2015-03-29(Sun)

人類の罪のため 2015年3月29日の礼拝メッセージ

人類の罪のため
中山弘隆牧師

 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章10~11節


 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
マルコによる福音書15章33~41節


(1)歴史的な事実としての十字架
 教会歴によりますと本日は棕梠の主日と呼ばれています。救い主としてエルサレムに入場されたイエスを民衆は各々手に棕梠の枝をもって迎えましたことから、このように呼ばれるようになりました。今週の金曜日に主イエスは人類の罪の贖いのため、十字架の死を遂げられたのです。この日を覚えてわたしたちは礼拝をささげています。
 何と言ってもキリスト教の強みは、神の救いが歴史の中に実在したイエス・キリストを通して与えられているということです。神の御子イエス・キリストは決して架空の人物ではありません。ご自身の明確な人格と性質とによって行動された方です。
 聖書はイエスの十字架の歴史的な事実を次のように伝えています。
 「そして、イエスをゴルゴダという所--その意味は『されこうべの場所』--に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架に付けて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前9時であった。罪状書きには『ユダヤ人の王』と書いてあった。」(15:22~26)
 ここで、聖書はイエスが「ユダヤ人の王」として、すなわち「救い主」として、十字架の刑に処せられたと言っています。ユダヤ人の王という罪状書きを付けた者はローマの総督ピラトです。さらにローマの兵士たちは茨の王冠をイエスの頭に被せました。そういう姿でイエスは十字架に付けられたのです。

(2)人間の罪に対する神の審判
 このようにイエスの十字架刑は表面的に見ればこの世の権力者たちによって執行されたように見えます。確かにローマの総督ピラトはイエスが神の国の支配者であると自称し、ローマ帝国に反乱を起こそうとした政治犯と見て処刑しました。他方ユダヤ教の指導者たちは、イエスが自分たちの宗教的伝統を根本から転覆させる危険人物であると判断し、イエスを殺害するため、ローマ総督にイエスはローマに謀反を計画している国家に対する犯罪者であると訴えたのです。この両者の策動によってイエスは処刑されたということができます。
 しかし、それはあくまで歴史の表面的な現象であります。実にイエスの十字架は人類を救おうとする神の遠大な計画と熱意によって生起しました。この世界と人間の主権者である神の救いは神の裁きを通して実現します。これが聖書の一貫した信仰です。しかし、そのためには神の御子イエスが罪人に代わって裁かれる必要がありました。
 従って、ローマの総督ピラトの思惑とは違って、神はイエスを「ユダヤ人の王」として、言い換えれば人類の救い主である「メシア」として、イエスを裁くことによって人類の罪を裁かれたのです。
 自己の罪によって神から離れ、神に敵対している人間を赦し、神との交わりの中で生かすためは、神が人間の罪を断罪し、取り除く必要がありました。すなわち人間の罪を贖うことが必要でした。
 それでもどうして神は人間の罪をそんなに厳しく取り扱われる必要があるのか。神は愛であるならば、赦してくださればそれによって罪の問題は解決できるのではないか、という疑問を持つ人は多くいることでありましょう。
 しかし、それは罪の深刻さが全く分かっていないからです。罪とは神が人間に定めた道徳的な、また社会的な規範に反する行為と言うだけではありません。それは人間が神の愛と恵みを踏みにじったこと、神を裏切ったことによる神と人間との人格的な関係を人間が破り、破棄したという信頼問題なのです。
 この世界とすべての物は創造者である神によって創造されたのです。それゆえ万物の中に神の恵みが働いています。特に人間は「万物の霊長」と言われているほどに神から特別の恵みを頂いています。しかし、人間に対する神の恵みはそれだけではありません。創世記1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と人間に対する神の愛を宣言しています。これは人間を神様はご自身の人格的な交わりの相手として選ばれたという人間に対する神の愛の決断なのです。
 その結果、人間は神を信じ、神に祈り、神の御心を知り、神に従うことによって、この世界の秩序を守り、世界の運営を神の御心に従って行う大きな責任が与えられているのです。
 ところが、人間は貪欲と高慢により、世界を自分の所有物にすることを欲し、そのために行動して来ました。それは神に対する違反行為だけではなく、神の愛を裏切ったという信用の問題です。それが罪です。この神との信頼関係を回復するには、罪を根本的に解決し、人間が神の信頼に答え得る新しい人間、すなわち根本から正しい人間になる必要があるのです。
 そのためには、人類の罪に対する神の正しい審判が必要なのです。しかし、人間は高慢と貪欲によって神に反抗し、神の愛に対する裏切りを何も気にしない状態になってしまいました。そのような人間を神が幾ら裁かれても、あるいは何度裁かれてもそこでは神の真理、真実と義、愛が貫徹することは不可能なのです。
 従って、神ご自身がその解決の道を切り開いてくださいました。それは人類の歴史の中で、最終的で決定的な、それゆえただ一回限りの裁きをするためです。つまり神は人間の罪に対して徹底的に正しい裁きをするため、人間の罪を御子イエスに負わせ、御子イエスを裁かれたのです。ここに神の無限に深い愛が啓示されています。
 神は人間のために、人間に代わって、神にとって唯一の愛する御子を犠牲として、裁かれたことによって、実は神が御子を人間に与えられたのです。これは何と言う深い神の愛でありましょうか。
 聖書はヨハネによる福音書1章16~17で次のように言っています。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ここにキリストの福音の中心があります。
 
(3)十字架上の御子の叫び
 そもそも十字架による死刑は人類史上、最も残酷な刑罰です。それゆえローマ政府は奴隷の死刑に対してだけ十字架刑を適用しました。
 ところで、十字架が残酷である理由は、十字架に付けられた者がすぐに死んでしまうのでなく、昼は熱い太陽に照らされ、夜は寒さに凍え、猛烈な喉の渇きを覚え、何日もそのまま放置され、見物に集まって来た人たちの嘲笑にさらされながら、次第に体力が消耗し、いつとはなしに息絶えるのです。それゆえ十字架につける前に、兵士は没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに飲ませようとしました。
 「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。」(15:23)
 苦しみを和らげる緩和剤として、十字架の死刑囚には「没薬を混ぜたぶどう酒」を飲ませるのが習慣だったのです。しかしイエスは少しも飲もうとはされませんでした。それは十字架の死を明確な意識と感覚をもって体験し、最後まで父なる神に従順であろうとする御子イエスの強固な意志によるのです。次に聖書は現場の様子を伝えています。
 「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』」(15:29~30)
 今や全く無力になっているイエスに向かって人々は、侮辱し、嘲りました。このように自分を救う力のない者が、どうして人類の救い主であろうか、そんなことは人間を馬鹿にしている、という世間一般の見方をして、イエスを嘲笑したのです。
 このような人々の侮辱や十字架の苦痛をイエスは耐え忍び、一言も発せられませんでした。そこに沈黙が続きました。この長い沈黙は、世の罪と闇の勢力が支配する「時」であり、御子イエスが神から切り離され孤独の中にあった「時」であることを示しています。
 その沈黙は3時間にも及びました。ちょうどそのとき、太陽も光を失い、闇がその地方一帯を覆ったのです。多分「シロッコ」と呼ばれる砂漠から吹く砂嵐が太陽を遮り、辺り一面が夜のように暗くなったのだと思われます。しかし、マルコはこの暗闇を超自然的現象と見ています。
 「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(15:34)
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これはアラム語です。イエスはアラム語でこのように叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神に訴えられたのです。
 何という悲しみと苦しみに満ちた言葉でありましょうか。しかし、この叫びは民衆から嘲笑され、侮辱されたことによる苦しみを表しているのではありません。そうではなく、実に神との交わりから切り離され、ただ一人になり、全くの虚無の中で孤独な死を迎えることの恐ろしさを表しています。
 しかし虚無の苦しみの中でも、御子イエスはなお父なる神に従順であったのです。イエスの他にいったい誰が、そのような状況の中でなお神を信じ、神への従順を貫き通すことができるでしょうか。誰もできません。きっと神を憎み、自分を裁く神を汚す言葉を吐くでありましょう。そのような人間に対しては、神が正しく裁き、神の義を確立することはできないのです。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というこの悲痛な叫びは、神を「わが神」と呼んでいます。正に神から見捨てられたという状況の中で、イエスの心の底から湧き出た言葉です。「わが神」という言葉は父なる神への信仰を言い表しています。これは次の二つの事柄を告白しています。
 第一に、主イエスはわたしたちに代わって、わたしたちの罪を告白し、わたしたちの罪をご自身の罪として引き受け、ご自身が神の裁きに服されたということです。
 第二に、徹底した正しい裁きを通して、神が人類に新しい命を与えられることを主イエスは確信されたのです。そして必ずご自身を復活させられると信じて、死なれたのです。
 このように死に至るまで父なる神に従順であられた結果、神の御子イエスは人類の罪とその結果である虚無に勝利されました。これこそ、御子イエスが人類の救い主としての使命を完全に果たされたことを意味しています。実に、御子の死に至るまでの従順こそ、死であるよりもむしろ生命なのです。それゆえ、御子が十字架の上で流された血は霊的生命を表しています。
 また、マルコによる福音書15:37~39では次のように証しています。
 「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。--百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そしてイエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当にこの人は神の子だった』と言った。」
 イエスの十字架の一番近くでそこに起こった一部始終を監視していたローマの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった。」と深い感動をもって証言しました。
 この隊長は、十字架の肉体的な苦痛、精神的な苦悩と恐怖は普通の人間が正気のままでは耐えられないことを熟知していました。
 それだけでなく、イエスは極度の衰弱の中で、臨終の際に大声を出して、息を引き取られたのです。多分イエスはまだ幾分か体力が残っていたでありましょうが、極度のストレスのために血栓か、あるいは心筋梗塞に陥り、最後の力を振り絞って、ヨハネによる福音書19:30が伝えているような言葉、「成し遂げられた」(救い主の使命を果たした)と大声で叫ばれたのだと思います。イエスのこの精神力を目の当たりにした隊長はこの人こそ神の御子であると信じました。
 
(4)千歳の岩
 最後に、神は主イエス・キリストにおいて人類の罪を裁き、同時にキリストにおいて、キリストを通して、人間に神の義と新しい命を与えられたということ、これが正にキリストの十字架の秘儀であります。
 それゆえ主イエス・キリストとわたしたちとの結びつきは、神の御前に永遠に有効なものとされています。その結びつきは、キリストの人格的な、愛による、そして聖霊による結びつきであるからです。
 その結果、主イエス・キリストを信じる者は、キリストの十字架の死において実現した神の義を授与されることによって、罪が赦され、神に仕える自由が与えられるのです。しかし、誤解してはならない点は、わたしたちが既に罪のない者となったのではありません。
 罪の赦しの中で、主イエスの命を受けて、新しく生きることによって、罪と諸々の悪に勝利する人生へと召されているのです。従って、地上での信仰生活を送るわたしたちにとって、キリストの十字架こそ、救いの岩であり、永遠に変わることのない千歳の岩なのです。
 讃美歌21の449番は次のように歌っています。
 「千歳の岩よ、わが身を囲め、裂かれし脇の 血潮と水に 罪もけがれも 洗い清めよ。--世にあるうちも、世を去るときも、知らぬ陰府(よみ)にも、さばきの日にも、千歳の岩よ、わが身を囲め。」
わたしたちはこのように歌いつつ、十字架を見上げて進んでいくのです。十字架こそ、主イエスがわたしたちのために、ご自身の命と義を与えてくださったことであり、今も後も永遠に与えてくださることなのです。そういう意味で十字架こそ神の愛の啓示であります。



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