」の言動を通して、神の啓示が生起しました。イエスがわたしは父から遣わされた者であり、父の栄光を求め、自分の栄光を求めないと仰せになる時、父なる神の臨在とその霊的現実がイエスと共に出来事となっているのです。これが神の究極的な啓示です。
 さらに究極的な神の啓示とは、人類の罪の贖いであるイエス・キリストの十字架の犠牲の死です。これこそ、御子イエスが神のもとからこの世界に遣わされた究極目的です。十字架の死を目前にして、イエスは仰せになりました。
 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:23)
 ヨハネによる福音書では、イエスが十字架に上げられることと、イエスが神の栄光を受けることと一緒に起こったと見ています。言い換えれば、十字架の死と復活と高挙とを一緒にしています。同時に聖霊が教会に与えられたことと一緒にしています。
 このことによって、主イエス・キリストは人類の救い主、そして神の民の主権者となられたのです。この点につきまして、本日の聖書の箇所は次のように言っています。

(4)霊的なキリストの現在
 「そこでイエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、“わたしはある”ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたことを話していることが分かるだろう。』」(8:28)
 「人の子」とは、ヨハネによる福音書の場合に、本来神である御子が、人間となってこの地上に来られた「歴史的イエス」に対する名称です。同時に復活によって「天的人間となられたイエス」の名称です。ここでイエスは御自分が十字架の死を全うするとき、「わたしはある」という者であることが、判明すると仰せられました。
 「わたしはある」という言葉は旧約聖書では、神の民イスラエルに対して、ご自身が主権者であることを啓示される神の自己宣言です。それは神が「永遠に存在する」主権者であると言う意味です。イエス・キリストの場合も意味は同じです。今や主権者となられた主イエス・キリストは「神」として教会の中に、そしてクリスチャンの中に臨在し、働いておられます。
 「わたしはある」と仰せられるイエス・キリストは、神であると同時に「天的人間」となられましたので、地上の人間であるわたしたちの目には見えません。しかも天的人間の姿は「わたしはある」という神の働きの中に隠されています。
 しかし、天的な「永遠の羊飼い」となり、クリスチャンの中に働き、救いの完成へと導いておられるのです。わたしたちはイエスが神として働いておられるとすれば、もう地上にはおられないのではないかと思いますが、それは大いなる誤解です。神であればこそ、地上のどこにでも、いつでも、だれに対しても臨在し、その人の中に働かれるのです。それゆえ、イエスは仰せになりました。
 「わたしはあなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたの所に戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(14:18~19)
 これは十字架の死を通して、天に上げられた御子イエスが、「わたしはある」という方であることが明らかになり、「天的人間」となられたので、今や神の働きをもって信仰者の中に住み、救い主として信仰者を救いの完成へと導かれると、仰せになったのです。
 それは地上で弟子たちを導かれた羊飼いの働きが、全く新しい形で、人間の目には見えない神的な形で、生命に溢れた霊的な方法でなされているのです。
 「わたしは羊飼いである。この囲いの中に入っていない他の羊もいる。その羊をも導かれなければならない。」(10:14,16)
 同時に霊的な羊飼いである復活のキリストの働きをクリスチャンに認識させ、キリストの命をクリスチャンの中に注入される方が聖霊です。さらにクリスチャンがキリストに従うこと自体が聖霊の働きです。



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