2015-02-01(Sun)

ペトロの告白 2015年2月1日の礼拝メッセージ

ペトロの告白
中山弘隆牧師

 わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章6~11節


 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マルコによる福音書8章27~37節

(1)ガリラヤ地方での宣教
 本日の聖書の箇所は、イエスの神の国宣教の前期と後期の転換点に位置する非常に重要な個所です。
 イエスは洗礼者ヨハネから罪の悔い改めの洗礼を受けられました。その時ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言ってイエスの受洗を止めようとしたのですが、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです。」(マタイ3:15)と言われて、洗礼を受けられた様子が記されています。
 この洗礼者ヨハネの活動も神の国の宣教であり、彼は「悔い改めよ、神の国は近づいた」(マタイ3:2)と語りました。
 同時に、近づいている神の国に入るために、すべての人間は自分の罪を告白し、神に立ち帰ることが必要であると力説し、そのための洗礼を授けたのです。マルコによる福音書はヨハネのこの運動を「罪の赦しを与える悔い改めの洗礼」と呼んでいます(マルコ1:4)。
 ヨハネはどうして罪のない神の御子イエスが洗礼を受けられるのか理解できなかったのですが、正に罪の赦しの洗礼が「有効」となるために、罪のない御子イエスが悔い改めの洗礼を受けなければならなかったのです。それは神の意志であるからです。
 神の意志に従って、イエスは御自分を罪人である全人類と連帯化させ、その代表となり、代理となり、全人類の罪を一身に担う者として、真実の悔い改めを為すために洗礼を受けられたのです。
 それゆえイエスの受洗はイエスの十字架の死による人類の罪の贖いと不可分離に結びついていたのです。
 父なる神は洗礼を受けられたイエスに対して、天からの声をもって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語られました(マルコ1:11)。この御声はイエスが神の愛する御子であり、そのような方として、イエスは救い主であると父なる神が直接イエスに語られたのです。
 このときからイエスは公生涯に入られました。そして活動の時期を待っておられましたが、ヨハネがヘロデ王に捕らえられたことによりその時が到来しました。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14~15)
 これはイエスの宣教もヨハネの宣教も同一の線上にありますが、イエスの神の国はヨハネの神の国よりも一層積極的な、より具体的な内容をもっており、それが「神の福音」であります。
 従いまして、イエスは神の国の福音を語ると同時に、イエスの言動が福音の内容と密接に繋がっていることを示されました。この点が神の福音の積極的な内容となっています。
 イエスはガリラヤ湖の周囲の町や村を巡回して、神の福音を語り、罪の赦しを与え、様々な病気や悪霊に悩まされている多くの人々を神の力を働かせて癒されました。
 また神の国について多くの譬え話を作って教えられました。同時に神の国における信仰者の生き方、道徳的であり、神の愛を実行する善い業について教えられました。中でも神から罪を赦された者として、自分に対して悪を行う者の罪を赦すことが、神の国に生きる者の基本的態度であると強調されました。
 また、神に祈り、求めることが罪を赦され、神の子とされた者たちの特徴であることも強調されました。同時に、神は恵み深い父であり、信仰者の存在と生活全体に対する支配者であるので、人間の目には見えない神の全能の力と働きによって、信仰者を神は守っておられることを自覚し、常に神を信頼して、一切の思い煩いを止め、絶えず感謝と祈りを神に献げることの重要性を強調されました。
 このようなイエスの教えと、行動が神から離れ、罪の中で様々な悪を行い、心に平安と本当の喜びを知らなかった罪人が神の赦しと神の愛を経験し、神のもとに立ち帰り、神との交わりに入れられたのです。実にそのことにより彼らは心からの感謝と喜びに溢れ、神に喜んで従う者たちとなったのです。
 他方、このようなイエスの言動は敬虔な生活をし、選民イスラエルの最良のグループであると自負していた人々の反感と敵対を引き起こしました。それはファリサイ派の人々であり、律法学者たちです。彼らはイエスが神の権威をもって罪人を赦されたことを見て、イエスは神を冒涜していると、イエスを断罪しました。
 彼らはイエスが神である事実に躓いたのです。彼らは神が人間になることは絶対にないと信じています。
 なぜなら旧約聖書が約束する救いとは人間に聖霊が与えられ、聖霊を通して、人間の中に霊的生命が働かくことでした。しかし、彼らはイエスが神であることを信じられなかったのは、彼らの信仰が人間の言い伝えに基づく信仰であり、聖霊による信仰でなかったからです。また彼らはイエスが安息日に病人を癒すことがモーセの律法に反する重大な罪であると激しく非難しました。さらにイエスは罪人の友となり、罪人と食事を共にしていると言ってイエスに対して大いに憤慨しました。このような彼らの非難の原因は、神の救いは神の戒めを忠実に守り、清い道徳的生活をしている自分たちにこそ与えられるという強い信念を持っていることです。
 イエスは彼らに対して、高ぶる者は低くされ、自分を低くする者は高められる、先の者は後になり、後の者が先になると仰せられました。実に神の与えられる救いは神の愛による無償の救いなのです。しかし、それは決して安価な救いではなく、神の御子イエスの犠牲による救いです。そのことを彼らは信じることができなくて、イエスを拒絶したのです。ここに選民イスラエルの不信仰と神に敵対する罪が暴露されています。結局イエスはガリラヤ地方の会堂では拒絶され、彼らの不信仰に驚かれました。かくしてガリラヤでの宣教活動は終了しました。

(2)フィリポ・カイザリア地方で
 この時期にイエスは救い主として果たさなければならない自分の使命が人類の罪の贖いのための犠牲であることを一層はっきりと自覚され、十字架の死が近付いていることを察知しておられたのです。 
 イエスを殺そうと計画している陣営は、一つがユダヤ教であり、もう一つはローマ帝国とヘロデ王でありました。彼らはイスラエルの民衆がイエスを政治的なメシアと考え、イエスが民衆と共にローマと戦うことを一番警戒していました。この二つの方面から、イエスの現実的な死の時期が忍び寄って来ました。それゆえ彼らの待ち構えているエルサレムがイエスにとって、救い主としての最も重大な活動の場面となりました。
 しかしそこに行く前に、弟子たちを教えなければなりません。そのため弟子たちを一旦イスラエルの民衆から切り離す必要があり、ガリラヤから離れたフィリポ・カイザリア地方に行かれたのです。この地方はガリラヤと異邦との境の地帯になっています。
 この旅行の途中で、イエスは弟子たちに次の質問をされました。弟子たちに向かって、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ8:27)と尋ねられました。そこで、弟子たちは『洗礼者ヨハネだ』と言っている人々と、『エリヤだ』と言っている人々と、『預言者の一人だ』と言う人々もいます、と答えています。
 洗礼者ヨハネはヘロデ王に殺されましたが復活し、イエスは復活したヨハネだと思っている人たちがいたのです。同様に旧約聖書でエリヤは生きたまま天に上ったと言われていますが、そのエリヤが天から降ってきたのがイエスだと思っている人たちもいました。このような民衆の見解は、イエスが神の力を持っている偉大な預言者であると見ていましたが、メシアであるとは考えていなかったことが分かります。そこでイエスは弟子たちに尋ねられました。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マルコ8:29)
 その問いに対して、ペトロは弟子たちを代表して次にように答えました。「あなたはメシアです。」(8:29)
 しかしペトロの告白に対して、イエスは肯定も、否定もされませんでした。それだけでなく、イエスが誰であるかと言うことに関して人に絶対に話してはいけないと厳しく命じられました。
 ここで弟子たちがイエスを「メシアである」と告白したことは、本当の意味でイエスはメシアでありますから、イエスの宣教の一つの成果と言えます。しかし、重大な問題は彼らがメシアの「本当の使命」をまだ知らなかったことです。
 そこで、このときからイエスは弟子たちに対して明瞭にメシアの使命を語り始められました。
 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」(8:31~32)
 これまでイエスがご自身を呼ぶ名称は神秘的な響きのある「人の子」です。この名称をイエスは「人間」であり、「神の主権」を行使する者という意味で使用しておられます。
 この点は弟子たちも以前から承知していました。しかし彼らは、人の子が十字架につくことは毛頭考えていませんでしたし、考えられなかったのです。それゆえ、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」のです。そんな考えはとんでもありません、冗談ではない、と言ったのです。
 このときイエスはペトロを叱って、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8:33)と言われました。イエスはペトロを「サタン」と呼ばれました。「サタン、引き下がれ」と命じられました。この言葉は何と厳しい命令でしょうか。これはイエスにとってペトロの言葉は大きな誘惑であったからです。同時にイエスの断固とした態度は、イエスが今や父なる神の意志を明瞭に理解し、ご自身の意志は父なる神と完全に一つになっていることを表しています。
 「わたしの僕は、多くの人が正し者とされるために彼らの罪を自ら負った。」と言う旧約聖書のイザヤ書53章11節で預言されている「主の僕」の使命は、人類の罪を贖うために主の僕が人類の代理となり、罪の裁きを受け、死ぬことでありますが、イエスはこれが自分の使命であることをこの聖句から読み取られたのです。イザヤの預言の「多くの人」とは「全人類」と言う意味です。古代イスラエルではそういう言い方をしていました。
 それゆえ、イエスは聖書に預言されている神の主権を授与される「人の子」の使命と、「主の僕」の苦難と死を「ご自身の救い主の使命」として一つに結び合わされたのです。ここに神の御子イエスの「独創性」があります。
 神の御子の洞察をもって、イエスは神の主権を授与される「人の子」として人類の罪を贖わなければならない、それが父の意志であるとはっきり認識し、そのため自分を献げる決意を固められたのです。実に主イエスによって行使される神の主権は、人類の罪を贖う自己犠牲に基づく性質の主権であると、ここで表明されました。
 「人の子は全人類の罪を贖う犠牲の死を果たさなければならい。」と仰せられたのです。
 
(3)父なる神の啓示
 この六日の後、イエスはただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。ちょうどその時、旧約聖書で定められている三大祭りの一つである「仮庵祭」の期間でした(レビ記23:34)。そのときイエスはエルサレムに上らず、ヒリポ・カイザリアに行かれたのです。しかし、その山でイエスの御姿が変貌し、光り輝き、同時に「モーセ」と「エレミヤ」が現れ、イエスとその使命につて語り合っているのが見えました。ペトロが一つはイエスのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのために「仮小屋を三つ建てましょう。」と言い出したのは、イスラエルの三大祭りの一つである仮庵祭の期間であったからです(レビ記23:34)。
 その時、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしました。旧約聖書では雲は神の臨在を示すものであり、同時に神の姿を人間の目から隠す二つの働きを兼ねていました。このとき雲の中から父なる神の御声が聞こえて来ました。
 「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(8:7)
 弟子たちはこの御声を聞きいたとき、モーセとエリヤは消え去り、イエスだけが元の姿で三人の弟子と共におられるのに気付いたのです。この神の啓示は、弟子たちに示されたものです。
 イエスが御子であることと、メシアの使命である犠牲の死について、三人の弟子に分からせるため、神が語られたのです。しかし、同時に父なる神が「人の子」は苦難と死の使命を果たさなければならないと言うイエスの理解をここで確証された意味も大きいのです。
 この体験は、イエスが三人を伴って高い山に登り、そこで祈りに専念し、弟子たちも共に祈っていたとき、弟子たちが幻を見、神の御声を聞いたことです。このようにして、イエスはいよいよエルサレムに向かって進んで行かれました。



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