2010-10-10(Sun)

キリストの思いを抱く 2010年10月10日の礼拝メッセージ

キリストの思いを抱く
中山弘隆牧師

 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない。ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
ホセア書11章1~9節


 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章6~16節
 

(1)神を知る霊
わたしたちの信仰生活が、常に喜びと力に満ちているためには、何が必要であるかを日ごろからしっかりと心得ていなければなりません。例えば、神様を頭で理解しているだけでは、まだ神様の恵みの現実を体験している、とは言えません。また、神様は天地万物の創造者なる唯一の神である。そして人間は神の子として造られ、すべての人間は神の前では平等であり、互いに兄弟姉妹である、と信じているだけでは、まだ不十分です。そのような安易な信仰では人が信仰者として努力することもないし、信仰の力を発揮することもない、と言えます。なぜならば、これらの信仰はまだ本当に生ける人格的な神様を知ってはいないのです。
 神を知るということは、神が恵み深い主権者であることを、自分の生き方と存在を通して体験し、知っていることに他なりません。言葉を変えていえば、神が主イエス・キリストを通して与えられる救いを受け入れることによって、人は生ける神を知ることができるのです。
 このことについて、本日の聖書の箇所でありますコリントの信徒への手紙一、2:11で、次にように教えています。
 「人の内にある霊以外には、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神を知る者はいません。」
 ここにある人が存在していると致しますと、その人を人格として完全に知っているものはその人の内にある霊だけであります。その人の心の奥深くまで知ることのできるものはその人の霊以外にはありません。同じように、神様を知ることのできるものは、神の霊、すなわち聖霊だけであります。
人間が理性を働かせて、この世界に中に存在する人間について考えることによって、神の存在とその性質を推測しましても、それによって実在する唯一の神に達することはできません。それは人間の理性が造り出した有神論や唯一神論などの神概念であり、本当の唯一の生ける神ではありません。
 それでは、人間に神を知らせる聖霊の働きについて、もう少し掘り下げた説明をしますと、それは聖霊が主イエスを通してわたしたちに神を啓示されることであるといえます。あるいは、聖霊がわたしたちに主イエスを啓示されることであるといえます。
 主イエスはマタイによる福音書11:25~27で次のように仰せになりました。これは主イエスが聖霊に満たされて父なる神を賛美された言葉です。
 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
 この言葉は主イエスが人間に神を啓示する者として、神様から全権を委任されていることを示しています。つまり、人間に対する神の赦し、神の救い、神の恵みに関して、主イエスは神の全権委任者なのです。
 それゆえに、神の全権委任者である主イエスをありのままに知ることができるように、人間の心を照らし、強め、理解させる方が聖霊であります。
 神の全権委任者である主イエスの尊い姿は、人類の罪の贖いのためにご自身を犠牲とされた十字架の死において現されました。しかしこれを見た群衆は主イエスを異口同音に嘲笑しました。
 「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」と侮辱しました。また、イエスに敵対していた祭司長や律法学者たちは、勝ち誇ったように、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と軽蔑の言葉をイエスに投げかけました。(マルコ15:29~32)
 このことに関しまして、使徒パウロはコリント一、1:19節でこのように解説しています。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 十字架上の神の御子、主イエスの姿こそ、人類の救い主としての栄光なのです。人類の真の審判者として、人類に代わって自ら裁かれた方の限りない栄光の輝きなのです。神の御子がわたしたちと同じ人間になって、わたしたち人間の罪を担い、罪の贖いを達成してくださったという意味で、実に人類の歴史全体の中心点なのです。
 このことは父なる神が御子イエスを死人の中から復活させ、全人類の主権者とされた時、最終的に明らかになりました。御子の受肉としての地上における生涯、宣教活動、十字架の死、復活と昇天、聖霊の降臨、そして主イエスの再臨、これらすべての事柄は実に唯一の神である父・子・聖霊の三つのパーソンの共同の業なのです。
 この一連の事柄を通して、神はわたしたち人間の罪を赦し、わたしたちの心に、わたしたちの存在の中に、もはや撤回することのできない仕方で究極的にご自身を与えられたのです。そしてわたしたちをご自身との人格的な交わりに入れ、わたしたちを日々罪から清め、日々新しく生かし、終わりの日に現れる救いの完成に導かれるのです。

(2)キリストの思いを抱く者
 以上のように、わたしたちを日々新たに生かす神の恵みは、父・子・聖霊の共同の恵みであり、共同の自己譲与であります。もちろん、わたしたちが神の愛の対象となり、神の子たちと呼ばれましても、わたしたちは人間であり、わたしたちが神になるのでありません。従いまして、クリスチャンは人間として生き、人間として死ぬのですから、死後に神として祭られることはありません。そうではなく、わたしたちの中に聖霊によってキリストが臨在し、わたしたちをご自身との交わりの中で永遠に保ってくださるので、わたしたちは死によってもキリストとの交わりから切り離されることはないのです。
 クリスチャンの価値は、地上においても、天国においても、主イエスとの人格的な交わりの中で、自分たちの心と存在の中に、神ご自身の働きを受けますので、人間としての性質や行為、道徳や社会倫理の面で、神の性質を映し出すことであります。
 つまり、キリストの心を自分の心の中に抱いて生きることであります。自分自身とは全く異なる他者である神の御子イエスの心を、自分の心の中に常に抱いていることです。わたしたちの罪を贖うためにご自身を与え、ご自身の命を絶えずわたしたちの心に注がれる全く親密な神の御子イエスを自分の心の中に抱いていることであります。
 そのことにより、主イエスの心とわたしたちの心の交流を絶えず保ち、主イエスの命と光をわたしたちの心に受けて、わたしたちは主イエスに従い、神に仕えるのであります。
 それでは、主イエスの心の働きとは何でしょうか。それはわたしたちとの交わりの中で、日々示さるのです。
主イエスの心とは第一に、神様に恵み深い父と呼びかけ、祈る心です。一切のことを父に依存していることを悟り、祈らざるを得ないという心、祈りなくしては何事もなしえないことを知る心、そして父に求めることは必ず与えられることを信じる心、それゆえ祈り求めることを喜びとする心です。
第二に、神は恵深い主権者であり、万事を支配し、御心を究極的に実現される方であることを知り、神を賛美する心です。
第三に、神の意志が行われることが、自分にとっても隣人にとってもそしてすべてのものにとって、一番正しいことであり、幸いとなることを知り、自ら進んで、喜んで、神の意志を実行する心です。

 次に、主イエスが喜ばれることは、次の通りです。コリントの信徒への手紙一、13:4~7に愛の賛歌が歌われています。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 使徒パウロはここで愛の働きを説明している際に、きっと彼の心の中に働いているキリストの思いを抱きながら、書いたと想像されます。目には見えなくとも、人格として彼と対面しておられるキリストの喜びと態度に心を向けて、これらの言葉を記したことでしょう。
 生ける復活の主は「忍耐強い方」です。罪深い者、信仰の成長の遅い者に対して、主は期待を持ちつつ、忍耐をして待っておられるのです。それはご自身の十字架の贖いにより、どんな罪人に対しても、罪の束縛から自由になり、神の愛に応える新しい生き方を可能にされた方でありますから、たとえ信仰の成長が遅くとも、必ず神の御心に沿う正しい業をするようになる日の来ることを確信しておられるからです。また「情け深い」とは「親切である」という意味です。
他方、罪深い人間は何よりもまず、「利己的な人間」であり、「自分の利益や名誉」を求める者です。そして、「妬んだり」「自慢したり」「高ぶったりします」。この点、信仰者でありましても、他の信仰者を妬んだり、自分の信仰や敬虔な生活を誇ったり、自慢している限りでは、その人はまだ罪の束縛の中に閉じ込められているのです。
パウロは自分と対面しておられる主イエスの心には、そのような思いや態度は一片のかけらもないことを知らされています。罪人のそういう思いや、態度に対して、主イエスははっきり「ノー」と言われます。なぜならば、人間の罪深い思いや態度は主イエスの十字架の死により、既に裁かれ、滅ぼされているからです。
さらに、パウロは主イエスと対面するときに、主イエスの喜びが彼の心の中にまっすぐに飛び込んできます。それは何かといいますと、「真実を喜ぶ」ことであります。そして同時に聖霊が彼の心の中に神の愛を注ぎ込みますので、パウロも「真実を喜ぶ」のです。
聖霊を通して、主イエスの思いはパウロの心に伝わり、以心伝心で、イエスの思いがパウロの思いとなるのです。
 他方、人は罪の誘惑に捕らえられているとき、わたしたちの心は「不義」なる事柄に喜びを感じています。そしてその悪い習慣から脱却することは非常に難しく感じます。
しかしこのとき、主イエスは不義や自己の欲望を追求する行為の終局は死であり、破滅であることをはっきりと示されます。そして、わたしたちに真実を行う道が命の道であり、その道を歩むとき、主イエスが共にいて、霊的な命を与えると、約束されます。
その上で、わたしたちにあなたはどちらの道を行くことを選ぶのかと、二者択一の決断を要求されるのです。このようにして、わたしたちは主の喜ばれる命の道をゆくことを決断することができるのです。
 主イエスに従う途上において、わたしたちは主イエスの思いを絶えず、自分の心に抱いて、主が喜びばれることを喜ぶとき、本当の意味で善き業を行うことができます。そのようにして、自ら進んで、喜んで、愛の労苦をいとわず、忍耐して行うのです。
それは自分の敬虔さと道徳的生活を誇るために行う善き業ではなく、また自分の善き業によって救われようとする律法学者やファリサイ派が自分たちの力で行う業でもありません。そうではなく、実にクリスチャンの中に働く聖霊の業なのです。
それは主イエスの命がわたしたちの中に絶えず湧き出ることです。福音的信仰の豊かな体験と明確な認識をもって多くの讃美歌を作ったチャールス・ウエスレーは21編の讃美歌456番の1節と4節でこのように歌っています。
「わが魂を 愛するイエスよ、 波はさかまき 風吹き荒れて、沈むばかりの わが身を守り、 天の港に 導きたまえ。----
主こそ尽きせぬ いのちの泉。 たえず湧きいで、 心にあふれ、
われをうるおし 渇きをとどめ、 とこしえまでも 安きを賜え。」

さらに、クリスチャンの喜びは互いに共有することのできる喜びです。ここに、クリスチャンの一層大きな喜びがあります。それは主イエスの十字架の死と復活の勝利こそ、わたしたちに対する神の愛であることを聖霊がわたしたちの心に示すからです。この時、わたしたちの心の中に神の愛が溢れ出て、わたしたちは共に喜び、神を賛美するのです。
最後に、わたしたちは教会を形成し、福音を周囲の人々に伝えるためには、ともに主の御心を抱いて、主がこのようになしてくださるという希望を共有しながら、協力することが非常に重要です。そのために、教会の皆の者が主の御心を知り、互いに話し合い、理解し、コンセンサスを保つことが必要です。そして合意したところに従って、一つ一つの業を前進させることが大切です。
そのために、わたしたちは互いに寛容であり、また自制心をもって、自分の荷を自分で担いながら、同時に相手の荷を担い合うことによって、希望の実現に向かって、忍耐強く歩むことが必要です。コリント13章の7節で、聖書はこのように教えています。
「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
最後のすべてに「耐える」という言葉は、4節の「忍耐強い」という言葉とは違って、「堅忍不抜」(けんにんふばつ)「しっかりとしていて困難や試練に動揺されない芯の強さ」「不撓不屈」(ふとうふくつ)という意味です。それこそ、聖霊による愛の働きです。



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