2015-05-31(Sun)

仕えるために 2015年5月31日の礼拝メッセージ

仕えるために
中山弘隆牧師

 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章7~11節


 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
マルコによる福音書10章35~45節


(1)死に向って歩む神
 今朝の礼拝において、わたしたちは生ける神の御前に立って、神がいかなる方であるか、そして神の御前に生きることがどういうことかを、今一度新たに知ることを願っています。
 神は真に人間やこの世界と異なる方であり、人間の目には見えない方です。しかし、ご自身の意志を人間と世界の中に実現される恵み深い主権者です。ご自身の愛を人間の中に働かせられる生ける神です。わたしたち人間にとって崇めるべきこの聖なる、霊的な神秘そのものである神は、御自身を人間に仕える方として、啓示されました。その方が正に、十字架に向かって進んで行かれた神の御子イエスであります。 
 マルコによる福音書は十字架に向かうイエスの姿を伝えています。
 「一行がエルサレムへと上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(マルコ10:32)
 この非常に簡潔な表現は、主イエスの決意がただならぬものであったことをよく示しています。そこには不退転の決意がみなぎっていました。それは顔に現れているというのではなく、体全体から発散する雰囲気がそのように感じさせたのです。
 主イエスの決意は深い確信から出ていて、ご自分の人生の必然的な終局を悟った方の力を感じさせました。これまで弟子たちは長い間、イエスに従い、神がイエスを通してなされた力ある業を数多く目撃しました。その度に彼らは驚き、新しい感銘を受けたのですが、これほど恐れを感じたことはありませんでした。
 世の多くの人々は生きるために死を避けようとします。しかしそのことによって、かえって生きる意味を見失ってしまいます。人は死を避けず、死に向かって進んでいくときに本当の意味で生きられるのです。主イエスの生涯はまさにそのような歩みでした。
 
(2)弟子たちに対するイエスの意図
 この時、イエスは弟子たちを御許に呼び寄せて、次のように仰せになりました。
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10:33~34)
 ここで、主イエスは明らかに弟子たちにご自身の死の意味を教えようとしておられます。そのことが起こる前に、弟子たちにご自身の死の意味を理解させようとしておられます。この点、マルコによる福音書は、主イエスの意図をよく示しています。
 なぜならマルコによる福音書では、主イエスの救い主としての活動が、前半の時期と後半の時期に明瞭に区分されているからです。 
 前半では、主イエスはイスラエル全土を巡回して、人々に神の国について教えられました。神の国がイエスの宣教を通して開始していることを言葉と行為をもって示されました。
 後半では、できるだけ大衆との接触を避け、専ら弟子たちに教えようとされました。そこには深い理由があったのです。すなわち、十字架の死に向かって進んで行かれるご自身の歩みに、弟子たちも共に与らせ、神ご自身の働きである主イエスの十字架の死と復活の意味を弟子たちに教えようとされました。
 もし主イエスが生前に弟子たちに十字架の死と復活について少しも語られなかったとしたら、弟子たちはそのことが実際に起こった場合、真の意味を理解することは到底できなかったでありましょう。しかし、弟子たちはその時点でまだ理解していませんでした。否、彼らの理解は全く異なっていました。

(3)弟子たちの無理解
 「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』(10:37)
 これはイエスが神の国の支配者として、栄光の座にお着きになるとき、ヤコブとヨハネは自分たちだけが、弟子としての最高の地位に就くことを予約して貰いたいという申し出です。
 何という弟子たちの無理解を示していることでありましょうか。彼らは今や実現する神の国を非常に利己的にしか理解していませんでした。他の弟子たちを出し抜いて自分たちが高い地位に就きたいという欲望丸出しです。当然それを見た他の弟子たちは二人に非常に憤慨しました。
 これに対して、主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と仰せになりました。
 わたしたちは弟子たちのこの有様を見て、弟子たちの思いは主イエスの思いと何とかけ離れていることかと驚きを感じます。
 しかし弟子たちの姿は実はわたしたちの姿に他ならないのです。わたしたちは信仰が与えられていましても、依然として利己的な欲望を持っています。その点で、ヤコブやヨハネの利己的な姿はわたしたちの姿とちょうど二重写しになっています。

(4)主イエスの思い
 そこで、主イエスは次のように仰せになりました。
 「あなたたちも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:42~44)
 ここには、主イエスによってもたらされた神の国の性質が非常に明瞭にされています。それはこの世の性質とは根本的に異なります。この世では支配する人、権力を振るう人が、偉い人であり立派な人として尊敬されています。しかし、神の国において価値ある行為は人に仕えることであり、信頼される人は皆に仕える人です。
 このような相違は価値観の逆転ではなく、全く異質な価値観であると言えます。
 なぜならば、この世では、力ある者が力のない者を支配するのですから、支配される人は外部から加えられる強制力により、仕方なく従っているだけです。自ら進んで従っているのではありません。
 それに対して、神の国では、すべての人が自由であり、対等です。強制されて人に仕えるのではありません。そうではなく自ら進んで、喜んで人に仕えるのです。外部からの強制によるのではなく、内的な促しにより、喜んで人に仕えるのです。
 また仕えられる人は、仕える人に感謝し、その奉仕を喜んで受け入れ、また自分も人に仕えることを喜びとするのです。
 このような自由と自ら進んで仕えるという自発性が神の国の性質であり、神の愛の働きです。正に主イエスの思いです。ここに神の御子としての主イエスの尊さがあります。真の偉大さがります。
 実に、主イエスの生涯はこの思いで貫かれており、それを完成する行為が十字架の死でありました。このことは次の言葉ではっきりと表明されています。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(みのしろきん)として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)
 ここに、主イエスが十字架の死をご自分に父なる神から与えられた最大の使命であると自覚しておられたことがよく現れています。
 「人の子」とは単に人間と言う意味ではなく、もっと深い意味を持っています。旧約聖書のダニエル書7章13~14節に預言されているのは、人間でありながら神の主権を委ねられた者と言う意味です。
 「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、威厳、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸国語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」
 主イエスは御自分がこの預言されている「人の子」であると自覚しておられたので、自分に対して「メシア」と言う名称を用いず、「人の子」と言う名称を用いられました。しかし、この名称は非常に謎めいた言葉であり、人々はその意味が分かりませんでした。
 さらに、そのような神の主権を委ねられた人の子の支配は、人類を罪から贖うことを通して実現すると洞察されました。この洞察は人間の常識を超えており、全くの驚きです。しかしそれは旧約聖書のイザヤ書53章の「苦難の僕」の預言が救い主の使命を表していると、イエスが理解されたからです。
 旧約聖書では本来別々の預言であります「人の子」と「苦難の僕」を結び合わせ、イエスはそれらが救い主の使命であると解釈されました。しかしその解釈はイエス独特の解釈であり、まさにそれは神の御子イエスの深い洞察によるのです。
 「身代金」とは通常、捕虜になった者を解放するために支払う金を意味していますが、ここでは人類を罪の束縛から解放する手段を意味しています。なぜならばイエスの意味は、イザヤ書53書の預言の内容を要約しているからです。明らかにイザヤ書の意味は「人類の罪を贖う」ために献げる犠牲を意味しています。
 さらに、そのような人類の罪の贖いは、主イエスが明確な認識をもって、自ら進んで実行された自発的行為です。人格的で自発的な愛による犠牲です。それゆえ、イエス犠牲は神の御前で有効な「すべての人間との連帯性」を持っています。イエスの犠牲はこの霊的連帯性によって、人類の罪の贖いを実現したのです。
 実に、主イエスはそのような思いを堅持して、十字架の死を引き受けられました。人類の罪を贖うために罪を裁く神の目的は、罪の全くない神の御子イエスがご自身を人類と霊的に連帯させ、人類のために裁かれたことによって達成されました。なぜなら神の裁きに対して完全に従順であった罪なきイエスにおいて、神の真理が最後まで貫徹したからです。
 その結果、生まれながらの人間である罪人は主イエスと共に死に、神の子とされた新しい人間がイエスと共に復活したのです。それゆえ、神はわたしたちに向かって、主イエスを信じて、古い自分を捨て、神の子とされた新しい人間として生きよ、と仰せられたのです。
 同時に、父なる神は主イエスを復活させ、すべての者の主権者とし、名実ともに人類の救い主とされました。それゆえ主イエスは、主イエスを信じて、主イエスに従い、主イエスの命令を実行する者を、神の御前に生かす「永遠の救い主」なのです。

(5)主イエスの命に生きる者
 今や、復活の主イエスは昔地上の生活において、ご自身が語り、行動された御言葉を通し、また使徒たちが語った福音の言葉を通して、神として日々わたしたちと出会われる救い主です。
 わたしたちは復活の主イエスと出会うときに、主イエスの生ける人格に直面します。このとき主イエスは聖霊をわたしたちの心に与えられますので、わたしたちは聖霊によって主イエスを知り、神を知るのです。
 そのとき主イエスは「わたしを見た者は、父なる神を見たのである。」(ヨハネ14:9)と仰せになります。
 そして復活の主イエスは御言葉を聞く者に、「われに従え」と命じられます。地上におられた主イエスは弟子たちの先頭に立って、弟子たちを導かれたように、復活のキリストは神として、わたしたちの人格と存在の中に臨在し、わたしたちを導いておられるのです。
 主イエスが与えてくださる聖霊によって、わたしたちは復活の主イエスがわたしたちの中に働いておられることが分かるのです。
 さらに、わたしたちは主イエスの中で、既に備えられている新しい人間、主イエスの義と命に生きる新しい存在となっていることが、聖霊によって分かるのです。
 わたしたちは聖霊によって、復活の主イエスの命令を聞き、神の御心を喜んで、実行するとき、神の御前で新しい人間として生きるのです。
 世界第二次大戦中に、ドイツの国内でナチスに抵抗したため処刑された若い神学者ボンフェファーは、獄中から友人に送った手紙の中でこのように言っています。
 「クリスチャンとは、この世で貧しく、卑しめられ、飢えている神と出会い、罪と弱さと死に呑み込まれた神を仰ぐ。クリスチャンはこの神のもとに立つとき、自分を神に献げ、神に仕えて、この世の生活を生き抜くのである。そのようにして、生活全体の中で、キリストの復活の生命に生きるのである。」
 ボンフェファーの仰ぐ神とは正に十字架の死を全うされた主イエスであり、復活してわたしたちの存在の中に働き、救い主としてあたしたちを導いてくださっている神なのです。
 同時に主イエスが与えられる聖霊の働きとは、わたしたちの中に救い主として働いておられる主イエスに従う、クリスチャンの生き方そのものなのです。主イエスの救いに対する「わたしたちの応答」としての信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐はすべて聖霊の働きによるのです。聖霊の働きとはわたしたちの信仰、愛、希望と不可分離に結びつき、表裏一体となっています。



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