2015-02-08(Sun)

万事を益とされる神 2015年2月8日の礼拝メッセージ

万事を益とされる神
中山弘隆牧師

 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
エレミヤ書9章22~23節


 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
ローマの信徒への手紙8章23~30節


(1)クリスチャンの喜び
 宗教改革者ルターはローマの信徒への手紙の註解書の中で、次のように言っています。
 クリスチャンは悪魔の攻撃を受けて、悪戦苦闘している最中でも、自由と快活さをもって明るく笑うことができる、と言うのです。その理由は、復活して天にいます神の右に坐しておられるキリストの最終的な勝利とキリストの笑いに、クリスチャンは与っており、既にこの地上で、天上における最終的な勝利の先取りとして喜ぶことができるからである、と言っています。
 われらは今なお闇の勢力に激しく襲われているが、それにも拘らずキリストの最終的な勝利をわれらの態度と言葉で表すならば、そのことによってわれらは復活のキリストを証しているのだ、とルターは臆せず公言します。
 従って、「われらは共に愛し合い、共に集まり、共に喜び、共に歌おうではないか」とルターは非常に力強く語っています。

(2)神に知られている人生
 このようにクリスチャンはキリストの最終的勝利を確信しておりますので、次のように宣言することができます。それは本日の聖書の箇所である8章28節の使徒パウロの言葉です。
 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
 しかし、この万事が益となるという意味は、決して万事が自分の思っているようになるというのではありません。なぜなら、自分でこれが一番良いと考えていることでも、もし視点を変えるならば必ずしもそうとも言えないからです。弱い愚かな自分の思い通りになることは決して益ではありません。
 従って万事を益としてくださる方は、人生の究極目的を知っておられる神です。その神の目から見て万事が益となるように働く、というのがクリスチャンの確信です。
 正に神はそのような究極目標を、主イエスを通して定められたのです。この事実を聖書は8章29、30節で語っています。
 「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似た者にしようとあらかじめ定められました。----神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出された者たちを義とし、義とした者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:29~30)
 従いまして、神のこの重大な事柄の進展は、人間について究極目標を定められた神の側から、わたしたち人間に呼び掛けて下さることによって、歴史の中で具体的に始まります。
 未だわたしたちが神を知らないでいるときに、神はわたしたちを知っておられ、わたしたちを呼び出してくださるのです。信仰者たちは皆この体験をしています。旧約聖書の預言者たちも同様です。預言者エレミヤは神から預言者としての召命を受けたとき、神様はエレミヤに対して、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ1:5)と仰せられました。このようにわたしたちは神様から呼び出されるのです。
 その結果、わたしたちは教会の礼拝に出席し、聖書を読み、わたしたちの救いについて考えている中で、神はわたしたちを主イエスと出会わせ、わたしたちの心に主イエスを信じる信仰を与えてくださるのです。そして信仰を通して、神はわたしたちの罪を赦し、神との人格的な交わりに入れてくださったのです。
 これが神はわたしたちを御許に召し出されたことです。同時に神は召し出した者を義としてくださったのです。この「義とする」という言葉は聖書特有の深い意味を持っています。それは主イエスが人間のために達成された神の義を、罪人であるわたしたちに授与されることです。実に、この神の義の授与により、罪人であるわたしたちは罪を赦され、神との正しい関係の中に入れられたのです。
 この「信仰義認」によって、信仰者は神が主イエスの十字架の贖いと死からの復活によって達成された「神の恵み」の中で、新しい人間として成長するのです。その過程はわたしたちが主イエスに従い、神のみ心を実践し、日々清められ、その中で主イエスの性質を映し出す者となり、義の実を結ぶ人生を歩ませ、最後には死人の中から復活させられるのです。そのときわたしたちの救いが完成し、わたしたちは栄光を受けるのです。聖書がここで「栄光」を神様から与えられるというのも聖書の専門用語で、これは人間が「救われる」という意味です。
 要するに、神のこのような遠大な計画は、わたしたちを「御子イエスの姿」に似る者としようと意図される神の目的によるのであり、「救い」は「その目的の達成」なのです。
 正に御子イエスは、神の性質を完全に映し出した罪のない人間の生涯を達成されました。この点に関して、ヘブライ人への手紙は次のように言っています。
 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、ご自身に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられました。」(ヘブライ5:8~9)
 このようにわたしたちが信仰生活を通して、多くのことを体験し、キリストの性質に倣い、考え方、態度、行動のすべての面で、キリストの思い、性質を自分のものとして身に着け、神の栄光を現わすようになることが神の目的なのです。
 それゆえ神の導きの最終目標は、わたしたちの救いが完成し、永遠の国に入れられて、神を礼拝し、賛美し、神の御前ですべての人間が愛と調和の中で共に生き、神の栄光を反映させることなのです。
 この目的に沿って、神はわたしたち一人一人を「最初から知り、選び、召し出し、義とし、栄光を与える」ようにされました。今や、わたしたちは主イエスを信じる者として、神の永遠の国に至る人生行路を歩んでいるのです。心の底からこのことをわたしたちが知るとき、「万事が益となる」とことが確信できます。
 プロテスタント教会の代表的な信仰問答と言うべき「ハイデルベルグ信仰問答」は第一問で、次のように問うています。
 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」
 わたしたち人間は生きていくために、慰めが必要です。しかし、人生の荒波を生き抜くためには、単なる気休めの慰めではなく、力のある慰めが必要です。さらにここで注目すべきことがあります。 
 それは、人が生きている間の慰めだけでなく、死ぬときにも共通する慰めを問題にしています。二つの慰めではなく、ただ一つの慰めとして問題にしている点が非常に重要です。
 そのような問いの答えが与えられています。
 「わたしたちがわたしたちのものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしたちは真実な救い主イエス・キリストのものであるということです。」
 この答えは、生きているときも死ぬときにも、一貫しています。最早わたしたちが自分の主人ではなく、わたしたちの主人はキリストであるということです。それゆえ最早自分が自分のものではなく、キリストの所有物であると言うのです。
 どうしてこのように言えるかと問うならば、その根拠はキリストであります。実に、キリストは十字架の死と死人の中からの復活により、わたしたちの罪を贖い、ご自身の義と聖と命をわたしたちに授与することによって、わたしたちを神の御前に生かしてくださる救い主であることがその根拠です。
 言い換えれば、自分の罪による束縛と死との中に閉じ込められている「悲惨な自分」から救われたわたしたちの「新しい存在」が、自分の中にあるのではなく、キリストの中に与えられていることがその根拠です。
 わたしたちは神の御前に生きるとき、既に自己の存在をキリストの中に与えられ、キリストの恵み深い支配のもとに移されているのです。そのことによってだけ、神の御前に生きる新しい生き方が可能となっているのです。
 それゆえ、わたしたちは最早自分のものではなく、キリストに所有されている者であることが、唯一の本当の慰めである所以です。
 次に、ハイデルベルグ信仰問答は、問い26で、神の摂理の御手について、次のように教えています。
 「『われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず』と唱えるときに、あなたは何を信じているのですか。」
 この答えを要約しますと、二つになります。
 一つは、「無から創造し、永遠の目的と摂理によって、支配しておられる父なる神が、御子イエス・キリストのゆえに、わたしたちの神、またはわたしたちの父である」ということです。
 もう一つは、「わたしたちはこの方に寄り頼んでいますので、体と魂に必要なものをすべて与えてくださること。たとえ涙の谷間を通り過ぎるときにも、それらをわたしたちにとって益となるようにしてくださること」です。そしてこの二つのことを「わたしたちは信じて疑いません」と答えています。
 ここに信仰者の立っている基盤と姿勢が明瞭に言い表されています。それではわたしたちの姿勢も明瞭になっているでしょうか。
 クリスチャンは心底からキリストを信じるときに、神はキリストを通してわたしたちの「恵み深い父」であることが確信できます。それゆえどのような試練と苦難を体験するときにも、すべてのことがわたしたちのために益となることを確信できるのです。
 全知全能の主権者である神がわたしたちの恵み深い父であるとき、神はわたしたちの存在と生活の「すべての面」でわたしたちを配慮し、必要なものを与え、諸々の危険と、誘惑から守ってくださいます。このような方はキリストにおいてご自身を啓示し、ご自身を人間に与えキリストにおいて救いを達成される神の他に誰もいません。 
 すなわち人間の生命と人格を守り導かれる唯一の神であり、父であるゆえに、神は人間の「生命と人格」の主権者であり、所有者なのです。
 この点、悪魔や偶像さらに悪魔化した国家は、人間の生命の安全を保障するという偽りの主張により、人間の生命と人格を支配し、国家に対する絶対的な忠誠を要求します。それは現代の国家が罪の支配の中にあることの現れです。
 それゆえ国家は神が求められる正義と公平と憐みを実行し、この世界の秩序を保つという範囲内で、国家の存在は神から認められていますが、それはこの世限りの制度なのです。
 永遠の世界では国家の存在は消え去り、永遠の国におけるキリストによる神の支配は直接的に個々の人間に及んでいるのです。それは神の愛による支配であり、他方人間が神に従うことは人間の中に働く神の愛の業なのです。これが神の国の実体です。
   
(3)神の愛
 実にこのような確信を与えるものは、主イエス・キリストにおいて、また通して、示された神の愛です。最後に使徒パウロは、クリスチャンの最終的な救いの確信をこのように歌い上げています。
 「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。----しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちはわたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちを主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(8:35~39)
 ここに列挙されている困難や苦悩は何と言う過酷なことでありましょうか。しかし、このような大きな試練にも神の愛は耐えさせ、それに勝利を得させるものである、というのです。真に驚嘆すべきことですが、しかしこれは事実です。
 キリスト教の歴史はこのことを証ししてきました。特に最初の三百年間は迫害に勝利した歴史です。彼らが真の神と真の救い主を信じているために、ローマ帝国が国家を絶対化し、ローマ皇帝を神として礼拝するように強要しました。
 しかしクリスチャンはローマの脅迫に屈しませんでした。そのような迫害によって多くのクリスチャンが殉教しました。他方、迫害を恐れて背教するクリスチャンも多数いました。その中でキリスト教はローマ世界で広がって来たのです。 
 遂に、西暦311年にローマ皇帝ガレリウスはキリスト教に対する信仰の自由を認める法令を出しました。その文章の中で、彼は次のように宣言しました。「クリスチャンを彼らの故意の新機軸からローマ帝国の法律と規律に回心させる目的は達成できなかった。それゆえ、クリスチャンが国家の秩序を乱さない限り、彼らの集会を認める。」と記しています。その文章の終わりに、皇帝はクリスチャンに対して、「この恵みの法令が公布された後は、ローマ皇帝と国家の福祉のために、そしてクリスチャン自身のために、彼らの神に祈り、あらゆる点において国家が繁栄し、彼ら自身も家庭で平穏に暮らせるように祈るべきことを命じる。」と言っています。
 この法令が約300年も断続的に続いた迫害に対して実質的な終止符となったのです。このようにクリスチャンは無数の敵対者に対していかなる武力に訴えることなく、純粋に道徳的で霊的な力によって勝利しました。真にこれは、いかなる迫害もクリスチャンを神の愛から切り離すことはできない、神は恵み深い主権者であり、万事を益とされるという確信を奪うことはできないことを証しています。



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