2015-01-04(Sun)

日々新しくなる 2015年1月4日新年礼拝メッセージ

日々新しくなる
中山弘隆牧師

 主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
詩編37篇23~24節


 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
コロサイの信徒への手紙3章1~11節


(1)新年を迎えて
 わたしたちは新年を迎えておめでとうと互いに挨拶をかわしますが、それはどういう意味でしょうか。暦の上で、今日から新しい年が始まり、自分の人生に新しいページが開かれたと考え、きっと新しいページに自分の新しい可能性が置かれていると感じるからでしょう。巷で人々は新年に晴れ着姿で町の目抜き通りを歩き、劇場では豪華なステージでいろいろな演出が披露され、観衆は喜び、陶酔して満足な一時を過ごします。しかし、そこで新しいと言うことは単なる表面的な事柄で、内容は以前と同じことを繰り返しており、少しも新しくなっていないのがその実相ではないでしょうか。
 まことに人生の難題に遭遇するとき、人は自分自身が新しくなることによって解決の道が開かれるのです。
 それではどうすれば自分が根本的に新しくなるのでしょうか。

(2)理想と現実の矛盾
 人は誰でも青年時代に自分の人生観を持つようになります。人格の尊厳、自由、責任、道徳的な規範、善、真実、そして人を本当の意味で愛するということは何か、自己愛ではなく純粋に他者を愛するとは何であるかを考え、人生に意味を与える価値観や理想を持つようになります。そのような理想を持つために、文学、人間論、そして聖書の教えを読み、さらに身近な先生や友人に学んで自分の理想や人生の目的をはっきりさせます。
 その時点で、自分は立派な人間になったと思うのですが、それは大いなる誤解であり、理想と現実の相違に未だ気づいていないのです。灯台もと暗しというように、高く掲げた理想とは全く逆なことを自分は行なっていますので、早かれ遅かれ行き詰ってしまいます。
 ここに人間には神の救いが不可欠である理由があります。

(3)新しい人間の創造
 正に神の救いとは、神の御子イエスにおいて、神を知り、神の命に生かされ、神の御心を行ない、神に従う新しい人間の創造です。しかし、それのために神は旧約聖書の長い時代を通して、人類と深く関わって来られ、その過程で救いに至る道が備えられたのです。
 最初に、神は人類の中からアブラハムを選び、アブラハムに救いを約束されました。次に、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がエジプトに行って、そこで生活していた時代に、下層階級となり、400年に渡りエジプトの王ファラオの奴隷となっていました。
 神はイスラエルの苦悩を顧み、強い手をもってファラオの圧制から解放し、イスラエルをご自分の民とされたのです。その事情は出エジプト記で詳しく語られていますように、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は恵み深い主権者であり、人類の歴史を支配し、ご自身の目的を実現される神であることを明らかにされました。
 この神の主権を信じることにより、神と民との関係が契約と言う形で設立されました。すなわち、この恵み深い神に感謝し、神に従うことによって民は生きると神は仰せになったのです。そして神は民が行うべき神の命令である律法を民に与えられました。
 しかし、イスラエルの歴史が証明している通りに、民は律法を実行しませんでした。そこにイスラエルの罪が露呈したのです。それゆえ神に反抗し、神から離れて行った民を神に立ち帰らすために、神は多くの預言者を遣わして神の言葉を語り、民を叱責し悔い改めさせようと務められたのです。
 その時の民の状況を預言者エレミヤは次のように言っています。
 「ユダの罪は、心の板に、祭壇の角に鉄のペンで書きつけられて、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれている。」(エレミヤ17:1)。
 さらにエレミヤは主の言葉を語っています。「人の心は何にもまして、捉えがたく病んでいる。誰がそれを知り得ようか、心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」(エレミヤ17:9~10)
 神はこの時点で、人間の救いとして人間を根本的に新しくするため自ら行動を起こすと預言されました。今やその預言は次の仕方で成就しました。
 父・子・聖霊の交わりの中で存在される神の御子のパーソンがご自身の上にマリアから人間性を取り入れ、御子が真の人間となられました。それゆえ御子イエスは真の神であり、真の人間です。このようにして神はわたしたち人間の中に到来され、新しい人間を創造されたのです。
 すなわち御子イエスが人類の代理として、人類の罪を自らの上に担い、十字架の死を引き受け、死の極みまで父なる神に従順であったので、人類の罪は贖われました。その結果、父なる神は御子イエスを復活させ、天地万物に対する神の主権を御子イエスに与え、御子イエスは今や主イエス・キリストとなって働いておられます。
 実に、神は御子の十字架の死と復活を通して、御子の内に新しい人間を創造し、新しい人間を御子イエスの内に保存されました。

(4)神の永遠の決定
 そこで、本日の聖書の箇所は次のように言っています。
 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのであるから、上にあるものを求めなさい。--あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1~4)。
 それでは、これはどういう事態でしょうか。聖書が指し示している霊的現実は何なのでしょうか。なぜならば、実際にわたしたちは未だ死んでいませんし、まだ復活していません。
 従いまして、聖書が言う「わたしたちはキリストと共に死に、キリストと共に復活させられた」とは、わたしたちが「神の御前」で、キリストと共に死に、キリストと共に復活したと言う霊的現実です。
 言い換えれば、神はキリストの十字架の死を通して罪人に対して死を宣告し、同時に「キリストの義」を罪人に授与されたのです。それゆえ罪人に対して「わたしはあなたをわたしの前で生きる新しい人間とした」と宣言されたのです。さらに「終わりの時に罪人はキリストのように罪のない、全く神に従順な新しい人間に必ずなる」。これがわたしの永遠の決定であると宣言されました。同時に、神は罪人を新しい人間にし、その新しい人間をキリストの中に保存されたのです。
 従って、この御言葉によって判断すれば、わたしたちは自分がまだ地上で生きている限りは、古い人間でありますが、キリストにあっては既に神の御前で新しい人間となっています。
 それゆえ、聖書が勧め、命じるように、わたしたちは古い人間の習性を日々後ろに捨て去り、新しい人間の習性を日々追い求めて行くときに、新しい人間として生きるのです。これが日々新しくなると言う聖書の意味です。それゆえ、わたしたちは聖書の御言葉に聴従して、直ちに行動します。そこに言葉では言い表せない限りない喜びがあります。
但し、それは「主イエスにあって」という条件の中で有効です。

(5)キリストと結ばれて
 それではキリストにあるとはどういうことでしょうか。新共同訳聖書は「キリストにあって」と言うギリシャ語を「キリストと結ばれて」と訳しています。コロサイの信徒への手紙の2章6節で「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストと結ばれて歩みなさい。」と言っています。この箇所をニューイングリシュバイブルでも「キリストと結合して」と訳しています。
 従いまして、クリスチャンがキリストと結ばれて信仰の人生を歩むと言うことは、キリストとの存在的なつながりを示しています。キリストも弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人とつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と仰せられました。しかし、キリストと存在的に結ばれるのですが、それは決してわたしたちがキリストのように神になると言う訳ではありません。キリストだけが神であり、人間なのです。
 要するに、クリスチャンがキリストと結ばれているならば、キリストを生かした神の霊的な命がクリスチャンの中にも働きます。
 その結果クリスチャンはキリストが地上でなされたキリストの歩みを追体験できます。言い換えれば、復活のキリストが信仰者の中で今ご自分の歩みを続けておられますので、キリストに従うことにより、クリスチャンはキリストの業を自分の歩みによって体験できるのです。
 そこにおいてクリスチャンとキリストとを結ぶ絆は聖霊です。また復活のキリストは聖霊の保持者でありますので、人間に聖霊を与え、聖霊によって信仰者をご自身と結び合わせられます。このように、聖霊による結び付きを考慮しますと、復活のキリストは聖霊によってクリスチャンの中に働かれることが分かります。
 つまり聖霊によって、ご自身の思いをクリスチャンの心に知らせ、聖霊によってご自身の命を注がれますので、クリスチャンは主に従うことができるのです。すなわちキリストの業が体験できるのです。
 他方、キリストとの結びつきは、別の視点からも説明できます。それは「キリストにあって」と言う視点です。
 すなわち、クリスチャンがキリストの支配される領域、神の国に入り、そこで生きることです。その場合、聖霊がその領域、空間をキリストの命で満たしています。クリスチャンはあたかも空気を吸い込むように、キリストの命を受け取るのです。その空間の中で、キリストの御顔を見つめ、キリストの御声を聞くのです。そしてキリストに従うのです。そうすることにより、クリスチャンは新しい人間として生きるのです。パウロは次のように言っています。
 「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられて行きます。」(コリント二、3:17~18)
 第二次世界大戦中、ドイツでヒットラーに反対し、逮捕され、獄中で殉教した若い神学者ボンヘッファーが「自分は常に穏やかな生命に溢れた環境に取り巻かれている。それは自分を教え、また自分の誤りを正し、自分を常に赦す聖なる環境である。そこから命と希望を与えられて自分は今日も生きている。」と言っています。そのようにして、彼は復活の主イエスに従って歩みました。
 信仰者はこのような目には見えない聖なる領域に包まれて、一日一日を生きています。言い換えれば、それは聖霊を通して主イエス・キリストがわたしたちと出会い、御言葉を語り、わたしたちに為すべきことを命じられる復活の主の生命が満ちている領域なのです。

(6)キリストを着る
 それゆえ、聖書は次のようにわたしたちに命じています。
 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。お互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(3:12~13)
 ここで指摘し命じられている性質と言動と態度とは、すべて地上で過ごされた神の御子イエスの姿です。同時に復活して神として働いておられる御子イエスの姿です。それゆえ新しい人間として生きることはこのキリストを身に着けること着ることであると言えます。
 憐みの心とは内心から突き動かされるような熱い思いをもって、イエスが病める者、罪に打ちひしがれている者を憐れみ、癒し、神の赦しを御言葉と態度で与えられたその心です。そのイエスの熱い思いが愛なのです。愛の反対は憎しみではなく、冷淡であります。
 慈愛とは善意と憐みです。謙遜と言えば主イエスは父なる神の栄光を求めて行動されましたから、自己を誇ることは少しもありませんでした。謙遜こそ主イエスの性質です。
 柔和とは従順であり、親切であり、優しい性質です。寛容とは広い心です。人は様々であり、個性や能力、生き方の面で多様がありますが、それを認め、抱擁する広い心です。
 赦しこそ神の愛の特徴です。ペトロは主イエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねたとき、主イエスは「あなたに言っておく、七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:21)と仰せられました。本当に赦す者は神の愛で人を愛するのです。
 今やこの主イエスが、信仰者たちの交わりの中心に立っておられます。それゆえ人は直接に他の者と関係するのではなく、媒介者である主イエスを通して交わるのです。そのことによって人は互いに兄弟として、隣人として出会い、それぞれの個性や賜物の相違を持ちつつ、主にあって一つになり、多様性の中に大きな調和が生まれます。これが新しい人間に生きることです。



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