2015-04-12(Sun)

復活による救い 2015年4月12日の礼拝メッセージ

復活による救い
中山弘隆牧師

 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1章26~28節


 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一 15章12~22節


(1)神の愛の確かさ
 わたしたちクリスチャンの中には、自分は神の愛は分かるけれども、キリストの復活はどうも分かりにくい、今一つはっきりしないところがあると感じている人々がいます。
 しかし、神様の愛が分かるということと、キリストの復活が分かるということは決して別のことではありません。なぜならば、人間の目には見えない神、その神様ご自身の愛が分かるということは、神が人間の心の中に臨在し、人間の心に神の愛を注いでおられるからです。
 それにしても、神が人間の心に神の愛を注いでくださるためには神は御子イエスの地上の生涯によって、ご自身を示し、十字架の死による罪の贖いによって、神の愛を啓示される必要がありました。人間の罪と弱さと人間のすべての問題を神ご自身が担い、罪と悪とを取り去り、義と永遠の命を与えるという仕方で、人間が神の御前に生きるようにしてくださることが必要でした。
 なぜならば、人間を愛する神の愛、すなわち神が人間の心に注いでくださる愛は、人類の罪を贖うために、神がご自身を罪人に与えられた「贖罪愛」であるからです。
 つまり、人間に対する神の愛は、キリストの地上の生涯と十字架の犠牲による死と、キリストを父なる神が死人の中から復活させられたことを通して示されたのです。さらにそれは決して過ぎ去ることのない永遠の愛です。神はキリストの身に起こったすべての出来事を通して、すべての人間、すべての罪人を愛しておられるのです。
 しかし、その神の業に基づいて、人間が神の御前に生きることが可能になりましたのは、正に父なる神が御子イエスを死人の中から復活させられたことによるのです。
 その結果、復活の主イエス・キリストと共に、初めて神は人間の内に臨在し、人間の心に神の愛を注ぎ、人間が神の愛を実行して生きるようにしてくださったのであります。
 イエス・キリストは「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身は暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:22~23)、と仰いました。
 すなわち、心の中に神の火が灯っている人の行く道は明るく、罪の誘惑とこの世の様々な悪に打ち勝つ人生を歩むことができると、仰ったのです。心の中の火とはその人の心の中に輝いている神の愛であります。心が神の愛に照らされていることです。
 わたしは神学生時代からよく知っている水戸自由ヶ丘教会の西上信義牧師が、関東教区宣教部が発行しているナルド通信第101号に、「魂の伝道・魂の牧会・魂の教会」という記事を書いておられるのを読みました。それは水戸自由ヶ丘教会をキリストの体、すなわち信仰共同体として再興するための基本方針です。
 それは、人数よりも、「キリストの愛の中にある出会い」を大切にする魂の伝道・牧会・礼拝です。先生は、わたしたちの教会は福音記者ルカの教会のように、キリストの十字架の赦しと慰めの生命に生きようとみんなで話し合い、その共通理解のもとで礼拝を守っています。その結果、今から五年前に西上牧師が赴任されときは、三名の信徒の方々によって礼拝が守られていたのですが、今は10名の教会員を中心に、客員、求道者を合わせて18名で礼拝するようになったと言っておられます。
 さらに一人一人は個性的です。その個性を大切に、しかし、主の福音を求める人と両手で結ばれて、教会生活をしながら「魂の教会を喜ぼう」と皆で話しています、と言っておられました。
 次に、キリストの復活についてさらに重要な点があります。キリストの復活はキリストの地上での教えと行動を通して現わされた神の愛、十字架の犠牲において現された神の贖罪愛を信仰者の心に啓示するのですが、それだけでなく、キリストの復活は神が人間の救いのためにこれからも行われる業、そして救いの完成によって啓示される神の愛がどれほど大きいかを示すのです。エフェソの信徒への手紙はその点で神の愛の大きさを次のように教えています。
 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの内にキリストを住まわせ、あなたがたが愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。--キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るように。」と祈っています(エフェソ3:16~19)。
 従いまして、クリスチャンにとって、神の愛が分かるということは復活のキリストが分かること、そこから過去に遡って地上のキリストの歩みが分かること、キリストの十字架の死による人類の罪の贖いが分かること、さらにキリストの現在の業と、そして救いの完成と神の国とが分かるということと不可分離に結びついています。

(2)新しい人間の創造
 次に、パウロは本日の聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一、15:12~13で、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。」と言っています。
 また、15:17で、「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と言っています。
 これらの言葉をよく注意して読めば、キリストが復活した、すなわち父なる神がキリストを死人の中から復活させられたのは、ただそれだけでなく、神がすべての人間を死人の中から復活させるために、キリストが復活したのだ、という意味に取ることができます。
 その根拠は、神の御子イエス・キリストの十字架の死が全人類をキリストと結び合わせた、という神の事実です。正にその結合は、キリストご自身の愛による、自発的な、神の御前に有効な霊的結合であるので、キリストは人類の罪のために死なれたのです。そしてその結合は父なる神の意志に基づくものであるゆえに、すべての人間はキリストと共に自分たちの罪のために死んだことになるのです。他方、死に至るまで父なる神の御前に従順であったキリストを父なる神が復活させられたことは、神がすべての人間を復活させられたことになるのです。
 復活されられた人間はキリストの義と聖と自由を与えられた新しい人間で、神を知り、自ら進んで神に従う、全く罪のない人間なのです。それゆえキリストの性質を持った人間です。
 従いまして、これは神が新しい人間を「キリストによって」、「キリストの中で」、創造されたということです。それゆえ聖書は、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」と言っています(コリント二、5:17)。
 さらに創造された新しい人間を神はキリストの中に保存し、キリストの支配のもとに置き、キリストの支配によって、新しく生きるようにされたのです。
 このように新しい人間、正にそれは最初神によって創造されたアダムと対照的です。アダムは神によって創造されましたが、与えられた人間の自由を悪用して、罪を犯し、神に背きました。それだけでなく、本質的にアダムは地上的な人間であったので、有限な人生を生き、死によって再び土に帰る者として創られました。
 それに対して、神が第二の創造により、キリストの復活を通して創造された人間は復活の生命に生きる人間です。また、アダムが最初に置かれた楽園であるエデンの園は地上にありましたが、それも最後には消滅しました。それに対して、キリストの復活により、キリストの中で創造された新しい人間が、キリストと共に神の御前で永遠に生きる所は天にある父の家、永遠の国なのです。
 従いまして、新しい人間と永遠の国は、アダムとエデンの園の回復ではありません。新しい人間と永遠の国は神の永遠の唯一の目的によって創造されたのです。
 要するに、信仰によって主イエス・キリストとつながっている者たちの国籍は、天にあります。しかしそれだけではありません。既にこの世界でキリストの復活の命に生き、永遠の生命の実を結びつつあります。キリストの復活の命を受け、キリストの命令に従い、愛の業を行なっているので、実質的には永遠の国に至る旅路を歩んでいるのです。
 しかしそのことが明らかなるのは、キリストが再臨され、すべての人間が復活する最後の時です。それゆえクリスチャンにとって自分たちの人生の終着点は死ではなく、永遠の国に入ることなのです。
 こう言う訳で、地上の人生において、キリストの復活の生命に生きる者は、一層強く自分たちの復活の日を確信し、キリストに従い、キリストの性質をより鮮明に映し出す者となるために、主に従うのです。すなわち主の業に全身全霊を投入して励むのです。
 ここで主の業とは主に従う人生を歩むことです。つまり復活して生きて働いておられる主が常にクリスチャンと共におられ、御言葉をもって出会い、命令し、導かれるからです。同時にそれはクリスチャンの心と存在の中で復活のキリストが働かれることに他なりません。復活のキリストが聖霊を通して、わたしたちの人格と人生の中に働かれことです。それゆえパウロは次のように言っています。
 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

(3)霊的身体と霊的世界
 それでは、終わりの日にわたしたちはキリストによって、死人の中から復活させられるとき、どのような身体が与えられるのでしょうか。ここで大切なことは神と人間とでは絶対的な相違があります。
 なぜなら、生ける神の存在の仕方はパーソン(ご自身の意志を持つ主体)であり、神は身体を持っておられません。父なる神も聖霊なる神も身体を持っておられません。但し、人間となられた子なる神だけが身体を持っておられます。それに対して人間はだれでも身体を持っています。人間はこの世界に属する被造物の一つとして、身体なしには存在しえないのです。このことは天国においても同様です。わたしたちは身体なしに天国に住むことはできません。
 従いまして、わたしたちが永遠の国に入るときには、永遠の国に相応しい身体が与えられます。聖書はそれを「霊的な身体」と呼んでいます。このことを15章44節で使徒パウロは「霊の体が復活するのです。」と言っています。
 但し、霊とは「聖霊」のことではありません。聖霊を材料として作られた身体という意味は毛頭ありません。もしそういう意味で解釈するとすれば、それは人間を神格化することです。それは神を冒涜ことです。そうではなく、霊的な身体とは、いつまでも存続する身体、決して朽ちない、永遠に存続する身体のことです。それがどういう身体であるかは、わたしたちは復活するときに初めて分かるのです。
 しかし、それだけでなく、キリストの使徒たちは復活されたキリストとこの地上で出会い、キリストの霊的身体を見たのです。霊的身体は確かに神によって新しく創造された身体であることを彼らは証言しています。また彼らの証言が真実であることを復活のキリストご自身が保証しておられます。
 もっとも、キリストは復活された後に天地の主権者としての地位に就かれました。それを聖書は復活のキリストが神の右の座に着かれたと表現しています。この意味は、今やキリストは神として働き、地上にいるクリスチャンの所にも神として臨在しておられることを表しています。その結果、キリストの霊的身体は神としての働きの中に隠されて、人間の目には見えません。しかし、キリストは神の永遠の御子が「真の人間」となられた「真の神」であり、真の人間であることは過去においても、現在も、今後も永遠に変わりません。なぜなら、神としての働きに包まれた中心部で、キリストは人間性を持っておられる「生けるキリス」であるからです。聖書はこの点を証言しています。「イエス・キリストは、きのうも、今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)
 それゆえ、復活のキリストの姿は、わたしたちが死人の中から復活させられた暁に、見ることができます。地上におられたキリストの姿を弟子たちは常に目の前にしていました。そのキリストは「わたしを見た者は父を見たのだ」と仰せられました(ヨハネ14:9)。 
 同様に、わたしたちは復活させられ、復活のキリストと共にいるとき、キリストの姿を見て、父なる神を完全に知ることができるのです。顔と顔を合わせて神を知ることができるのです。
 このことが永遠の国における最高の幸いです。そのときすべての人間、すべての被造物が神の愛によって壮大な調和をもたらし、神の恵みの光を反映させ、永遠の命に満たされ、言葉では表現できない麗しい、真実の存在となるのです。そのときすべての人間は神を賛美するのです。
 実にこのことの保証は、復活しわたしたちと共にいて、わたしたちを永遠の国に導いておられるキリストご自身であります。



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