2014-11-23(Sun)

希望による救い 2014年11月23日の礼拝メッセージ

希望による救い
中山弘隆牧師

 主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
レビ記19章1~2節


 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
ペトロの手紙一 1章1~9節


(1)手紙の目的
 この手紙は当時ローマにいたキリストの使徒ペトロが、彼の協力者であるシルワノの手によって書いたと、言っています。ペトロが口述し、シルワノが筆記したのですが、ペトロはアラム語以外にギリシャ語が堪能であったとは思えませんので、ペトロの意を汲んだシルワノがペトロの言葉をギリシャ語に翻訳し、その際に自分の言葉を付け加えて、堂々とした筆致のギリシャ語の手紙となっています。この点でシルワノはギリシャ文化に教養のある人物です。とことでこの手紙は小アジアの諸教会に宛てた回覧状であります。
 この手紙は「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」という書き出しから始まっています。これから明らかのように、この手紙を届ける使者が通るルートに沿って宛先が記されています。
 最初は黒海に面した平野地帯であるポントス地方にある諸教会から始まり、現在のトルコの中央に位置する高原地帯であるガラテヤ地方の諸教会を回り、次にガラテヤの東に位置するカパドキア地方そして当時最も盛んでキリスト教会の中心であった小アジア地方の諸教会を経て、最後にギリシャの対岸であるビティニアの諸教会で終わっています。
 また、この手紙は西暦64年にローマのネロ皇帝によるキリスト教への大迫害が起こり、ペトロはそのとき殉教しましたので、その少し前にこの手紙は書かれたと推測されています。従いまして、手紙の目的は当時すでに予想されていた迫害に耐えて、キリストへの忠誠を堅持するようにクリスチャンを勇気づけるためです。
 しかし、この手紙は単なる手紙で、例えば教会の掲示板に張り出して皆が読めるようにするために書かれたのではなく、礼拝の中で読むように、つまり礼拝の説教として読まれるようにという明確な目的を持って書かれています。もともと使徒たちの手紙はすべて同じ目的で書かれています。
 そして使徒たちの説教は皆同じ内容であり、神が主イエス・キリストにおいて実現し、完成される神の救いの行為を語っています。同時に神の救いを受ける人間の信仰生活について語っています。主イエスに従うことがどういう生き方であるかを熱心に教えています。
 主イエスに従う中ですでに永遠の命に生ること、最後は救いの完成に至るということを語っています。すなわち主イエスが再臨し、人は皆主イエスによる審判を経て神の国に入ると語っています。
 
(2)生ける希望
 この説教の中でペトロはまず、次のように神がキリストを通して与えられた恵みを賛美しています。
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐものとしてくださいました。」(1:3~4)
 ここにはキリスト教会が発生した当初の信仰が非常に明瞭に語られています。あくまでも信仰の中心はイエス・キリストが十字架の死によって人類の罪を贖われたこと、父なる神がイエス・キリストを復活させ、天地万物の支配者とされたことを信じる信仰です。
 そのことにより旧約聖書においてご自身を現わされた創造者なる全能の神、人間と世界を超越しておられる聖なる生ける唯一の神、人間の歴史の主権者である神を、本当の意味で信じることができたのです。その神を、わたしたちの主イエス・キリストの「父」として信じ、従って、主イエスと結ばれたクリスチャンの父として信じることにより、今や神に対する本当の信仰が与えられたのです。
 それゆえに、ペトロは神を「わたしたちの主イエス・キリストの父」と呼んでいます。
 これまで旧約聖書で、「主」と言う名称は天地万物を支配しておられる唯一の神を表していましたが、新約聖書ではその名称を復活のイエス・キリストに適用し、「主イエス・キリスト」と呼んでいます。それは今や父なる神が主イエスを通して、ご自身の主権を行使しておられるからです。
 特に神の真の力は、父なる神がキリストを死人の中から復活させられたことを通して現れました。それは天地創造に勝る力であり、神の無限の力の啓示なのです。それゆえイエス・キリストの復活の中で、神の究極的な目的と救いの恵みが啓示されたのです。
 ここでペトロは神が「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、わたしたちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えられた。」と告白賛美しています。
 これはクリスチャンが今や主イエス・キリストの復活の命に生かされているという自分たちの「体験による」認識と証言です。
 さらに、ペトロは「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」と告白賛美しています。
 この意味は新たに生まれさせられた「信仰者の新しい存在」は朽ちることのない、罪の全くない清い、永遠に存続する存在として、天国に置かれている。それは救いが完成する終わりの時に信仰者が相続する財産であるというのです。従って「財産」とは新しい存在を意味しています。
 それは主イエス・キリストが再臨されるときに、現されます。そのときまでは永遠の国に保存され、隠されています。しかし隠されている新しい存在は、常に御言葉と聖霊を通して信仰者に知らされ、霊的命として信仰者の中に今働いているのですから、正に「生ける望み」の対象なのです。
 それゆえその生ける望みは三つの側面を持っています。
 一つは主イエスを信じる者に御子イエスの霊である聖霊が与えられ、主イエスが神を「わたしの父」と呼ばれたように、わたしたちクリスチャンは聖霊を通して神を「わたしたちの父」と呼ぶことのできる神の子たちとされたことです。
 しかしわたしたちは現在すでに神の子とされていますが、実際には依然として罪深い者でありますので、主イエスの十字架の血がわたしたちの罪を神の前で覆うことによって、聖なる神との人格的な交わりが可能なのです。つまり神がわたしたちを神の子として取り扱ってくださっているのは、わたしたちの罪が常に主イエスの十字架によって赦されているからです。
 もう一つは「救われた人間の存在」すなわちわたしたち罪人の罪がすべて取り去られ、イエス・キリストとの義を受けて、完全に清いものとなっている「新しいわたしたちの存在」が天に蓄えられていることです。それゆえ、この世の様々な悪の攻撃にさらされず、サタンの力が及ばない領域に、神の御手の中に隠されているのです。
 三つ目は天に蓄えられているわたしたちの新しい存在は主イエス・キリストが再臨されるときに現れると言うことです。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために」(1:5)とは主イエスの再臨のとき現われる「救いの完成」です。このことを「イエス・キリストが現れる時には、称賛と栄光と誉とをもたらす。」(1:7)と言っています。「栄光」とはクリスチャンが「完全に救われた」状態を意味しています。
 さらに、ペトロはクリスチャンが神の摂理の御手に守られていることを次にように告白しています。
 「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」
 このように神の力に守られて信仰の歩みを続けているクリスチャンをペトロは励ましています。従いまして、この箇所はペトロが「希望の使徒」と呼ばれるに最もふさわしい内容であると言えます。
 ある新約聖書学者は、「ペトロの見方において、希望がクリスチャンの生活の固有の中心部分を形成している。希望がペトロにとって最も大きい活力となって現れている。希望によって、待望されている完成は既に直接的に近くへ引き寄せられている。」と言っています。
 それにしましても、ペトロの希望は単なる希望ではなく、現在クリスチャンをキリストの義と命に生かし、わたしたちの信仰生活の中に霊的な力を絶えず供給する「生ける希望」です。
 それゆえ、ペトロは次にようにクリスチャンの現状を説明しています。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(1:8~9)
 「キリストを今まで見たこともなく」さらに「今も見ていないのに」キリストを信じて、「言葉では言い尽くせない喜びに満ち溢れている」、このクリスチャンの状態を見るにつけ、復活の主イエス・キリストがクリスチャンの内に臨在し、神の愛をクリスチャンの心に注ぎ、喜びと力を与えられている「霊的現実」がそこにあることを知り、ペトロは大いなる感激を覚えるのです。
 ペトロやその他の使徒は弟子として、約3年間キリストに従い、キリストの言動をつぶさに見て来ましたが、復活の主キリストに出会って初めて、救い主キリストを「本当の意味で理解する」ことができた人たちです。それゆえ今やキリストに全く依存して、キリストに従うことを「無上の喜び」としている者たちです。
 それに対して、現在のクリスチャンたちはキリストを一度も見たことがないのに、自分たちと同じ無上の喜びをもってキリストに従うその「生き様」を見るにつれ、神様のなさる偉大な業に驚嘆せざるを得ないのです。
 ここに、今や復活して神として働いておられるキリストは、人の目に見えない方であり、人間の想像をはるかに越えた力を持って働いておられ、神の右に坐しておられると同時に、この地上にも臨在し、人間としての限界を取り除き、いつでも、どこにでも、誰に対しても、働かれることによって、ご自身の復活の命を与え、クリスチャンをご自身に従って歩むようにしておられるその主イエスの働きを目の当たりにして、ペトロは神を賛美しているのです。
 しかも神として働いておられる主イエスは、弟子たちと共に過ごされた自分たちの良く知っている「あのナザレのイエス」であり、「真の人間」となられた方です。このことがペテロに最も大きな感銘を与え、神を賛美する一番大きな動機となっています。

(3)キリストに従う生き方
 最後に、ペトロは自分たちが復活の主イエスに出会うことにより、それまでイエス・キリストに従って来た以前の関係に、再び新しく復帰することになりましたが、今や福音を聞いて主イエスを信じる者たちも同じ関係に入れられたことを彼は実感しています。
 そしてクリスチャンと主イエスの関係を彼は主イエスを羊飼い、クリスチャンを羊という表象を用いて表しています。クリスチャンは羊が羊飼いの行くところどこにでも従っていくように、今や迫害や様々な困難の嵐の中でも、先立って進んで行かれる復活の主イエスに従うことにより、信仰が純化しクリスチャンが益々主イエスの性質を映し出す者へ聖化される重要性を強調しています。
 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と栄光と誉とをもたらすのです。」(1:7)。
 ここで「火で精錬されながら」という句は、「金」にではなく、「あなたがたの信仰」を修飾していると言うふうにも読めます。実にクリスチャンの信仰は試練を受けることにより本物となるのです。
 クリスチャンに対する主イエスの最後の審判は、その信仰が幾多の試練に耐え抜き、愛の業を通して現わされた「本物の信仰」であるかどうかについての判決が下されるのです。
 究極的な神の審判は既に主イエスの十字架の死と復活においてただ一回限り決定しています。それは絶対的で不変です。
 それゆえ、最後の審判は決してクリスチャンの功績を判定することではありません。そうではなく、すべてはキリストの恵みとその働きによるのですから、最後の審判はクリスチャンの中に働いたキリストの業の自己検証なのです。しかし検証されたキリストの業が、クリスチャンのものとして認められます。それが永遠の神の国での「クリスチャンの相続」です。
 他方、クリスチャンはキリストの土台の上に自分たちの手で形成した建物が最後の審判の火に試され、消失するならば、その働きは無に帰します。しかし、クリスチャン自身はやっと救われます(コリントの信徒への手紙一、3:14~15)。
 さらに、それでは生前キリストに出会わずキリストを信じなかった人たちはどうなるのでしょうか。その場合、異教徒、或いは無宗教であっても、皆例外なくキリストの十字架の贖いを受けているのですから、キリストは隠れた形で彼らと出会いっておられます。
 最後の審判の日に、キリストは「この貧しいわたしの兄弟の一人」にしてくれた愛の業はわたしにしてくれたのであると仰せになります(マタイ福音書25:40)。実に、隠れた姿の主イエスに対する「信仰を持たない人たちの愛の業」は彼らの「神の国で受けるべき分」とされるのです。



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