2010-10-03(Sun)

あなたの罪は赦された 2010年10月4日の礼拝メッセージ

あなたの罪は赦された

中山弘隆牧師

 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
イザヤ書35章5~10節


 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
マルコによる福音書2章1~12節


(1) 神の癒し

 主イエスの宣教活動は初期と後期とに二分されますが、初期はガリラや地方で行われ、後期はエルサレムを中心として行われました。本日の聖書の箇所は景色のよいガリラヤ湖の周囲に広がっている町や村の一つでありますカファルナウムでの出来事を伝えています。主イエスの宣教活動はユダヤ人の間で大きなセンセーションを巻き起こし、イエスが神の力をもって、神の国の到来を告げ知らせておられるという評判は当時すでに、ガリラヤ地方全体に広がっていました。
 イエスがある家に行って教えられましたとき、超満員の聴衆で、戸口まで人が溢れているといった状態でした。そこへ、中風に悩んでいる人を彼の友人達が担架に乗せて連れてきました。彼らはイエスによって神の癒しが与えられることを願ってきたに違いありません。
 そこで問題なのは、常に信仰であります。彼らはイエスが神の力を持っておられる方であるから、神の言葉を語った昔の預言者たちが病人を癒したように、イエスはこの中風に悩んでいる人を癒してくださると信じて、イエスのもとに来ました。そこには神に対する熱心な信仰と友人を助けたいと思う麗しい友情があります。しかし、また信仰を働かすには障害となるものも数多くあります。
彼らの場合は、折角苦労してイエスのおられる家まで辿り着いたのに、イエスの前に病人を連れて行くことができないという障害です。それではイエスの話が終わって人々が退散するのを待ってお願いすればよい、と考えたのでしょうか。いいえ、彼らはそうは思いませんでした。なぜならば、イエスが御言葉を語っておられる今こそ神の力が働く時だ、と思っていたからです。
そこで彼らは甚だ突拍子もない行動をとりました。屋上に通じている外の階段を上って、屋根に穴をあけて、病人を担架ごとイエスの前に吊り下ろしたのです。当時のパレスチナ地方は雨が少ないために、屋上の構造は極めて簡単にできていました。木の枝を渡して、その上を粘土で固めただけでしたので、容易に大きな穴を開けることができたのです。それにしても、実に思い切った行動をとったものです。そこに彼らの信仰が現れています。
ある牧師は、説教の中で信仰には水平方向の働きと、垂直方向の働きすなわちジャンプがある、と語られました。まず、友人たちが中風の患者をイエスのおられる家まで運んできたというのは、信仰の水平方向の働きを表しています。それはイエスを偉大な預言者として信じ、イエスの語られる神の言葉を通して、病気が癒されるという信仰です。友人たちはこの信仰をもって、イエスのもとに近づきました。
しかし、イエスの前に出るためには、水平方向に進むことができなかったので、屋上に上り、屋上から病人を吊下ろすという垂直方向の運動が必要だったのです。このことは、イエスに対する信仰が真の信仰となるためにある時点でジャンプしなければならないということの比喩となっています。人間の評判や意見によって、イエスを偉大な預言者であると信じることは水平方向の信仰です。人々はこの水平方向の信仰をもってイエスに近づきます。
しかし、人がイエスに近づき、イエスと対面するときには、水平方向の信仰からジャンプする必要があるのです。イエスと人格的につながる信仰は、すべてを主イエスに委ね、主イエスが言葉と行為とを通してご自身を証される通りの方であると信じることです。言い換えれば、主イエスの人格に対する信仰です。主イエスはご自分を預言者としてではなく、神として示しておられることに対する信仰です。次に正にこのことが問題になっています。


(2) わたしは言う

 聖書は2章5節で、このように伝えています。
 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」
 これはどういうことでありましょうか。人間の罪を赦してくださる方は、神であります。しかも神だけであり、神以外の者には誰にもその権限はありません。従いまして、神の言葉を語りました預言者たちは、神はイスラエルの民の罪を赦してくださるであろう、と言いました。あくまで、それは未来の出来事として語っています。ところが、イエスは現在のこととして語られました。
否、それだけではありません。イエスはわたしがこの言葉を語るときに、あなたの罪は赦されるのだ、と宣言されたのです。言い換えれば、神による罪の赦しはイエスのその宣言と同時に起こっているというのです。このことはギリシャ語の聖書では、いっそう明らかです。
ギリシャ語で、「赦される」とは「アフィエタイ」と言いますが、ギリシャ語のいい方は現在形です。しかし、ギリシャ語は日本語と違って、その事柄が現在進行中であるという意味を持っており、「あなたの罪は赦されつつある」という意味になります。もちろんイエスがここで使用された現在形は、そのような進行中の動作を意味するのではありません。そうではなく、「赦される」という一つの出来事を表しており、しかもその出来事はイエスがこのように言われた動作と結びついており、二つのことが同時に起こっているという意味をもつ特殊な現在形なのです。イエスがこのように言われることと、赦されるということが一体となっているという現在形なのです。
少し視点を変えれば、これは「イエスが神である」ことを表明しています。確かにイエスは真の人間です。しかし、同時に真の神なのです。イエスは預言者たちのように、神の言葉を語られました。しかし、それだけでなく、イエスは「神の言葉それ自体」なのです。
このことを信じるためには、信仰の垂直運動が不可欠です。自分たちは信仰深い人間であると自負していたファリサイ派の人たちは、とくにその中でも律法学者たちは、イエスのこの言葉に躓きました。彼らは次のように呟きました。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(2:7)
彼らは神のもとに来るために、旧約聖書の信仰の歴史を通して、いわば水平方向の思考をしているのです。旧約聖書の信仰は、アブラハム、イサク、ヤコブの族長と、モーセを初めとする偉大な預言者たちを通して与えられ、伝えられたものです。彼らは生ける神に出会って、いわば垂直方向の信仰をもって、神を信じた人たちです。すなわち、彼らは神が御言葉と行為をもってご自身を示されたとき、神をそのような方として信じ、神に従ったのです。
それに対して、ファリサイ派や律法学者たちの場合は、族長たちや預言者たちが伝えた教えによって神についての知識を持つことが信仰であったのです。しかし、それは生ける神を信じることではありません。真の信仰は、生ける神と人格的な交わりに入れられることによってのみ可能なのです。
 今や、アブラハムや預言者たちの神は、神の御子が人間となられた主イエスにおいて、ご自身を最終的にそして完全に啓示されました。それゆえ、人は生ける神を信じるためには、主イエスに対して垂直方向にジャンプする信仰をもって、応答しなければならないのです。
 ここで、イエスは10節で、このように仰せになっています。
 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と、仰せになりながら、中風の人に向かって、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
 「人の子」とは、普通「人間」という意味ですが、イエスがご自身のことを「人の子」と呼ばれるには、特別の意味があります。イエスは自分が人間であると同時に、真の神であるという自覚を持っておられました。これは全く不思議なことであり、イエスにおいてのみ起こった事柄です。なぜならば、イエスが祈りを通して、父と子との特別に親密な交わりの中で生きておられましたので、自分が神の御子であることを明確に意識されたのです。この自覚のゆえに、イエスはご自分に対して人の子というまことに不思議な呼び方をされました。
 ここで、イエスはご自身が罪を赦す権威を持っていると宣言し、そして「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられました。
 するとたちまちその人は健康になり、立ち上がり、人々の注目の中で、床を担いで家に帰りって行ったのです。これを見た人々は驚嘆し、「このようなことは今まで見たことがない」と言って、神を賛美しました。
 しかし、このような驚嘆は甚だ中途半端であります。彼らはそこに起こっている神の出来事を、大いなる奇跡としてしか理解していないからです。実はこの神の出来事は奇跡ではなく、神の啓示なのです。神が御子イエスを通して、ご自身を啓示されたのです。従いまして、わたしたちはイエスが神の御子であるという自覚をもち、神の権威をもって、人の罪を赦されたということを、神の啓示として信じることが必要なのです。
もしイエス以外の人間が、自分は神であるという自覚をもって、行動するならば、その人は精神状態がおかしくなっていて、誇大妄想狂に罹っている、と言えます。しかしイエスの場合は、その自覚が全生涯を貫き、イエスの人格と調和しており、イエスの救い主としての行動はすべてその自覚に基づいて達成されました。
このことを考えますときに、神は今や主イエスの人格を通して、わたしたち人間と出会ってくださり、ご自身をわたしたちに啓示し、罪の赦しと救いを与えられることが分かります。これこそ神が旧約聖書で約束されたことの成就なのです。
預言者イザヤは「見よ、主なる神。彼は力を帯びてこられ、御腕をもって統治される。」(イザヤ40:10)と預言しました。これは人間と世界を超越しておられる神ご自身が人間の歴史の中に入ってこられ、救いを与え、神ご自身が人間を統治されるという預言ですが、今や主イエスの宣教活動の中でこの預言は成就したのです。
しかし、イエスはご自分が神であることを、言葉では説明されませんでした。一切説明を抜きにして、態度と行動をもって、ご自分が神であることを現されました。ぜならば、言葉による説明はイエスが神であるという事実の証明にはならないからです。それだけでなく、人間がイエスは神であるかとか、あるいはないかと言って議論するならば、それこそ神の神聖さを汚さすことなので、そうさせないために、イエスが神であるという神聖な事実を、神はイエスの自覚の中にだけ明らかにし、それ以外では秘められたのです。
従いまして、イエスが神であることは、イエスが人類を罪から贖うために、十字架の犠牲の死を遂げ、死人の中から三日目に復活されたとき、はじめて完全に明らかになりました。人は復活の主に出会った時に、はじめてイエスが神であることを悟ったのです。なぜならば、復活の主イエスは神の威力と神的な現実において、わたしたちと対面し、同時にわたしたちの心の中に臨在され、わたしたちの心にご自身を啓示されるからです。
それにしても、地上で宣教しておられた主イエスは地上の生涯においてご自身の人格に対する信仰を要求されました。それはわたしたちが地上における主イエス対する信仰をもつときに、主イエスを通して、人間の罪を赦し、人間を救うために、神が達成してくださった神の無限の愛の業を知ることができるからです。
そしてわたしたちは地上で過ごされた主イエスの生涯を通して、生ける神と出会い、神の御心と性質を知り、神の愛と恵みを受けて、日々新たに生きることができるのです。

(3) 罪の赦し

 最後に、イエスに癒された人は、病気の癒しを願ってイエスのもとに来て、イエスと出会ったとき、イエスは罪の赦しを与えてくださいました。なぜでしょうか。
 この中風の人の場合、彼は人生の半ばでこの病に罹り、これまで家族の生活を支えてきた労働ができなくなり、大きな悩みを抱えていました。主イエスは罪の赦しを与え、その病気を癒してくださいました。しかし、病気が治ったというだけでは、その人の人生に完全な保証が与えられたことにはなりません。完全な保証は神との人格的な交わりに入れられることです。
 従いまして、イエスによる罪の赦しは病の癒しだけでなく、人間が神様によって創られた目標であります神との人格的な交わりを与えるのです。なぜならば、わたしたち人間は、神と人格的な交わりの中で生きるとき、自分の人生の本当の意義を発見し、神様の摂理の御手によって人生における万事が益となるのです。さらにわたしたちの人生の終局は、救いが完成する永遠の国であり、そこに入って神を完全に知り、神を永遠に賛美する者たちとなるのです。
このような永続的な神との人格的な交わりは、ただ主イエスによる罪の赦しによって可能です。なぜならばわたしたち罪人は、常に誘惑や試練の中で罪を犯す弱い者であります。それゆえ、神様が常に赦しをもってわたしたちと出会ってくださらなければ、わたしたちは神様との人格的な交わりが続けられないのです。
そのような者であるため、神様は主イエスの十字架の犠牲による罪の贖いによって、常に赦しをもってわたしたちと出会い、わたしたちの人生全体を神様の配慮のもとに入れてくださるのです。
それゆえ、主イエスによる罪の赦しは、わたしたちの人生全体に対するトータルケアであります。




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