2014-11-09(Sun)

ペトロの告白 2014年11月9日の礼拝メッセージ

ペトロの告白
中山弘隆牧師

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
イザヤ書42章1~4節


 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
マタイによる福音書16章13~20節


(1)福音書の特徴
 福音書には共観福音書と呼ばれているマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の四つの福音書がありますが、それらは神の「同じ一つの救い」を記しています。すなわち、神が旧約聖書の時代に、預言者たちを通して約束された人類に対する救いが、御子イエス・キリストとその業によって実現したことを語っています。
 しかし、イエス・キリストご自身が福音書を書かれたのではありません。この点で、世界的な宗教には偉大な教祖がいて、教祖が書物を表し、それが経典となっていますが、福音書の場合はイエス・キリストに従い、神の啓示による信仰と救いを与えられた弟子たちが、イエスの存在とその働きについて証言した内容が、福音書に保存されています。
 さらにイエス・キリストの存在と言動が、救いをもたらし信仰を与える神の働きそのものであるという霊的な事実が、他の宗教には類のない特殊な点です。
 それゆえ、福音の強みは、人間の救いが神話的な架空の人物によってなされたのでなく、イエス・キリストと言う歴史上に実在した人格とその働きによって実現したという点です。
 この「歴史的」であると同時に「神的事実」を記した書物が福音書です。それゆえ福音書はいわゆるイエスの伝記ではありません。
 確かに人間としての面から見れば、
イエスの知性はわたしたちと同じように経験を経て成長しまし、またご自分の使命である十字架の死による人類の罪の贖いについても明確な認識は、イエスの宣教の前半から後半へ移行する時期でなかったかと推測されます。
 他方イエスの言動には、人間を超えた神としての性質や認識や力が働いています。それは御子イエスと父なる神との人格的で親しい交わりから湧き出る働きであり、人間の理解を遥かに超えた尊い神秘です。
 例えば、マルコ福音書は冒頭で「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記しています。イエスは「神の子」であり、神の子として「キリスト」である、と告白しています。それゆえマルコ福音書は、この信仰をもって御子イエス・キリストの生涯が神から人類に与えられた救いであり、神の良き知らせの内容であると言っています。
 
(2)弟子たちの告白
 本日の聖書の箇所は、イエスの弟子たちが、「あなたは、メシアです。」と言って、イエスを「メシア」すなわち「救い主」と告白した時の状況が記されています。
 そのような信仰告白は、弟子たちがイエスに従い、イエスがガリラヤ地方でなされた「神の国」の宣教活動をつぶさに見てきた結果です。その中で、イエスは神の国を人間に対する「神の直接的な支配」として理解し、神の恵み深い支配が今やイエスを通して、到来し、開始していると宣言され、同時に神の力を現されました。
 ところで、神の国とは旧約聖書で預言されている神の究極的な救いですが、それは神ご自身が人間一人一人を直接支配されることを意味しています。民を統治するために選ばれた王や祭司や指導者たちがその職責を果たすことによって神の意志に従い、人々を支配するのではなく、そのような制度や人間を一切排除し、神ご自身が人間存在の中に入って来られ、一人一人を支配されと、預言されていたのです。
 預言者エレミヤは終わりの時に与えられる新しい契約を語っていますが、その中で神は次にように仰せられました。
 「わたしの律法を民の胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:33~34)
 今やイエスは預言者たちが預言した神の直接的支配が「イエスの言動」を通して開始していると仰せられました。
 例えば、イエスは罪の赦しを宣言し、病人を癒されました。

 それは神の究極的な恵みの現れです。イエスはご自身に対して「人の子」という意味深い神秘的な名称を使用されましたが、「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。」(マルコ2:10)と言って、中風に罹っている人を癒されました。
 このとき、人々は神一人のほかに罪を赦すことはできないのに、イエスがその神の権威を持っておられるのを目撃して、「この人は一体誰なのだろうか」というイエスに対する問いを持つようになりました。
 また、イエスは神の国について種を蒔く人の譬話をされました。
 「また、ほかの種は良い地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」と言って、神の国の成長を教えられました。
ここで種とは福音であり、種を蒔く人はイエス・キリストです。この譬え話の最後の訴えとして、「聞く耳のあるものは聞きなさい。」(マタイ13:9)と仰せになりました。
 この言葉は、神の国が何であるかを知る者は、イエスの宣教を通して始まっている「霊的な現実」を信じる者であるということを表しています。さらにマタイ13章16節で同様のことを仰せになっています。
 「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたの見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(マタイ13:16)
 見る目とは、信仰の目をもってイエスを見て、イエスを通して働く神の支配の霊的現実を知ることです。
 他方、イエスは神の国の宣教をご自分が神の御子であるという深い自覚をもって遂行されました。
 マルコによる福音書は、イエスが救い主キリストであることの基礎を、イエスの自覚の中に見ています。
 マルコはその事実をイエスの生涯の要所ごとに記しています。
 先ずイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、天からの御声があり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神の声が聞こえてきた、と記しています(マルコ1:11)。
 また、イエスが三人の弟子たちを連れて、高い山に登られたとき、イエスの姿が弟子たちの見ている前で変わり、天からの声が聞こえました。これは神が弟子たちにイエスを証された言葉です。
 「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」(マルコ9:7)
 この天からの御声は、普段イエスが父との交わりの中で、自分が子であると言う自覚を持っておられましたが、それを確証したのです。
 他方、イエスは真の人間として、飢え渇き、多くの苦しみを経験されましたので、病を負う者の苦しみを、同じ人間として同情し、ファリサイ派や律法学者たちの偽善に対して怒り、また彼らの心の頑なさと盲目さを悲しみ、郷里の人たちの不信仰に驚かれました。また再臨の日について父なる神だけが知っておられ、自分には分からないと正直に仰いました(マルコ13:32)。これらすべてはイエスの人間性を具体的に示しています。
 従って、イエスは本来、神の子であり、神としての本質を持っておられましたが、同時に真の人間でありましたので、地上におけるイエスはあくまでも「隠された神」でありました。
 福音書は、イエスの人間としての生涯の背後に、イエスが神であることは隠されていた、と見ています。そして、イエスの人格、教え、行為を洞察する目をもっている人たちだけに、イエスが神であることが見えたと言っています。 
 このような衝撃と波紋をイエスの宣教活動は周囲に及ぼしました。ちょうどその時期に、イエスはガリラヤ地方の伝道を締めくくるため、周囲の人々の反応がどうなっているかその様子を弟子たちに聞かれました。本日の聖書の箇所でありますマタイによる福音書16書13節以下にその様子が記されています。
 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられました。それに対して、弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」という人も、また「エリヤだ」という人もいます。ほかに「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」という人もいますと、報告しました。
 その時、イエスは弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」(マタイ16:15)とイエスに対する信仰を要求されたのです。

(3)イエスがメシアであることを秘密にされた理由
 この時、ペテロは弟子たちを代表して「あなたは、メシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白しました。
 それを聞いてイエスは、ペトロに信仰を与えられた方はわたしの「天の父」であると仰せられました。父なる神がペトロの心を照らし、イエスがメシアであることを啓示されたことを何よりも喜び、「ペトロの信仰」の上に「わたしの教会」を建てると仰せになりました。
 しかし、驚くべきことが起こりました。極めて不思議なことです。
 「それから、イエスは、ご自身がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(16:20)
 この点マルコによる福音書ではもっと強調されています。マルコによる福音書によりますと、イエスが誰であるかに関しては、イエスが態度と行動をもって証しておられる面と、それを言葉で言い表すことを拒否し、秘密しておられる面との両面がはっきりと表れています。 
 ここに、イエスが神の御子・メシアであるのはその中に緊張関係を伴っていたことを表しています。
 実にイエスの生涯にはそれを織りなす縦糸と横糸が存在します。つまり縦糸とはイエスが神の御子としての自覚と、神の力を発揮された行為であり、横糸とはメシアの秘密です。このように縦糸を横糸が常に横切っているのです。
 なぜならば、イエスにとって、メシアとは決して「身分の問題」ではなく、「行動の問題」であるからです。
 イエスの判断によれば、イエスは病人の癒しの業においてメシアなのです。悪霊の追放とサタンの力に対するイエスの勝利においてメシアなのです。さらにイエスの受難と死、そして復活、最後に天の雲に乗って来られる再臨、これらすべての業においてメシアなのです。
 つまり、イエスにとってメシアとは「神的な必然としての運命」なのです。それはイエスが実行される事柄であり、父なる神がイエスにおいて完成することを欲しておられる事柄であり、イエスが御子としての愛をもって父の御心を成就される事柄なのです。
 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マタイ16:21)
 新共同訳で、「必ず--することになっている」という言葉は「神的必然」「神的運命」を意味しています。従って、イエスは弟子たちにご自分が復活するまでは、メシアの秘密を守るように厳しく命じられた理由がそこにあります。
 要するにイエスは「既に」メシアでありました。そのような方としてイエスは自分の運命が成就するまで、メシアになることを「欲せられなかった」のです。
 最後に、イエスは地上のすべての時間を真剣勝負で生きられました。イエスの生涯は激しい戦いの連続でした。その中で父に祈り、父の御心に従い、人類の贖いのために、ご自分のすべてを与えられたのです。ご自分の全存在をもって、メシアの使命を果たされたのです。
 その結果父なる神は人類の救い主、神の国の主権者としてイエスを復活させられたのです。ここに至ってイエスは「名実ともに」メシアとなられました。
 この現実は復活の主イエス・キリストが現れ、弟子たちと出会い、弟子たちに命令をされたとき明らかになりました。
 「イエスは、近寄ってきて言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイ28:18~20)
 今や、復活の主イエス・キリストは「福音の御言葉」を通して、「信仰者の中に」働かれますので、弟子たちが生前のイエスに従ったように、否それ以上にイエスの義と命を受けて、イエスの足跡を一歩一歩と辿り、イエスに従うことが可能となりました。このことにより、復活の主イエス・キリストは今や名実ともにメシアなのです。
 今では復活の主イエスはいつでも、どこにでも臨在し、誰とも出会われる神としての働きをしておられます。それゆえ、「イエスの人間性」はイエスの「神性の中に隠されて」いると言えますが、イエスの「神性の中に保存」されています。
 従って、地上で過ごされたイエス・キリストの性質、教え、命令、行動をわたしたちが常に心に留めているならば、復活の主イエスがより鮮明に分かり、復活の主イエスの「霊的な現実」によって、わたしたちは生かされるのです。
 要するに、復活の主イエスは弟子たちが従ったあのナザレのイエスなのです。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR