2014-11-16(Sun)

絶えず祈る必要 2014年11月16日の礼拝メッセージ

絶えず祈る必要
中山弘隆牧師

 涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。「お前の神はどこにいる」と。わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。
詩編42篇2~6節


 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
ルカによる福音書11章5~13節


(1)祈りの必要
 祈りはクリスチャンの生命線であると言われます。わたしたちは空気を呼吸していなければ生きられないように、信仰者は祈らなければ神様との関係の中で生きているという意識が薄れ、霊的生命が弱まってしまいます。また、思い出したように、時々祈る程度では、祈りとして不十分です。
 使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙一、5章16~18節で次のように言っています。ところでこの手紙は新約聖書の中で、一番古い文章であると見られています。パウロの伝道によって設立されたテサロニケ教会はユダヤ教徒による激しい迫害の中で、聖霊によって、福音を堅持し霊的力の湧き出る信仰共同体であるために書かれた手紙ですが、その秘訣は祈りであることを明らかにしています。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ一、5:16~18)
 激しい迫害と困難の中でも「いつも喜んでいなさい。」と言う勧めは一見、無理な要求であるように思えます。しかし、クリスチャンは神の愛、計画、力の中に置かれ、神に守られ、支えられ、キリストの導きを実際に具体的に受けているのですから、喜びと神に対する感謝がクリスチャンの心の中に湧き出で、心を満たすはずです。 
 ただ問題はクリスチャンが神の愛、神の支え、キリストの導きの「霊的現実」を果たして自覚しているかどうかです。自覚していなければ喜びは感じられません。それゆえ、パウロはその霊的現実に気づきなさい、そうすれば「いつも」喜んでおられると言うのです。
 そして、絶えず祈りなさいと励ましています。パウロは時々祈る程度ではなく、絶えず祈りなさいと強く勧めます。祈りにおいては特にこの点が重要です。「絶えず」とはまたわたしたちと関係するどんなことについてもと言う意味も含まれています。
 祈りは実にわたしたちと神との人格的な交わりの手段です。また神は御言葉をもってわたしたちと出会い、わたしたちの心にわたしたちに対する神の目的、計画、命令、働きを知らせて下さいます。
 さらに、わたしたちが神の性質と御心を思いめぐらし、熟慮する場合も、神は聖霊を通してわたしたちの心を照らし、わたしたちを教えられます。従って聖書の御言葉に聴くことも、また神の御心を思いめぐらし熟慮することも、神との交わりの手段です。
 それにしても、なお祈りはわたしたちが神の御前に出て、神と対面し、神に自分のすべての状況を報告し、わたしたちの願いを直接神に語ることができる機会なのです。その場で人間の目に見えない神はわたしたちが祈ることを黙って喜んで聞いておられるのです。それゆえわたしたちは神に一生懸命で祈らなければならなりません。
 全知全能の神はわたしたちを愛と恵みの対象としてくださり、わたしたちの存在と人生全体に対して、恵み深い神の目的を実現し、わたしたちを永遠の国に入れ、神の御前で神を賛美して生きるようにしてくださる方であります。
 それゆえ、わたしたちは自分のすべての面を神に対して祈りによって報告し、わたしたちの具体的な願いを神に申し上げなければなりません。そうすれば後は神様の判断に委ね、神様の御心が実現しますようにという思いを持っているならば、わたしたちは「自分の在り方」が神の御心に適うように調整されます。あたかも大海を航海している船がその進路を羅針盤によって常に調整するように、わたしたちは祈りによって神が導かれる信仰の旅路において、「正しい方向」と「正しい姿勢」を保つことができるのです。
 そうすることによって自分はこれでよいのだ、神が万事を益とされる方向に導いてくださるとの「確信」と「安心感」が与えられます。同時に主イエスに従い、神と共に歩んでいるという自覚が与えられ、大きな感謝が沸き起こります。
 さらに使徒パウロはフィリピの信徒への手紙4章6~7節で、愛するフィリピのクリスチャンにいわば遺言であるかのように「祈り」について勧めています。
 「どんなことでも、思い煩うのは止めなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)
 わたしたちは極めて小さい存在で、弱い人間でありますから、何事につけて思い煩う者です。しかし、神に祈る場合には、クリスチャンは「主イエスにあって」祈るのです。主イエスにあってとは言い換えれば「主イエスに結ばれて」と言う意味です。
 それは主イエスが「父なる神」に祈られた時、つねに「父」を信頼し、感謝し、「父」は祈りを必ず聞いてくださると確信して祈られました。主イエスに結ばれているクリスチャンはそれゆえ、主イエスの父に対する信頼と感謝と確信を持って祈ることができます。
 この恵みに立脚して、主イエスのように祈りなさい、と使徒パウロは愛するフィリピの信徒へ万感の思いを込めて奨励しています。
 現在自分の置かれている状況とそこにおける自分の願いと目的を神に具体的に、はっきりとそしてすべてを申し上げるならば、そのように神を信頼し、感謝し、つぶさに祈る者の祈りを神様は聞いてくださっているのです。
 祈りの結果が判明するためには長い時間が必要ですから、その時まで忍耐して待たなければなりません。しかし神様がその祈りを聞いて下さっていると言う神様の確かな取り扱いと態度が分かりますので、神は御心に従った最善の道を必ず開いてくださると確信ができ、人智をはるかに超えた平安が祈る者を支え守るのです。
 立つか倒れるか、生きるか死ぬかの試練の期間に、心に平安が与えられ、神を信頼している者は、霊的力を得ることができます。このことに関して、偉大な預言者イザヤがイスラエルの危機の最中に声を大にして叫びました。イザヤ書30章15節の有名な言葉です。
 「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。』」(イザヤ30:15)
  
(2)神の約束
 本日のテキストであるルカによる福音書11章1節は、主イエスの祈っておられる姿を見て、弟子たちが受けた強烈な印象を語っています。弟子たちは、イエスこそ真実の祈りのできる方である。イエスの祈りを神は常に聞き入れられるという思いを強くしました。そこで、彼らは主イエスにどのように祈ればよいか教えてくださいと、お願いしました。その時イエスは弟子たちに「主の祈り」を祈るように教えられたのです。これが今日教会の礼拝で用いられている一番大切な祈りです。
 さらに、イエスはどのように祈るべきかについても教えられました。それが5節以下に記されています。
 イエスは譬え話を用いて教えておられますが、人は友人だから、自分の願いを聞いてくれると思うのは間違いで、友人の親切さを信頼して、一生懸命にしかも執拗に願うから、聞いてくれる。神に祈る場合にも、それと同じように神は慈しみ深い方であると信じて、一生懸命に執拗に祈るならば、神はその祈りを聞いてくださる、と教えられました。そして次のように主イエスは約束されました。
 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(11:9~10)
 ここで主イエスが用いられました「わたしは言う」というギリシャ語は、「エゴー レゴー」です。普通に「わたしは言う」というギリシャ語は「レゴー」だけで十分なのです。それに比べて「わたしは」という意味の「エゴー」を付け加えるのは、特に強調した言い方で「他の者ではなく、このわたしが言う」という意味です。
 このような言い方は、イエスが神について語られるとき、或いは神から与えられたご自分の使命について語られるとき、また主イエスを通して、神様が信じる者に与えられる恵みについて語られるときにされています。
 この場合に、神様は恵み深い方であり、万物を生かし、支配しておられる正しい善なる方であるから、そしてすべての良い賜物と命の所有者であるから、神を信じて、求めるならば、そして執拗に求めるならば、神は必ずお与えになる、と仰せになりました。
 これは神様がどういう方であるかを示す言葉であり、それゆえ神を信じて真剣に、一生懸命に求める者には必ず与えられるというイエスの約束です。言い換えれば、神様の約束なのです。
 しかし、「求める者は受ける。」「探す者は見つける。門をたたく者は開かれる。」とは単にわたしたちの求める物事を受け取ることができるというのではなく、願っているものを受けるに至るまでに、神様との人格的な交わりが与えられることを示唆しています。
 実に祈りはそのような神との交わりに入る門を叩くことであり、門が開かれるとはその交わりに入れられることであります。探す者は見つけるという意味も、神様を尋ね探す者に神様が出会ってくださるという意味が込められています。
 正にイエスこそ、地上の生活において、真実な祈りをなし得た唯一の方です。イエス以外にはそのような祈りをすることのできた人間は誰もおりません。イエスの祈りは父なる神と神の御子であるイエスとの親密な交わりの時でありました。
 ガリラヤ地方で、神の国の宣教をされましたとき、イエスは毎日、朝早く起きて、一人で祈っておられました。
 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そして祈っておられた。」(マルコ1:35)
 このように、今日なすべき事柄を、父なる神に祈り求め、神の御心を知ってから、イエスは行動されたのです。そういった意味で、イエスは自分が父に絶対的に依存していると言っておられます。
 「子は父のなさることを見なければ、自分から何もできない。父のなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」(ヨハネ5:19)
 この御言葉はいかにイエスが父に依存し、父の御心を知り、しかもそれを実行する力を父から受けておられたかを如実に表しています。イエスは父なる神に向かって、「父よ」と呼びかけ、神は「子よ」と答え、神の御心と性質をイエスに示し、神の命令を与え、その命令を実行する力をイエスに与えられました。言い換えれば、それは父なる神が御言葉をイエスに語り、イエスはその御言葉を理解し、その御言葉に従って、行動されたということです。
 生涯の頂点と言うべき、十字架の使命を果たすために、十字架の死を目前にして、イエスはゲッセマネの園で祈られました。この祈りにおいて、天下分け目の決戦が既に行われたのです。自己の死における虚無と恐れを回避したいと言う人間として当然の願いと、人類の救いのためにイエスを死と虚無の淵に渡さなければならないという父の決定、この両者の違いの狭間で苦闘されましたが、イエスは父の御心に従うことを最終的に受諾されました。そして死において、なお父に従順である力を祈りにおいて父から受けられたのです。
 実にこのことによってのみゴルゴダの丘における十字架の死は人類の罪を贖うことができたのです。イエスのこの祈りほど深い意味と力ある祈りは他に存在しません。
 このイエスがわたしたちに祈りにおいて、神に求め、門をたたき、神との交わりを求めよと仰せられ、同時に神は祈り求めるものを豊かに与えられ、何よりも祈りにおいてご自身を示されると約束されたのです。従いまして、クリスチャンの祈りの基礎はイエスのこの約束であります。しかしそれだけではありません。さらにイエスは復活して主イエスとなられましたので、今は父なる神の御前に立って、わたしたちの祈りを執成しておられます。それゆえ、主イエスご自身がクリスチャンの祈りが聞かれることの保証であり基礎なのです。

(3)答えられている祈り
 最後に、わたしたちは祈りにおいて神に求めるとき、神様から非常に多くのことを学ばせて頂きます。先ず、神が必ず祈りを聞きあげてくださるという確信です。次に祈り求める事柄を実現される神様の方法を静かに見守る姿勢です。さらに、そこで深刻な自分の問題と直面させられ、自分の罪深さを自覚するようになります。そのような者を神は主イエス・キリストの贖いと義のゆえに神との交わりの中にしっかりと保ち、どのような状況になっても決して切り離されないので、キリストの性質を映し出す者へと徐々に変えてくださいます。
 しかし、そのような忍耐深い祈りこそ実は既に聞かれていると言えます。なぜならば、そのような祈りを通して、聖霊がわたしたちの中で働いているからです。
 主イエスは、「まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11:13)と仰せられました。まことに、忍耐深い祈りこそ、聖霊の働きなのです。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR