2015-02-15(Sun)

罪を贖う父の愛 2015年2月15日の礼拝メッセージ

罪を贖う父の愛
中山弘隆牧師

 ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
イザヤ書43章1~2節


 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15章11~24節



(1)主にある交わり
 本日は、埼玉地区でもう長年実施しています交換講壇によって、木ノ内先生が三芳教会で説教して下さり、わたしが川越教会の礼拝で説教の奉仕をさせていただくことはまことに感謝です。
 教会はそれぞれの場所で礼拝を守り、信仰共同体を形成しています。これは各教会が自立して歴史の中で存在し、活動している在り方です。この点は教会が人類の歴史を貫いて存続するために不可欠な要素です。
 同時に、霊的な面から言えば、「教会の頭」は主イエス・キリストであり、「教会」はキリストの体であります。主が一つでありますので、キリストの体も一つです。従いまして、「個々の教会」は一つであるキリストの体から見れば、その枝であります。このような教会の霊的性質から、地区の諸教会が礼拝における交わりによって、互いに主の教会であることを体験し、確認することができるのは真に恵みの時であります。

(2)神の愛と正しさ
 本日の聖書の箇所の小見出しに、「放蕩息子のたとえ」と記されています。この話は皆様が良くご存知です。しかし、この話は何回読みましても新鮮であり、そこに尽きない神の愛と恵みが溢れていることをわたしたちは知らされます。なぜならば、この譬え話を作られた主イエスの思いと内的生命がこの中に込められているからであり、譬え話は今も生きて働いておられる主イエスと不可分離です。
 従いまして今も主イエスはそのような方として、罪人を探し求め、見つけだし、罪の赦しを与え、神との交わりの中で生かしてくださる方です。また神の愛と正しさを、他方神を信じて悔い改めるクリスチャンの姿を、これら両方をこの譬えで鮮明にしておられます。
 実にこの話は非常に簡潔に述べられていますが、そこに神と人間の実際の姿が現わされているのです。この点をわたしたちは熟読玩味することが大切です。
 この親にしてこの子ありと言われるように、親の良い感化を身に受けて、頼もしい社会人になる青年もいますし、どうしてこの親からこのような不出来な者が育ったのかと首をかしげる青年もいます。
 この譬え話の青年は前者ではなく後者です。彼は甚だ利己的であり自分の欲望に駆られて、長年父に育てられたにもかかわらず、父のことが全く分かっていませんでした。子に対する父の深い愛情だけでなく、父がいかに正しく、公平であり、真実な尊敬すべき人であるかが分かっていなかったのです。多くの雇人に対する父の態度と処遇の仕方の善い面を見ようとはせず学ぼうともしませんでした。 
 この息子は、楽しく過ごすことだけを欲し、地味に働くことの喜びを知ろうともせず、享楽的な夢を追い求め、心の底まで世の誘惑に染まっていました。そのため、自分に将来貰うようになっている財産を早く欲しいと強請って(ねだって)分けてもらい、家を出て煙たい親の目の届かない遠い地方に行ってしまいました。
 そこで自分のしたい放題のことをし、遊女や悪友と楽しく、可笑しく過ごすうちに、親から貰った財産を食い潰してしまいました。しかし悪いことは重なるもので、その地方にひどい飢饉が起こり、彼は忽ち路頭に迷う者となったのです。
 その町にいる或る人のところに行って雇ってもらいましたが、その人は彼に豚を飼育する仕事を与え農場に送りました。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物であり、豚の飼育に携わることは最も大きな屈辱で、彼は自分の哀れさが身に染みるように感じたことです。さらにその雇い主は無情な人で、彼に賃金も食料も一切与えませんでした。彼はだれも助けてくれないので、孤独の暗闇の中に突き落とされました。そのときこのままだと死んでしまうと直感しました。
 その恐ろしさの中で初めて「われに返った」のです。父の家では多くの雇人が有り余るほどのパンを得ている。それと比べると、自分の雇主は何も与えず、自分は徒働きを強いられている、このことに気付いたとき、彼の父に対する見方が一変しました。
 まことに父は正しい、公平な、情け深い人である。また我が侭で無知な自分に対してもどれほど寛容であったことか、利己心に凝り固まっていた悪い息子にも良くしてくれた。この父の愛を自分は裏切ったのだ、と気が付いたのです。
 同時に、もう息子と呼ばれる資格は全くないが、父に対して罪を犯したことをどうしても告白したい。そして父の憐れみと真実さに寄り頼み、息子としてではなく、雇人の一人にしていただきたいと、願ったのです。これは父が正しく、愛と憐み深い人であることが今や本当に分かりましたので、心底から父に信頼し、自分の願いを申し述べたいと思ったのです。
 これが悔い改めるということです。この青年は自分の罪がいかに深いかを知りましたが、それでも絶望しませんでした。なぜならば、希望の唯一の支えは父がどういう方であるかに、一切がかかっていると気が付いたからです。
 もし彼がこの機に及んでまだ自分を言い張るとするならば、自分が死に直面しているという絶望の中では、自殺するより他に方法はないのです。或いは自殺できないときは、他の人を殺して自分も死のとするのです。しかしそれでは自分の罪を悔い改めたことにはなりません。なぜなら絶望と悔い改めとは正反対であるからです。
 それゆえ、この放蕩息子が悔い改めることができたのは、専ら正しい、真実な憐み深い父が存在するからです。彼は最早自己を主張せず、自分に頼らず、父に対して犯した自分の罪を告白し、赦しを乞い求め、父の憐みにより、召使いとして置いてもらいたいという一心で、即座に立ち上がり、家に帰ってきました。その途上でも、この思いを反復しながら歩きましたので、不思議な力が働き、病気にもならず、元気な姿で帰郷できました。
 他方、父親は家を出て行った息子に対する愛情を放棄することはありませんでした。息子は自分の罪に束縛されて、闇の中に消え去り、自分の前から失われてしまった。今はもう死んだのも同然であると思いながら、なお息子を憐れみ、息子が滅びてしまうことを望まなかったのです。自分はお前を赦している。息子よ、家に帰れと、自分の一番奥の心が叫ぶのです。これは裏切られても変わらない愛であり、憐みであり、「贖罪愛」であります。それゆえ、息子が帰ってくることを父親は期待し、待っていました。
 ある日に遠くを見ていると、こちらに向かって近づいてくる息子の姿を発見しました。そのとき深い憐みの情に突き動かされ、父親は走り寄り、息子の首を抱いて、接吻しました。
 その場で、息子は跪き、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はあらいません。」と言いました。これが息子の罪の告白と悔い改めです。
 息子の気持ちを父は即座に理解し、喜びが全身から沸き起こり、息子を受け入れ、自分のもとに置き、新しい人生を生きるために必要なものすべてを、しかも即座に与えました。それが晴着を着せることであり、指に指輪をはめることでした。
 ここで、「晴着」は息子の更生を意味しています。死んでいた者が生き返ったことを意味しています。言い換えれば「救い」を意味しています。「指輪」は「養子」になったことを意味しています。
 父親は今や、帰ってきた息子を見て、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。」と言って喜び、祝いの会を開きました。肥えた子牛の上等の肉を料理し、上等のぶどう酒を出し、歌を歌い、ダンスをして、皆で喜びました。この父親の喜びを、悔い改めた息子はもちろんのこと、同席した人たちも共にしたのです。
 ところで、この祝会の主役は、悔い改めた息子ではなく、慈愛深い父親です。それゆえ悔い改めて、救われ、新生し、新しい人生を始めた息子は二枚目なのです。ここで父の気持ち、そして悔い改めた息子の気持ちを、心に手が届くほど鮮明に、具体的に描写しておられる主イエスは「父なる神」について、語っておられるのです。
 父なる神は罪人が神のもとに立ち帰ることを何よりも欲しておられます。神は預言者エゼキエルを通して、呼びかけられました。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33:11)。 
 そして「立ち帰る道」を備えられました。それが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いであり、罪人に対する罪の赦しです。さらに信じる者に、キリストの復活により達成されました「神の義」を無償で授与することであり、キリストの中に「新しい人間」を創造されたことであります。従ってそれは「キリストの支配」のもとで信仰者が新しい人間として生きることです。
 ここに神の大いなる喜びがあります。この譬え話の眼目はこの「神の喜び」です。

(3)神のもとへ立ち帰る
 それでは、ここで示されている悔い改めを実行し、父のもとへ立ち帰った者とは誰でしょうか。それこそわたしたちクリスチャンなのです。クリスチャンとは、主イエス・キリストを信じることによって罪を赦され、本心から悔い改めた者です。神から失われていた者を神が主イエス・キリストによって見つけ出してくださったのです。死んでいた者を生き返らせらせてくださったのです。そのことを神は何よりも喜ばれるのです。
 その神の喜びを身に受けて、クリスチャンは悔い改めたのです。従って、悔い改めとは人間の生き方、心の向きを逆転させることです。それは最早自分が自分の主人公ではなく、自分の主人公を主イエスとして、主イエスに従うことです。神のもとから離れる方向に歩んでいた者が、神のもとへ向かって歩み出すことです。
 なぜならば罪のない神の御子イエスが人類の罪を背負い、人類の罪のために神から裁かれ、罪の責任である死を全うされました。この神の究極的なそれゆえ一回限りの裁きによって、人間のすべての罪は御前に取り去られましたので、神は人間の罪を赦されるのです。人間がどれほど罪を繰り返しても、神は常に赦されるのです。
 同時に、神はこの裁きによって、罪を裁かれましたので、わたしたちの自己中心的な生き方に最早将来性はないという判決を下し、あなたは自分自身に寄り頼んで生きてはならないと命じられたのです。さらに、神が人間の救い主として与えられた主イエスに寄り頼み、あなたは主イエスに従い、その命令を聞いて実行しなさい。そこに「あなたの未来」が開けているのだと、仰せられたのです。
 さらに人類の代理者として、人類の罪の裁きを受け、死の最後まで父なる神に従順であった主イエスを、神はわたしたちの受けるべき「義と聖と命」とされました。そして主イエスの中に新しい人間を創造し、信じる者を主イエスの支配の中に移されたのです。
 この恵みの霊的現実を別の角度から表現すれば、復活し、人間の主権者となり、生きて働いておられる主イエスは、聖霊を通して、信仰者の中に働いておられるのです。それゆえ主イエスに従うことが新しい将来性のある生き方なのです。
 このように神との人格的な交わりに入れられたクリスチャンは、「神と和解させられた人間」です。神の子としての新しい人間です。従ってクリスチャンは最早「罪のない人間」となったのでは決してありません。常に罪を犯す罪人です。それにも拘らず、罪を赦され神の子とされており、神の子として歩むことが可能です。この可能性は極めて逆説的な可能性です。しかしその根拠は主イエスによって生起した「贖罪の出来事」です。
 それゆえ、クリスチャンは古い人間と罪を自分の背後に背負っている人間です。最早自分自身に頼ることは禁じられている人間です。常に主イエスによって神を見つめ、神に向かって生きることが新しい人間、神の子とされているクリスチャンの行動です。しかし問題は復活の主は今や神として働いておられますから、人の目に見えない方です。その御声は人の耳に聞こえません。それにも拘らず復活の主はご自身の「存在の中心」に「人間性」を持っておられる方なので、その生ける主イエスを人は「信仰」を通して確信できるのです。その生ける御声は、信仰を通して心で明瞭に聞き取れるのです。そして復活のキリストの命は「聖霊」を通して、クリスチャンの中に常に注がれるのです。さらに、主イエスの十字架の死において啓示された神の「贖罪愛」は、聖霊を通してクリスチャンの心に常に注ぎ込まれているのです。このことを「聖霊による信仰」をもって、はっきりと認識するとき、クリスチャンは聖霊を通して自分の中に働いておられるキリストに従うことができます。
 それではわたしたちはどうでしょうか。キリストにすべてを委ねて眠り込み、主イエスが先だって進んで行かれるのに従わないでいいでしょうか。そんなことはキリストのもとでは通用しません。キリストはわたしたちを父なる神の御もとへ導かれる方です。そのキリストの霊的な姿を「見つめ」ながら、絶えず進んで行かなければなりません。
 それでも神と和解させられているクリスチャンは地上で完全に罪のない者にはなれません。キリストの再臨の時を待たなければなりません。そのときすべての人間が父なる神の御前に立つのです。その「保証」がわたしたちに与えられている聖霊です。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR