2015-03-22(Sun)

祝福のゆくえ 2015年3月22日の礼拝メッセージ

祝福のゆくえ
江田めぐみ伝道師

 ヤコブは、父のもとへ行き、「わたしのお父さん」と呼びかけた。父が、「ここにいる。わたしの子よ。誰だ、お前は」と尋ねると、ヤコブは言った。「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、座ってわたしの獲物を召し上がり、お父さん自身の祝福をわたしに与えてください。」「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」イサクはヤコブに言った。「近寄りなさい。わたしの子に触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい。」ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼に触りながら言った。「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」イサクは、ヤコブの腕が兄エサウの腕のように毛深くなっていたので、見破ることができなかった。そこで、彼は祝福しようとして、言った。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。イサクは言った。「では、お前の獲物をここへ持って来なさい。それを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えよう。」ヤコブが料理を差し出すと、イサクは食べ、ぶどう酒をつぐと、それを飲んだ。それから、父イサクは彼に言った。「わたしの子よ、近寄ってわたしに口づけをしなさい。」ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒を、お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は、祝福されるように。」
創世記27章18~29節


 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
エフェソの信徒への手紙1章3~10節


 2011年3月11日に起きた東日本を襲った大震災から、5年目を迎えますが、今でも脳裏に焼き付いている当時の臨時ニュースから流れる、すさまじい光景は、あっという間に多くの人々や周りの建物などを巨大な津波がのみこんでいくさまは、悪夢を見ているようでした。残された人々は、ただ希望を失い、暗い日々が続いた中での生活を余儀なくされたのです。
 けれども、震災から5年目を迎え、その当時に生まれた子どもたちが、この世に生を受け、何もない不自由な中に、生きる望みを失った親や、周りの人々に希望の光として、神さまから与えられた祝福の中に生きられたことは、生きる望みを失った人々を、生きる喜びと希望に繋げていくことができたのです。

 わたしたちは、神さまから祝福をいっぱい頂いています。聖書の中には、沢山の祝福が記されています。神さまの祝福は、わたしたちが神さまから賜る幸福や恵みを、頂くことができるのです。
 そしてその祝福は、どんなものでしょうか。祝福について、みんなさまとご一緒に創世記27章18節から29節のみ言葉から、聞きましょう。

 人間は、だれでも生まれてから死を迎えるまで、死に向かって行進しています。父イサクも年をとり、いつ死を迎えるかも知れないと思うようになってきたので、神から与えられている祝福を長男エサウに与えたいと考えていのです。父はエサウを愛する気持ちを持っていましたが、妻リベカは弟のヤコブを偏愛し当然神からの祝福を受けるべきものは、ヤコブだと考えていたのです。父イサクも母リベカも、それぞれ自分の愛する息子に、神の祝福を与えようと考えるのです。けれども、ヤコブは母リベカの企みの話にのり、父イサクを巧みにだまし、エサウが受ける祝福を奪い取ろうとするのです。

 18節で、ヤコブが「わたしのお父さん」と言う呼びかけの声に、父イサクは疑いを持ったのです。父は、「誰だね、お前は」と言っていることは、エサウを予期していたのにヤコブの声がしたからでしょう。ヤコブは、母の指示に従い、父親を騙そうとして、当然声を変えてエサウの声色を使ったのです。
 父イサクの疑念を知ったヤコブが、「わたしは長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、座ってわたしの獲物の肉(鹿の肉)を召し上がってください。そしてお父さん自身の祝福をわたしに与えて下さい」と、ヤコブは自分の目的を果たそうとして、エサウになりすまし、「わたしの獲物」であると平気で、嘘をつき、父を欺こうとします。
 父は、そこで、「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、彼の早すぎる帰還を不審に思うのです。すると、ヤコブは、「あなたの神(エロヒーム)、主(ヤハウェ/アドナイ)が、わたしのために上手く計らってくださったのです」と利己的な目的のために神を用いてここでも嘘をついてしまうのです。

 父イサクは、ヤコブに「もっと近くにおいで。お前に触って、お前が本当にわたしの子エサウかどうか確かめてみたいのだ」と言って、ヤコブを触って確かめようとして、「もっと近くにおいで」と言われた時は、ヤコブの心の中では、いつ見破られてしまうのかと、一瞬緊張が走ったことでしょう。
 父イサクは、「声はヤコブの声だが手はエサウの手だ」と確認しながらも、手の毛深さのために、エサウであると父は、自分自身納得してしまうのです。父はなぜ、だまされてしまったのでしょうか。それは、ヤコブの手は、兄エサウの手のように、毛深く仔山羊の毛皮を覆っていたため、父は、目が衰えてほとんど見えなくなっていたので、近くに来たヤコブを見分けることができなかったのです。
 父イサクは、自分が何をしようとしているか、それがどれほど重要なことかを十分に知っていたのです。そこで父は、もう一度問い、ヤコブはもう一度欺くのです。
 ここでも、父はヤコブを祝福しようとしています。「本当にお前は、私の子エサウだね」と父の言葉に、「もちろんです」と、ヤコブは答えるのです。ヤコブは一度父を欺くことができたことに、少し自信をつけたのか少し大胆になり、それが悪い意味で自信となって答えるのです。
 慣れとは怖いものです。人は一度嘘をつくと、次にその嘘を隠そうとして、色々な手立てを企てて自分を守ろうとして、平気で嘘を付いてしまいます。特にヤコブのように目的をはっきりと持っていると、何としてでもやり遂げようという気持ちに駆られて、行動してしまうのです。

 父イサクは、ヤコブに「獲物(鹿の肉)を持って来なさい」と言って、そこでも、祝福を「お前に与えよう」とするのです。父は、出された料理を待ち兼ねていたのか、獲物を食べ、共に出されたぶどう酒を飲み、満足して子に口づけをし、彼は、エサウの着物の匂いをかいで、エサウの祝福の権限をヤコブに、譲ってしまいます。
 父イサクは、目が衰えました。自分に語りかけてくる声はヤコブの声だと思い込み、触覚や、味覚や匂いなどでだまされてしまい、ヤコブをエサウだと思い込んでしまって祝福するのです。
 誰でも思い込みはあります。その思い込は、他の人から言われても、なかなか本人は気づかず、そのままでいることが多くみられます。祝福は、神の祝福であるものを、「わたし自身の祝福」と言ってイサクが自分の所有物にしてしまっています。「信仰によって、イサクは将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました」(ヘブル11:20)。と記されています。これは、イサクが「未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福した」際の、イサクを動かしたその信仰にのみ関心を抱いているのです。

 ヤコブの口づけは、最も親密な愛の信頼関係のしるしです。しかし、彼は、それさえ欺きの手段にするのです。そして、その口づけは、父イサクに最終的な判断の機会となり、疑いもなく信じ、喜んで祝福の言葉を言ってしまったのです。ここで、祝福の逆転が起こるのです。それは、父イサクが祝福をエサウに与えるつもりでしたが、間違えて、弟ヤコブに祝福をしてしまいました。しかし、神は、彼らの過ちさえ用いて、神のご計画は進められるのです。
 「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ」と、父は、野の人としてのエサウの着物の香りを彼の香りとし、自らの好みのままに、それを野の香りと結びつけるのです。ここで、神は、祝福と契約との関係を示しています。ヤコブの衣装についている野の香りは、父の心から、息子の正体についての疑いのかげを晴らしてしまったのです。
 27節の並行聖書箇所を見ると、「露のようにわたしはイスラエルに望み/彼はゆりのように花咲き/レバノンの杉のように根を張る」(ホセア14:6)と記されています。

 この祝福の特異性は、まず父イサクがヤコブをエサウと取り違えた結果、いわば誤解に基づくものであります。次に母リベカやヤコブの欺き、イサクの誤解にもかかわらず、神はご自分の定めを間違いなく行われたのです。従って、父イサクの言葉は、ヤコブを祝福する言葉とされたのです。

 創世記27章の今日の聖書箇所18-29節の中に、祝福という言葉が、何回語られているでしょうか。全部で6回語られています。19節、23節、25節、27節、29節と、この中で、語られている祝福は、27節は、主が祝福されたということであり、それ以外の箇所はすべて、父イサクがヤコブを祝福しています。このように祝福はすべてヤコブに集中しています。これらの祝福には、一貫性があります。ヤコブが受けた祝福は、一般的な祝福ではなく、生けるものが必要な生命力のことです。その生命力を与えられている人たちは、成長させられるのです。そして、それは、他者をも幸せにするものであります。
 父イサクが、あのずる賢いヤコブに祝福を与えようとする時、1回のみならず、5回も繰りかえすことは、祝福の大切さを知っていたからです。そしてそのことは、一般的ではないと考えられます。

 祝福は、父イサクによって間違えてヤコブに与えられることは、これは人間の業ではなく、神のご計画が成就することなのです。主から「兄が弟につかえるようになる」(25:23)と言われているのにもかかわらず、兄イサクを祝福しようとしたイサク、み言葉の成就を待ちきれず自分の思いで祝福も策略計画を立てたリベカ、長子の権限を弟に売ったエサウ、母にそそのかされて祝福をだまし取ったヤコブの中にも、神は彼らとその子孫のために救いの計画を成就されるのです。
 リベカは罪を犯しましたが、神はリベカの子らたちの罪をその御手の中で、祝福へと変えてくださるのです。
 本来なら長子エサウのものである族長の祝福は、弟ヤコブに受け継がれるという逆転の行為がここではみられます。
 神は、事実上、その子らたちの罪を聖なる御手のうちにおとりになり、祝福へと変えられたのです。こうした事実は、ほかでもなく、キリストの受難、すなわち主の補縛、有罪宣言、十字架刑に際しても最もはっきりしたかたちで起こっています。けれども当事者たちの罪は何一つとして正当化されません。リベカの罪、ヤコブの行動は罪を免れません。ヤコブは祝福を受けようとして、偽ってだまし取ってしまったのです。ヤコブは20年間の追放です。
 神はすべてを見られる方であります。年老いた父イサクの貧弱と、母リベカについて、聖書は称賛することなく述べておりますが、神はそこから神の意図に役立つものを引き出されたのです。即ち、エサウよりもヤコブを「将来的な約束」の相手として選んだのです。
 人間の弱さとか邪悪さも、神の計画を妨げることはできず、しばしば神の計画に役立つのです。

 パウロにおいても、以前熱心なユダヤ教徒の信者で、その熱心さのゆえに、主イエスを救い主と信じる人びとの迫害者(ガラテヤ1:13)でありました。しかし、ダマスコの主イエスの弟子たちを迫害するために出かけた旅の途上で、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)。という主イエスの声を聞いて回心をするのです。
 パウロにおいても神の力が働いて、神の計画は進められて行きました。パウロは、主イエスに出会うまでは、人びとを迫害し、罪深いものでありましたが、主イエスに出会い、主イエスの声を聞き、主イエスを信じて、罪深い者をも、主イエスの十字架の贖いによって救われることができたのです。パウロが出会ったイエス・キリストは、すべての人のために死んでくださったのです。そのキリストの声を聞いて、彼は回心したのです。
 パウロはその後祝福を受け、それを人々に届ける者と変わるのです。
 パウロが、「キリストにおいて、お選びになり」(エフェソ1:4-5)、聖なる者とさたことを、前もって神が、お定めになっていたのです。ここには、神のみ業が働いたのです。
 ヤコブが祝福の担い手とされたことと、主イエスに出会って回心して、迫害者から伝道者に、立てられたパウロと同様であるのです。そこには逆転と祝福があります。

 わたしたちの信仰生活においても、自己中心的にものごとを考えてしまい、知らないうちに、神に背を向けていることもあります。またそのことに、気づこうともしないで、傲慢になっている自分がそこにいます。それでも、神は私たちを選び祝福を与えて下さるのです。パウロは、伝道者になって、異邦人に福音を伝えました。それが異邦人から、全世界にそして、今のわたしたちに、「よきおとずれ」として、主イエスの福音が届けられています。神の祝福は、最初アブラハムから、イサクへ、そしてイサクからヤコブへ時を経てパウロから異邦人に、さらに、日本のわたしたちへ届けられています。この祝福をわたしたちも、次世代へ継承していかなければならないことでしょう。

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