2015-02-22(Sun)

キリスト者の自由 2015年2月22日の礼拝メッセージ

キリスト者の自由
中山弘隆牧師

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
エレミヤ書31章31~33節


 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
ガラテヤの信徒への手紙5章6~14節


(1)福音の真価
 本日の礼拝のテキストは使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙5章です。今朝は特にここから神の御心を新たに聴くことを切望する者であります。聖書は5章の冒頭で次のように言っています。
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)
 キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった、というこの御言葉は、キリストの十字架の死による贖いにより、わたしたちを奴隷の身分から神の子たちの身分へと解放してくださった、という意味です。
 ところで自由と言うときにわたしたちは何を考えるでありましょうか。日本の憲法は第一に、国民の誰でも人間らしく生きるための基本的人権を認め、言論の自由、学問の自由、集会の自由、結社の自由などを認めています。第二に、経済的な面からすれば、力のある階級が庶民の生活を抑圧することがないように、民主主義を掲げています。このような現代社会は多くの自由が保証されています。  しかし人々は様々な問題や状況の中で圧迫され、生きる希望を失い、多くの人が自殺に追い込まれています。表面的に見れば発展した社会の裏面には多くの矛盾と不正が隠されており、悪の勢力が暗躍し、多くの人々が苦しんでいます。そこには人間としての自由が喪失している現実があると言わざるを得ません。
 従いまして、聖書の言う自由とは社会的な問題ではなく、一個の人間の存在と生活のすべての面から見て、トータルな視点からの自由です。それは道徳的で霊的な領域での自由であり、自由なる人格の問題であると言えます。
 しかし、この点を理解するために、先ず聖書の世界観と人生観を知ることが必要です。それは全知全能の神が世界と人間の創造者であり、救済者であり、恵み深い主権者であるということです。
 この恵み深い神の御前では、つねにわたしたちのすべての面が、わたしたちが考えること為すことの全体が明らかになっています。それゆえ神から見て、わたしたちが神との「正しい関係」に入れられているかどうかが問題であり、わたしたちの生死を決する大問題なのです。そこで正しい関係とは罪人が罪を赦され、「神との和解」の中に入れられることです。
 従って、神と和解させられた人間は決して罪のない人間になったのではありません。依然として罪人のままです。それにも拘らず、神の御子イエス・キリストの地上での人生そしてその集大成としての十字架の死による人類の罪の贖い、さらにキリストの復活による人間に対する神の主権の確立によって、神は主イエス・キリストを人間の受けるべき「義と聖と命」とされたのです。
 神のこの行為を「信じる」ことによって、信仰者は神との人格的な交わりに入れられるのです。ここに福音の真価があります。
 言い換えれば神の恵みとは、わたしたちが果たさなければならないにもかかわらず、わたしたちは実行できないことを、キリストがわたしたちのために、わたしたちに代わってすべてを実行し、達成してくださったということです。その神の恵みによって、人間は今なお罪人であるにも拘らず、自己の「新しい存在」すなわち「神の子」としての「新しい人間」が自分の中にではなく、キリストの中に与えられているのです。
 このことを信じるとき、人は信仰によって「キリストとつながる」のです。そのことによってクリスチャンは新しい人間として生きることができるのです。実にこの点が福音の真価なのです。
 それゆえクリスチャンはいかに罪深い者であっても、キリストの義と聖と命を授与されているゆえに、新しい人間すなわち神の子として生きることができます。

(2)神の子としての自由
 ここでパウロはクリスチャンに与えられている自由が何であるかを明瞭にするため、奴隷と神の子の身分を対比しています。
 先ほど引用しました5章1節の言葉「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」というのは、具体的に何を意味しているのでしょうか。奴隷の軛につながれている人たちとは誰でしょうか。それはユダヤ教徒を指しています。彼らはキリスト教会の中に潜り込み、クリスチャンを再び奴隷にしようと策動している人たちです。
 彼らは神の命じられた律法を守ることを最優先させ、そのために最大の努力を払っていましたが、その動機や目的は戒めを守ることによって、神の救いを得るためでした。また様々な戒めを守らなければ、神の罰に遭うことを恐れているためでした。その恐怖心から強制されて律法を実行していました。
 結局、彼らは律法を守ることを自己の功績とし、功績によって救われると考えている者でした。従って、その在り方を総括すれば、奴隷の心で神に仕えていると言えます。
 他方、クリスチャンはキリストによって奴隷の身分から解放され、神の子とされているゆえに、神の子の自由をもって神に従い、神の律法を実行しているというのです。
 つまり、クリスチャンとは神の恵みに感謝し、神に従うことを最大の喜びとし、自ら進んで神の律法を実行する者であります。クリスチャンにとって神の命令を実行することが自分の喜びなのです。
 従いまして、クリスチャンは何をしてもよい自由が与えられている訳ではありません。自分の欲望を満たすために、何をしてもよいというのは本当の自由ではありません。自由とはその反対であり、罪人としての自分の心の中に働く様々な欲望、罪の思い、この世の様々な誘惑と戦い、それらに勝利し、それらを捨て去る自由です。

(3)キリストの愛とクリスチャンの使命
 次に、パウロはキリスト者の自由を「愛の実践によって働く信仰」という面から強調しています。このことをわたしたちは常に心に留めていることが肝要です。
 「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5:6)
 実際、この世界には人々を互いに差別する価値観や規範があり、人々はそれらに拘束されています。例えば民族的な差別、文化的な相違などです。
 福音の内容から見て、人間的な一切の差別はキリストにおいて既に破棄されています。それにも拘らず、同じ唯一の神を信じる者たちの中で、割礼の有無が救いに関する最も重大事であると主張して、割礼に固執するユダヤ人キリスト者がいました。
 割礼を初めとして、ユダヤ人と異邦人と区別するための多くの規定がありました。要するに「モーセの律法」と呼ばれている戒めです。ファリサイ派の人々はイエスの弟子たちが食事の前に律法によって定められている「手を洗う」戒めを守らないと言ってイエスを非難しました。そのとき、イエスは手を洗わないことが人を汚すのではない、人の口から出る邪悪な言葉が人を汚すのだ、と仰せられました(マルコ7:5、15)。
 それゆえ、イエスは旧約聖書の中で、モーセの十戒(マタイ5:21~48)と申命記6章4~5節の御言葉「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、また魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という神の命令以外のモーセの律法は既に無効になっている律法として取り扱われました。
 またヘブライ人への手紙は、モーセの律法が規定している祭司制度と礼拝の仕方は主イエスによる真の礼拝が実現した結果、すべて無効になり、それらの規定は廃止されたと言っています(ヘブライ7:11~18)。また宗教改革者カルヴァンも旧約聖書の中で、礼拝や儀式に関する規定はすべて廃止されたといっています。
 それゆえ、福音が定めている神の律法は、先ほど説明しましたようにイエスがこれは神の命令であると仰せになった律法なのです。さらにそれらを総括する律法として、イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と仰せられました(ヨハネによる福音書15:12)。
 従ってパウロはイエスによって啓示された神の律法を「キリストの律法」と呼び、自分はキリストの律法に従っていると言っています(コリントの信徒への手紙一、9:21)。またヤコブの手紙は、キリストの命令を「自由をもたらす完全な律法」、或いは「自由の律法」と呼んでいます(ヤコブの手紙1:25)。
 このように、「キリストの命令」である律法が神の真の律法なのです。そして「キリストの律法」はキリストに結ばれている者の中に働く自由によって、実行可能なのです。それゆえ、神はキリストに命じ、キリストが実行された事柄を真の律法と定め、それ以外には律法は存在しないと仰せになったのです。
 このことについて、神はすでに預言者エレミヤを通して預言されていました。それは預言者エレミヤの語った新しい契約と律法です。その内容は、キリストの贖いによって神が信仰者と結ばれる「最終的な契約」において、神の律法が信仰者の「心」に記されることです。今や「心に記された神の律法」が「キリストの律法」となりました。それゆえキリストに結ばれた信仰者が実行できるのです。
しかし、このキリストの律法はわたしたちクリスチャンに実に大きい使命と課題を与えています。なぜならキリストは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と仰せになるからです。実際、果たしてわたしたちはキリストのように人を愛することができるでしょうか。今でもなお罪人である自分にはそれは無理な話のように思えます。大よそそれは自分の思いと自分の力では、全く実行不可能な性質の愛に関する問題であるからです。
 しかし、たとえ少しでもキリストの命令を実行するためには、キリストと出会い、キリストとの人格的な交わりを通して、キリストの意志を知り、理解し、今でも復活のキリストがわたしたちの中で働いておられるその業をわたしたちは信仰をもって知り、信仰をもってキリストの義と命を受け、信仰をもってそれを実行しなければならないのです。従って、わたしたちの果たすべき使命は無限に大きいことが分かるのですが、わたしたちが実際に実行する愛の業は、極めて貧しく、小さく、不完全なのです。
 しかし、キリストは恐れるな、わたしはあなたの人格の中に臨在し、働いている。それゆえあなたはわたしに従うことによって、わたしの命令を実行することができるのだ。一番大切なことは自分の実行する愛の業が、多いか少ないか、完全であるか、不完全であるかが問題ではなく、心を尽くし、力を尽くし、真剣に、最大限の努力をすることである。
 そうするならば、あなたはわたしの命令を実行したことになるのだ。そのことを神は喜んでくださると、と仰せになるのです。
 最後に、わたしたちはキリストに愛されているように、わたしたちが隣人を愛し、また信仰の友と互いに愛し合うということは、具体的にどうすればよいのでしょうか。この点に関して幾つかのことが指摘できます。
 先ず、キリストからわたしたちは赦されているように、わたしたちも人を赦すことです。
 次に、友と出会い、隣人と接するときに、その人格を尊重することです。その人の中にキリストが働き、キリストの思いに従って判断し行動しているその人の自主性を尊重することです。エレミヤの預言にあるように、クリスチャンは信仰の問題に関して、友を支配してはならないのです。また、友に支配されてもならないのです。互いの自主性を尊重し、それぞれの立場と判断によって、キリストの命令を実行するために、互いに助け合うことが愛することです。自分の考えを押し付けることと、アドバイスとは違います。自分とは異なる相手の生き方を理解し、友のために祈り、また自分のために祈り、助け合うことが、互いに愛し合うことです。
 わたしたちは自分の背中に背負っている古い利己的な自分の思いと業とを捨て去り、キリストの思いを知り、キリストに喜んで従い、キリストの命令を実行することに向かって、絶えず前進しなければなりません。わたしたちは復活の主を一心に見詰めて、わたしたちを導いておられる主に従って行かなければなりません。それは死の際まで続くのです。脇見をしている暇は毛頭ありません。わたしたちは自分がどの程度の愛の業を達成したかを評価することは自分のすることではなく、キリストがされることであり、自分は常に全力投入して愛の業を実行しなければなりません。そのような実行を神が喜んでくださいます。正にこのことは、わたしたちが「生ける神」の前で、キリストの義と命に生かされているという霊的現実です。
 言い換えればキリストから溢れ出る愛が、わたしたちの中に働き、隣人への愛として、また信仰者同士の互いの愛として、わたしたちを通って、相手に向かって流れ出ていくのです。
 つまり、クリスチャンがキリストの愛を実行することは、要するにクリスチャンがキリストの愛の通る「チャンネル」として働き、その役を果たすことです。



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