2015-04-19(Sun)

キリストの思いを抱く 2015年4月19日の礼拝メッセージ

キリストの思いを抱く
中山弘隆牧師

 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
申命記30章11~14節


 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章6~16節


(1)神を知る霊
 わたしたちの信仰生活が、常に力と喜びに満ちているためには、どうすれば良いでしょうか。神様を頭で理解しているだけでは、まだ神様の恵みに生かされているとは言えません。
 神を知るということは、神が全知全能の主権者であること、そして神様が人間の恵み深い父となってくださったこと、人間をご自身との人格的な交わりの対象としてくださったこと、従って信じる者に永遠の命を与え、神に従うことによって御前で生きる者としてくださったことを、一人一人が自分で体験し、知っていることです。
 この点について、本日の聖書の箇所でありますコリントの信徒への手紙一、2:11で、次のように教えています。
 「人の内にある霊以外には、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神を知る者はいません。」
 ここにある人が存在していると致しますと、その人を人格として完全に知っているものはその人の内にある霊だけであります。同じように、神様を知っている方は、神の霊すなわち聖霊であります。
 それでは、人間に神を知らせる聖霊の働きについて、もう少し詳しく説明しますと、それは聖霊が主イエスを通してわたしたちの心に神を明らかに示してくださることであるといえます。言い換えれば、聖霊がわたしたちに主イエスを啓示されることなのです。
 なぜならば、人間として神を完全に知っておられる方は、神の御子イエスだけであるからです。それゆえ神をわたしたち人間に啓示される方は御子イエスだけなのです。この点について、御子イエスはマタイによる福音書11:25~27で次のように仰せになりました。
 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
 この言葉は一方で、主イエスが父なる神とどういう関係にある方であるかを示し、他方で主イエスは人間とどういう関係にあるかを示している非常に意味深いイエスと父なる神との間で交わされた対話です。
 第一に、主イエスは父なる神に向かって、「父のほかに子を知る者はなく、子のほかには父を知る者はいません。」と言われました。
 これは主イエスが父・子・聖霊の交わりの中にある子なる神が、父のもとから人間の世界に遣わされた方で、真の神であり、同時に真の人間となられた方であることを表しています。そのような方として、父なる神は主イエスを完全に知り、主イエスも父なる神を完全に知っておられるのです。
 第二は、それゆえに人間は、主イエスが父なる神を人の心にはっきりと示されることによってだけ、神を知ることができるのだ、と主イエスは仰せになりました。同時に、すべてのことは、父なる神からわたしに任せられていると、言っておられます。すなわち救いに関するすべてのことは、父なる神が主イエスに委ねられたのです。
 実際に、神の御子が人類の罪を贖うためにご自身を犠牲にされた十字架の死は、正に救い主としての限りなく尊い姿を現しています。しかし、それは神の出来事でありますから、その意味を知るためには、人間の心に聖霊が与えられる必要があります。
 このことは主イエスの十字架の苦難を見た群衆は異口同音に嘲笑したことが雄弁に物語っています。
 「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」と侮辱しました。また、イエスを信じなかったユダヤ教の指導者である祭司長や律法学者たちは、勝ち誇ったように、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と軽蔑の言葉をイエスに投げかけました(マルコ15:29~32)。
 このことに関しまして、使徒パウロはコリント一、1:18節で次のように説明しています。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 十字架上の神の御子イエスの姿こそ、人類の救い主としての栄光の現れです。なぜなら御子イエスの死は人類の真の審判者である御子イエスが人類に代わって自ら裁かれたことであるからです。その御子イエスの中で人類の救いが達成したからです。
 神の御子がわたしたちと同じ人間になって、わたしたち人間の罪を担い、罪の贖いを達成してくださったという意味で、実にその出来事は人類の歴史全体の転換点となりました。それまで人間は罪と死の中にありましたが、そのような者が神の子の自由と命を与えられる大きな変化がそこから起こったのです。
 実にこのことを明らかにしてくださった方は父なる神です。つまり、御子イエスを死人の中から復活させ、イエスが神であることを父なる神ご自身が証明されたのです。同時に父なる神はイエスを全人類の救い主とされましたので、主イエスの中に生起した人間の救いがすべて明らかになりました。なぜなら、そのとき聖霊が人間に与えられるようになったからです。
 実に御子イエスの復活により、御子イエスが本来の神の働きに復帰されたとき、聖霊が人間に与えられるようになりました。その聖霊によって、人は主イエスを救い主と信じることができたのです。

(2)キリストの思いを抱く者
 以上のように、わたしたちを新しい人間として生かす神の恵みは、最初に神によって創造されたにもかかわらず、自分の罪によって堕落し、神から離れ去り、死の中をさまよっている罪人を救い、新しい人間として生かす命に溢れた霊的現実です。
 それゆえ聖霊によって、主イエスを信じる者は死から命へと移されたのです。しかもその命とはアダムの子孫としての人間の命ではなく、死人の中から復活された主イエスの復活の命でありますから、それは永遠の命です。しかし、わたしたちの救いは地上の生活の中では、未完成です。最後の日に主イエスが再臨されるときに初めて完成するのです。それにしても、クリスチャンはこの過ぎ行く世界の中で、過ぎ去らない永遠の世界の実質に生かされています。それゆえクリスチャンの価値は、地上においても、天国においても、主イエスとの人格的な交わりの中で、主イエスの性質を映し出すことにあります。
 つまり、聖霊の働きを通して、クリスチャンがイエス・キリストの思いを自分の心の中に持って生きることです。

(3)御心の実践による永遠の命
 それゆえ、使徒パウロは次のように言っています。
 「わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(コリント一、2:16)
 キリストはわたしたちの罪を贖うためにご自身を与えられた方でありますので、わたしたちにとって他の誰よりも一番親密な方です。しかも親密な方が、救い主でありますから、クリスチャンは喜んで、イエス・キリストを自分の心の中心に迎え、自分の心の王座に就いて頂き、自分の思いではなく、キリストの思いに従って生きることが、「キリストの心を抱いている」とパウロが言う意味なのです。
 それでは、主イエスの思いとは何でしょうか。
 主イエスの思いと心とは第一に、神様に向かって恵み深い父と呼びかけ、祈る心です。一切のことを父に依存していることを悟り、祈りなくしては何事もなしえないことを知る心、他方父は贖罪愛の絶対的な愛をもって人間を愛してくださる方であるので、求めることを必ず与えてくださると神を信頼する心です。それゆえ祈ることを喜びとする心です。
 第二に、神は全知全能であり、それゆえ恵み深い主権者であり、御心を究極的に実現される方であることを知り、神に栄光を帰す心です。
 主イエスは常に父なる神の栄光の現れることだけを願い、自己の名誉を求めることは一切されませんでした。正に、その思いと態度のゆえに、主イエスの言葉と行動が「そのままで」、父なる神の言葉と行動を啓示したのです。それは人知を超えた神秘であり、神の真理です。この点を主イエスご自身が証しておられます。
 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行なっておられるのである。」(ヨハネ14:10)
 それゆえ、もしも主イエスが自己の栄光を求め、自己の思いを語られたと仮定すれば、主イエスを通して神の働きと啓示は全く起こらなかったのです。主イエスの言葉と行動は無に帰したのです。しかし、実際は主イエスが父・子・聖霊の交わりの中にある方であり、真の神、真の人間でありますので、父なる神と主イエスとは互いに相手の内に住み、互いに相手を完全に知り尽くしておられました。そして父なる神は主イエスを愛し、主イエスを通して、ご自身を啓示し、主イエスを通して人間に神の救いを与え、人間に永遠の生命を与えられることを喜び、決断し、そのように行動されるのです。
 それゆえ、御子イエスの父なる神への愛は、父なる神に対して徹底的に従順であり、父なる神の栄光の現れることをひたすら願い、自己の名誉を少しも求められなかったことです。
 この点に関して御子イエスは次のように仰せられました。ユダヤ教徒が御子イエスを信じることができない主な原因は、彼らが互いに自己の名誉を求めており、自己の名誉を語る者たちを信用することだ、と指摘されました。
 「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたがたの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手から誉を受けるのに、唯一の神からの誉れを求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」(ヨハネ5:41~44)
 聖霊によって御子イエスの心を抱いているクリスチャンはこの点を大切にすべきであります。
 第三に、神の意志が行われることが、自分にとっても隣人にとってもそしてすべての者にとって、一番正しいことであり、幸いとなることを知り、主イエスが父なる神に従われたように、わたしたちも自ら進んで、神に従い、神の命令を実行する心です。
 神の意志に従い、神の命令を実行するとき、神が喜んでくださるその神の喜びを知って、自分の喜びとすることです。それはクリスチャンが神を愛する心です。
 最後に使徒パウロは主イエスの思いを神の愛の働きとして、コリントの信徒への手紙一、13:4~7で次のように教えています。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 実に、復活の主は「忍耐強い方」です。罪深い者、信仰の成長の遅い者に対して、主は期待し、忍耐をして待っておられます。ご自身の十字架の贖いにより、どんな罪人に対しても、罪の束縛から自由になり、神の愛に応える新しい生き方を可能にされた方であるからです。たとえ信仰の成長が遅くとも、必ず神の御心に沿う正しい業をするようになる日の来ることを確信しておられるのです。
 「情け深い」、「妬まない」、「いらだたない」「恨みを抱かない」を一言で言い表せば、それは「相手を赦す」ということです。
 わたしたちは常に主イエスの赦しを受けている者として、主イエスのように自分に対して悪を行う者を赦すことができます。そのことによって、神の創造的な愛が自分と相手との間で働き、わたしたちの人間関係が打開され、心が通じるようになります。
 「愛は自慢せず」、「高ぶらない」。「礼を失せず」、「自分の利益を求めず」とは、神の御子としてのイエスの特質である「自己の名誉を求めず、ただ神の栄光の現れることを求める」ことの現れです。
 主イエスは山上の説教で「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)と教えておられますが、それは神の栄光の現れることだけを願う心です。そのとき人は神の性質が分かるのです。パウロはそのようにして神の愛の性質を知って、「不義を喜ばず」、「真実を喜ぶ」、「すべてを忍び」、「すべてを信じ」、「すべてを望み」、「すべてに耐える」、と言っています。
 この最後の言葉である「すべてを耐える」とは「堅忍不抜」(けんにんふばつ)「しっかりとしていて困難や試練に動揺されない芯の強さ」「不撓不屈」(ふとうふくつ)という意味です。
 それこそ、聖霊による神の愛の働きです。パウロは復活の主イエスと対面するときに、聖霊を通して主イエスの喜びがパウロの心の中にまっすぐに飛び込んできて、パウロも「真実を喜ぶ」のです。
 このようにして、わたしたちは主イエスを中心にして、言い換えれば主イエスを媒介にして互いに出会うときに、互いに心が通じるのです。それぞれの個性と長所も人それぞれですが、主イエスに共につながっていることにより、互いに結ばれ、互いに助け合い、そのようにして、神の御心を実践し、神の栄光を現すことができるのです。



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