2015-03-08(Sun)

香油を注がれた主 2015年3月8日の礼拝メッセージ

香油を注がれた主
中山弘隆牧師

 家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。
詩編118篇22~23節


 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
マルコによる福音書14章3~9節


(1)愛による共感
 本日は主イエスに香油を注いだ或る女性の信仰を聖書から学びたいと思います。この女性が誰であったかという点では、福音書の資料によって異なっていますので、不明です。しかし女性の性格や心境につきましては、三つの福音書が語っている点は共通しています。それは主イエスの苦難に対する深い共感です。言い換えれば愛による共鳴であると言えます。
 人生の一番大切な事柄を認識する上では、知性による論理的な分析よりも、心の直観、或いは共感が非常に大きな役割を果たしています。また、そこに貴重な体験と深い思いの裏付けがある場合に、言葉では上手に表現できなくても、人は互いに共鳴し合うことができます。
 しかし、そのためにはそれぞれが自分の人生を歩む中で、困難に遭遇し、辛い思いをし、孤独に悩みながらも、素直な心を失わず、人を恨んだり、非難したりしないで、前向きに生き、挫折を乗り越えるときに、人の思いに共感できるようになります。
 或いはそのような共感は見えない導きの糸に対する心の反応であるともいえるかもしれません。あたかも鉄の小さい破片が磁石から出る目に見えない磁力に引かれるように、人を生かす目に見えない神様の導きを感じる信仰の心であるともいえます。
 それに致しましても、このとき主イエスに香油を注いだ婦人の行為は、主イエスにとって大きな意義を持っていました。マルコによる福音書14:9で、次のように記されています。
 「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」
 この言葉は少し誇張されているのではないかと思われるほど、婦人の行為をイエスが評価されたことを表しています。主イエスの福音が宣教されるところでは、婦人がイエスに対して行ったことも共に語られると言うのです。あたかもこの女性の行為は福音の内容の一部分であるかのように聞こえます。このように一人の女性の行為が主イエスから認められていますのは、主イエスとの心の深い繋がりのためです。その繋がりは、愛による共感、あるいは信仰による共感であったと言えます。言い換えれば聖霊の働きであったと言えます。

(2)感謝の香油
 「イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(14:3)
 当時の習慣では、来客が家に到着したときとか、あるいは食事の席に着くときに、数滴の香油を注ぎかけることが行われていました。香油の中でも、ナルドの香油はインドから輸入された舶来の高級品でありました。「ナルド」と呼ばれる植物から抽出された素晴らしい香りのする香油です。
 ところがそのような高価な香油をこの婦人は惜しげもなく全部使い果たしました。これには人々も驚き、あまりにも無謀な浪費であると彼女を非難しました。その値段は三百デナリオンもするというのですから、今日の金に換算しますと、約三百万円に相当します。なぜならば、三百デナリオンは労働者のおおよそ一年分の賃金に相当したからです。このときの様子を聖書は次のように伝えています。
 「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』 
 多分この香油はこの婦人の持っている唯一の財産であったのではないでしょうか。もしそうだとしますと、そのような高価な香油をイエスの頭に注ぎかけるために、惜しげもなく全部使ったのですから、その場に居合わせた人々が驚き、かつあきれたのも当然です。
 この光景は人々が想像もしなかったことが、アッという間に出来したので、もう取り返しはつかないので、どうにもならいのですが、常識的な判断から香油をもっと有効に使用すべきであると主張し、この婦人を激しく非難しました。しかしその場に居合わせた他の人々も、余りにも大胆で無謀と思える行為が理解できなかったと思われます。
 そこで、常識的に物事を考える場合、人の気づかない盲点があります。それは非常に重要なことです。つまり共感する心の欠如です。ここで実に大いなる浪費と思われる行為を一人の女性にあえてさせたのは、共感による感謝でした。

(3)時を知る愛
 迫りくる十字架の犠牲によって、主イエスの心は深い悲しみ、恐れと精神的苦痛に満たされていたのですが、この女性はそれを察知したのです。この点で死に対する態度は、古代ギリシャの哲学者ソクラテスとイエスとでは全く対照的です。ソクラテスは真の知識を愛する者として、彼が到達した「英知」は自分が真理を知らないということを知っているという「無知の自覚」でした。しかしこの英知はアテナイ市民に受け入れられず、ソクラテスは死刑に処せられました。その高貴なる姿が弟子のプラトンによって描写されていますが、少しも動揺することなく、落ち着いた態度で、従容として死んだというのです。
 ソクラテスとは対照的に、イエスの死は人類の罪を贖うための犠牲であり、最も恐ろしい死でありました。この婦人は自分たちが罪を赦され、救われるためにイエスが苦しまれたことに対する深い感謝の念に満たされて、自分のすべてを主イエスに献げたのです。
 おそらく、彼女は以前主イエスに出会い、心の深い悩みを癒された者であったのでしょう。それまで誰一人として自分の苦しみを分かってくれる人は居なかったのですが、自分が何も話さなくても主イエスはその苦しみのすべてを分かってくださったのです。
 彼女は主イエスの心の鏡に、自分のすべての苦しみが映し出されていると感じました。同時に、主イエスは自分とは全く異質で、罪が全くなく、完全に正しい人であると感じました。その完全に正しく、聖なる主イエスが、自分を完全に受け入れてくださっているのが分かり、彼女の心は到底言葉では言い表せない平安で満たされたのです。そして新しく生きる力が与えられたのです。
 そのとき、主イエスが自分の罪と苦しみを担ってくださっているからだ、と思ったのです。その深い感謝の気持ちから、主イエスの苦しみに対する共感が芽生えたのでありましょう。そこで次のようにイエスは仰せになりました。
 「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつまでも一緒にいる訳ではない。この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(12:6~8)
 この御言葉から分かりますように、彼女の行為と思いは主イエスの犠牲の死に対する深い感謝の念から、それに対して信仰的に応答したと言えます。イエスはこの女性の行為を、あらかじめイエスの「葬りの日」のために、イエスの体に油を塗ったのだと仰せになりました。
 また主イエスは彼女の行為を「わたしに良いこと」をしてくれたのだと仰っています。「良い」と訳されている元の言葉は「カロス」というギリシャ語ですが、それは「美しい」または「貴重な」と言う意味も含んでいます。それは「時に適って」、「美しく」、「貴重」なのです。
 主イエスは「無償の愛の行為」を教えるために、強盗に襲われ道に倒れていた旅人を助けた良きサマリア人の譬話をされました。その話の眼目は、サマリア人の自発性にあります。実に、息も絶え絶えの状態で道の真ん中に放置されていた一人の旅人に遭遇して、自分も同じ旅人として抱いたサマリア人の「共感による自発性」こそ、愛の働きなのです。
 またそれは時に適っています。そのような愛の行為は時を知って、大胆に行動するのです。概念だけで愛を知っていても、その愛は時に順応することはできません。
 主イエスがここで仰せになっているように、貧し人々はいつでもいるのですから、彼らに対して良いことはいつでもできるのです。それに対して、地上におられた主イエスに仕えることができるのは、その時点だけでありました。
 自然の営みは四季の移り変わりと循環があります。それに対して、人間が生きている時間は循環ではなく直線的に過去から未来に前進して行きます。過ぎ去った時間は二度と戻っては来ません。なおその時間の中でも、人生全体に決定的な影響を与える重大な時があります。
 主イエスのこの地上における人生はそのように貴重な時でありましたが、殊にその最後の時こそ、わたしたちの存在を根底から変える力を秘めた重大な時でありました。
 主イエスがわたしたちを愛し、わたしたちを罪から解放するために、わたしたちの罪をわたしたちに代わって担い、わたしたちの罪がもたらす神との断絶、そしてその結果である悲しみ、恐れ、死の中に、今まさに主イエスが入って行かれる時が差し迫っていたのです。
 イエスの悲しみ、恐れ、死はわたしたちの罪のためであります。この主イエスの心を思うならば、わたしたちはどれほど感謝してもなお足りないのです。このことを彼女は心の共感によって、直観的に察知したのでありましょう。
 地上における主イエスを見るときは、もう再び来ないのだと思ったのです。今こそ、主イエスにすべてを献げて、主イエスに仕える時であると考えて、この女性は行動しました。
 しかし、十字架の死においてこそ、主イエスはわたしたちとご自身とを連帯化され、死においても最早分離することのない深くて強い結びつきを与えられたのです。
 ここで、もう一つ大切なことがあります。ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架の苦難を受けられる時こそ、救い主としての栄光が限りなく現れる時であると見ています。
 これは主イエスの十字架の死と復活を一つの不可分離の神の出来事として見るヨハネ福音書の信仰的理解によるものです。
 ともかく、そのような決定的意義を持つ時を知って、この女性は行動しました。そこで、彼女が注いだ香油は、神がイエスを「王」として油注がれたことを意味しています。そこで、主イエスは神から油を注がれた王として、十字架に向かって行かれたのです。

(4)主に対する感謝の献身
 それでは、わたしたちを罪から救い、わたしたちが新しく生きるためになされた神の愛の行為である主イエスの十字架の悲しみ、苦しみ、死に、心から共感する者はどうすべきなのでしょうか。
 アイザック・ウオッツの有名な讃美歌298番は4~5節で、このように歌っています。
 「十字架のみもとに心迫り、涙にむせびてただひれ伏す。
 涙も恵みに報い難し、この身を献ぐるほかはあらじ。」
 ここで、涙もそれだけでは、神の愛、主イエスの犠牲に対する応答としては不十分である、自分の「存在全体」を主イエスに献げること以外にいかなる応答もあり得ないと言うのです。
 心の共感をもって、主イエスの思いと主イエスがわたしたちのためにしてくださった事柄の実態を直視するならば、そこからわたしたちは神の恵みを認識する光を受けます。
 つまり、自分の罪を悲しむだけでなく、主イエスの十字架において、わたしたち自身が主イエスと一緒に十字架に付けられて死に、主イエスの命と義に生きる新しい自分が、主イエスの復活において、与えられていることを知るのです。すなわち、わたしたちは主イエスによって、主イエスと共に罪人である古い自分に死に、同時に主イエスによって、主イエスと共に正しい人、新しい人として神の御前に生きる者とされたのです。
 それゆえ、わたしたちは自分の「全存在」がキリストの御手の中にあることを知り、「全存在」をもって「キリストに従う」ことが、信仰者の生き方であることが分かるのです。これが信仰による認識です。
 その際に新しい人は「自分の中」にではなく、「主イエスの中」に与えられているのです。それゆえ、わたしたちは常に「古い自分」とその思い、その業を捨て去り、主イエスの中にある「新しい自分」として生きるために、常に「主イエスに従う」ことが必要です。
 さらに復活の主イエスに従うことができるのは、主イエスが聖霊を通して、わたしたちの中に働いておられるからです。言い換えれば、聖霊を通して、わたしたちは主イエスの義と命を受け、主イエスの思いに共感するとき、主イエスが父なる神の御心に従い、喜んで、自発的に実行されたように、わたしたちも主イエスの命令を喜んで、自発的に実行するのです。
 その場合、わたしたちは必然的に様々な困難や苦しみ、恥、恐れに遭遇しますが、そこから逃避せず、それを担い、それに打ち勝って、隣人や自分に役に立つ良い業をするのです。
 要するに、主イエスに担われ、主イエスに従い、主イエスの命令を実行する生き方が、神の恵みに対してわたしたちが全存在をもって行う感謝の応答です。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR