2015-01-18(Sun)

罪を赦す権威 2015年1月18日の礼拝メッセージ

罪を赦す権威
中山弘隆牧師

 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。
詩編130編1~8節


 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
マルコによる福音書2章1~12節


(1)神の癒し
 主イエスの宣教活動は初期と後期とに二分されていますが、初期はガリラヤ地方で、後期はエルサレムを中心にして行われました。本日の聖書の箇所は景色のよいガリラヤ湖の周囲に広がっている町や村の一つでありますカファルナウムでの出来事を伝えています。イエスの活動はユダヤ人の間で大きな反響を引き起こし、イエスが神の力で、神の国の到来を告げ知らせておられるという評判が周囲一帯に広がりました。
 イエスがある家に入って教えておられたときに、多くの人が集まり、その家は超満員の状態で、戸口まで人で溢れていました。そこへ中風に苦しんでいる人を友人たちが担架で運んできました。それはイエスによって神の癒しが与えられることを切望したからです。
 しかし問題は、信仰です。彼らはイエスが神の力を持っておられる方であるから、昔の預言者たちが病人を癒したように、この中風に苦しんでいる人を癒してくださるに違いないと信じました。 
 他方また信仰を持つための障害が数多くあります。彼らの場合に、それはイエスのおられる家まで辿りついたのですが、イエスの前に病人を連れ出すことはできませんでした。それではイエスの話が終わるまで待てばよいのではないでしょうか。いいえ、彼らはそう思いませんでした。なぜなら彼らはイエスが御言葉を語っておられる間に、神の力が働いていると考えたからです。
 そこで甚だ奇抜な行動に出ました。屋上に通じる外階段を上って、屋根に大きな穴を開け、病人を担架に載せたままイエスの前に吊下ろしたのです。ところで、このような方法は不可能なことではありません。なぜならば、バレスチナ地方は降水量が極めて少ないので、当時の屋根の構造は極めて簡単であり、木の枝を渡しその上を粘土で固めてあるだけでした。それにしても思い切った措置を取ったものです。そこに彼らの信仰が現れています。
 ある牧師が説教の中で信仰には水平方向の動きと、垂直方向の動き、すなわちジャンプがあるといわれました。先ず、ここで友人たちが中風の患者をイエスのおられる家まで運んできたことは、信仰の水平方向の動きを現しています。それはイエスを偉大な預言者として信じ、イエスの語られる神の言葉を通して、病気が癒されるという信仰です。
 しかし、イエスの前に出るためには、屋上に上がり、屋上から病人を吊下ろすという垂直方向の運動が必要だったのです。
 このことはイエスに対する信仰が、真の信仰となるためにある時点でジャンプしなければならないことの比喩となっています。
 人間の評判や意見によって、イエスは偉大な預言者であるに違いないと信じることは水平方向の信仰です。中風の人とその友人たちは水平方向の信仰をもってイエスに近づきます。
 しかし、人がイエスに近づき、イエスと対面するときには、水平方向の信仰からジャンプする必要があります。イエスと人格的につながる信仰は、イエスが霊的なカリスマを持った方であると信じることではありません。
 そうではなく、イエスは「神の権威」を持っておられる方であると信じることです。
 言い換えれば、主イエスがご自身の言葉と行為を通してご自身を証される通りの方であると信じることなのです。それゆえ、主イエスはご自分を預言者としてではなく、神の側に立つ者として、父なる神と一体となって神の言葉を語り、神の業を行っておられると、信じる必要があります。この点が最も鮮明になったのが、イエスの次の言葉です。

(2)わたしは言う
 聖書はこのように伝えています。
 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(2:5)
 これはどういうことでありましょうか。人間の罪を赦してくださる方は、神のみであります。神以外の者には誰もそのような権限はありません。
 従いまして、神の言葉を語りました預言者たちは、神はイスラエルの民の罪を赦してくださるであろう、と言いました。あくまでもそれは未来の出来事として語っています。
 最も典型的な預言はエレミヤの新しい契約に関する預言です。
 「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:33~34)
 このように終わりの時の「新しい契約」はあくまでも「罪の赦し」にも基づく契約であり、エレミヤはその赦しを未来のこととして預言しています。しかし、それとは対照的に、イエスは罪の赦しを現在のこととして語られました。ここで、イエスは中風の人に向かって、「あなたの罪は赦される」と言われたのです。
 実に、この言い方は「あなたの罪は、わたしの発言と同時に赦される」と言う意味です。つまり、神による罪の赦しはイエスの罪の赦しの宣言と同時に起こるという意味です。
 ギリシャ語ではこの点がはっきりとしています。「赦される」とは「アフィエタイ」と言いますが、これは現在形です。しかし、ギリシャ語の現在形は日本語と違ってその動作が進行中であることを意味し、「あなたの罪は赦されつつある」と言う意味になります。もちろんイエスが用いられた現在形はそういう普通の意味ではなく、特別の意味です。
 「赦される」という出来事が、イエスの発言の行為と結びついており、二つのことが同時に起こっていることを意味しています。
 この点を真剣に受け止めれば、イエスが神の立場で発言しておられることを信じなければなりません。預言者たちは神の言葉を語る場合に必ず「主なる神はこう言われる」と前置きをしてから神の言葉を語りした。この点、イエスの発言は預言者のように神が語られるという前置きを必要とせず、自分で神の言葉を語られたのです。
 しかし、イエスの語られる言葉が神の意志そのものである根拠は「イエスの人格の秘密」と結びついています。それゆえにイエスは自らの発言と神の意志と行為が同時に生起している無類の独特な仕方で神の言葉を語られました。
 それにしても、イエスは確かにわたしたちと同じ人間です。人間としての弱さと制限の中にある方です。この現実を直視するときに、人は必ずイエスに対する信仰の決断を要求されます。
 つまり、イエスの語られる言葉とイエスの取られる行動を神自身の言葉と行動として真剣に受け止め、イエスをそのような方として信じる決断をすることです。それともイエスは人間の分際でありながら、自分を神の位置においている。これは神を冒涜する最大の罪であると判断することです。このように、人は皆イエスの前に立つ時に、二者択一の決断を迫られます。
 正にイエスの人格はすべての人間にとって全く不可解な謎です。イエスが人間であることは確かな事実で、それは証明可能な事実です。しかしイエスの人格は神秘に満ちていることも事実です。
 ここに居合わせたファリサイ派の人たちは、人の罪を赦す権威を持っておられる方は神のみであると考えて、イエスは神を冒涜する者であると判断し、イエスを断罪しました。確かに、罪の赦しの権限は神にのみ属するという彼らの考えは聖書的で、正しい判断です。しかし、イエスを断罪した彼らの判断は間違っており、その判断自体が神への反抗です。神の啓示と恵みを拒絶する最大の罪です。
 この理由は彼らの信仰が水平方向の信仰であることです。すなわち、律法学者やファリサイ派の人たちにとって、信仰とは信仰の父アブラハムや旧約聖書の偉大な預言者たちが伝えた「教え」によって、神についての「知識」を持つことであり、それ以上の何物でもなかったのです。
 しかしそれは決して生ける神を信じることではありません。真の信仰は生ける神と人格的な交わりに入れられることによってのみ可能となるのです。
 今やアブラハムや預言者たちの神は、神の御子が人間となられた主イエスにおいて、ご自身を最終的に完全に啓示されました。それゆえ、人は生ける神を信じるためには、主イエスに対して垂直方向の信仰をもって、応答しなければなりません。
 ここでイエスは次のように仰せられました。
 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(2:10)
 ここで権威とは力を意味します。従ってイエスは「神の力」を持つ方として、中風の人に命じられました。
 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(2:11)
 「人の子」とはイエスがご自身を指し示される呼び名であり、実に謎めいた不思議な名称でした。それは確かに人間であることを意味していますが、同時に神の側に立ち、神の意志を語り、神の決定を執行する権威を持つ者、そして終わりの時にすべての人間を裁く神の権威を持つ者と言う意味です。
 イエスはそのような者として、中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と命令されたのです。すると、中風の人はその通りに、起き上がり、床を担いで家に帰って行きました。
 要するに、イエスは御自分が神であるとは言われませんでしたが、実質的に神であることを、御自分の言葉と行為をもって現されたのです。従ってこの出来事を目撃した人々の反応は次のようです。
 「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」(2:12)
 ここで、彼らはイエスが誰であるかと言う問いを避けて、このような出来事の一切を神の働きに帰して、神を賛美しました。
 しかし、彼らの賛美は極めて中途半端に終わっています。その理由は彼らが病人の癒しを「神の奇跡」としか見ていないからです。これは奇跡ではなく、「神の啓示」なのです。
 人間となられた神の御子イエスを通して、神がご自身を啓示されたのです。イエスが神の権威をもって、人の「罪を赦された」ということを「神の啓示」として信じることが必要なのです。そのためには、どうしてもイエスの人格に対する問を避けて通ることはできません。
 他方、イエスが神の御子であり、御子が人間となられた方であるという人格の秘密について、イエスが地上におられた期間は、「沈黙」を守り通されました。その事実に対する「自覚」をイエスは御自分の内にだけ持っておられたのです。
 なぜならば、イエスが神であるという霊的現実は、言葉の説明によっては証明できないからです。その事実は、イエスが人類を罪から贖うために十字架の死を全うし、死人の中から復活されたとき初めて明らかになりました。人は復活の主イエスに出会った時に初めて、イエスが神であることを悟ったのです。
 最後に、イエスに癒されたこの人は、病気の癒しを願ってイエスのもとに来たのに、イエスは罪の赦しを与えられました。なぜでしょうか。それは病気が癒されたというだけでは、その人の人生に対する完全な保証にはならないからです。

(3)わたしを信じるか
 それゆえ、イエスは地上で神の国を宣教しておられたとき既に、「ご自身に対する信仰」を要求されました。その理由はわたしたちが地上におられた主イエスに対する信仰を持つことによって、主イエスとの人格的な交わりに入れられるからです。
 事実、弟子たちの中でイエスを裏切ったユダは自ら自殺しましたので、復活の主イエスと出会うことはなかったのですが、その他の弟子たちは皆復活のイエスに出会い、主イエス・キリストを本当の意味で信じることができたのです。この事実からも分かりますように、イエスが地上におられた間に、イエスとの人格的な交わりに一旦入れられるならば、主イエスはその交わりを永遠に保持してくださるのです。
 今や十字架の死によって人類の罪を贖い、復活によって天地の主権者となられた復活の主イエス・キリストは神としての権威をもって働き、名実ともに人類の救い主なられました。それゆえ、福音の言葉を通して、わたしたちと出会い、地上のおられたイエスと同じ人格として、同時に神としてご自身を示し、わたしたちの罪を赦し、ご自身の内にある霊的生命を信じるに豊かに与え、ご自身に従うように命じられる救い主なのです。
それゆえ主イエスによって罪を赦されることは、喜びと生命と力と感謝に溢れた霊的現実なのです。



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