2014-11-02(Sun)

救いが完成する天国 2014年11月2日聖徒の日礼拝メッセージ

救いが完成する天国
中山弘隆牧師

 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
イザヤ書35章8~10節


 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
エフェソの信徒への手紙1章3~10節


(1)天上の聖徒と共に
 本日は永眠者を記念する「聖徒の日」でありますので、日本基督教団に属する諸教会は、既に天に召された方々を覚えて礼拝を守っています。本来キリスト教会の礼拝は、地上にいる信仰者たちだけでなく、地上での生涯を終え、天に召された人たちも共に礼拝に参加しているという理解のもとで行われています。
 ヘブライ人への手紙12章では、わたしたちの信仰の生涯を一つの大きなマラソンに譬えています。しかも、そのマラソンを走り終えた人たちは天にある観覧席でわたしたちの走る様子を応援しているというのです。
 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ12:1)
 このマラソンは、信仰者が自分に定められたコースを走り終えると、次の走者にバトンタッチして、その人も自分のコースを完走すると、また次の走者にバトンタッチする仕方で、延々と続いているのです。それは最終的にすべての人間が救われる日まで続きます。この壮大なマラソンにクリスチャンは参加しているのです。従いまして、キリスト教会が毎週行っている礼拝は、孤立した個人の行為ではありません。それは「キリストの体」である教会の行為なのです。キリストの体とは地上にいるクリスチャンと天上にいる聖徒たちとを含んでいます。
 さらに、天に召された者たちと地上で自分の人生の馳せ場を走っているわたしたちとは主イエスを通して密接に関係しています。わたしたちは自分のことを考えてみますと、わたしたちと深い関係のあった方々が既に天に召されていましても、その人たちは今でも生きておられ、最近はその方の顔を見ていないだけのように感じられます。
 その人たちの働きや、自分が受けた教えや援助を思い出すと、今でも多くのことを教えられる極めて身近な存在となっています。確かに離別は厳然とした事実で、どうしようもないことですが、離別を越えて与えられている故人との繋がりは、わたしたちが今日生きて行く上で非常に大きな助けとなっていることもまた確かな事実です。
 折に触れて、その人たちのころを熟慮すると自分はまだまだ努力が足りないように思い、励まされます。また、そのように多くの恩恵を受けた方々に自分は応えることが少なかったことを反省させられます。ともかく、このような方々との関係はわたしたちにとって、感謝以外の何物でもありません。
   
(2)わたしたちの本国
 次に、使徒パウロはフィリピの信徒への手紙の3章20節で次のように言っています。
 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのをわたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことのできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自身の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(3:20~21)
 ここで、使徒パウロは非常に強い確信を持って、「わたしたちの本国は天にあります。」と言っています。本国(ポリテゥーマ)とはわたしたちの市民権(ポリテース)のある国です。ピリピの町はローマから遠く離れたローマの植民地でしたが、そこにはローマの市民権を持った人たちが大勢いて、ローマ市民であることを誇りにしていました。なぜならば彼らはギリシャ地方に住んでいましたが、法律面でローマ市民として優遇され、その特権を享受していました。
 ちょうど同じように、わたしたちクリスチャンも天国から遠く離れた所で生活していますが、それでもわたしたちの本国は天にあります。なぜなら、わたしたちは人類の救い主である主イエス・キリストを信じることによって、天国の市民権を与えられているからです。
 それでは、天にある神の国の市民権が与えられているということは何を意味しているでしょうか。
 一つは、わたしたちは主イエスを信じることにより、神がわたしたちの恵み深い父となってくださり、わたしたちは罪を赦され、神の子とされているという霊的現実です。
 一つは、神の恵み深い支配は、人間の地上での生活と天上での生活の両方に及んでいることを知ることです。そしてこの地上の生活において、神の御心に従い、隣人と共に生きるために、努力することが人生の唯一の目標であることを知っているということです。
 一つは、主イエスを信じることによって、わたしたちの心に臨在される聖霊を通して、主イエスの霊的な生命を受け、御言葉に聞くことにより、それを実践することができるということです。従って、この体験が天にある神の国と連なっていることなのです。
 一つは、この生き方が、救いを完成させるために再臨される主イエスを待つ者たちの姿なのです。
 従いまして、聖霊を通して主イエスに結ばれて生きているクリスチャンが、地上と天国との両方に通用する生き方をするために、主イエスは次にように教えられました。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)
 それゆえ、この言葉をしっかりと心に受け止めながら生活して行くことがクリスチャンには不可欠です。
 言い換えれば、神の御言葉に聞き、従い、実行することが人生の最大目的であることを知っている人は、死に際して動揺したり、絶望したりすることはありません。なぜならば、たとえこの生き方を今わたしたちは自分の罪の束縛により、甚だ不完全にしか果たしていないとしても、それは天国での生き方と同じ基本路線に立っているからです。
 他方、この基本路線に立っていない生き方は天国には通用しません。その点に関しても、パウロはフィリピの信徒への手紙の同じ個所で、次にように警告しています。 
 「何度も言ってきたし、今も涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らは腹を神とし、恥ずべきことを誇りとし、この世のことしか考えていません」(3:18~19)。
 ここで、「腹」を神とするとは、利益を得ることを最大目的としていることです。いわゆる「拝金主義」であり、聖書はこれを「偶像崇拝」と呼んでいます。また、恥ずべきことを誇りとして、この世のことしか考えない生き方とは、つまり「自分の功績」を主張し、「人々からの名誉」を受けることを人生の価値や喜びとしている生き方です。

(3)人生の究極目標
 それゆえ、天地万物の主権者である神が神以外に何物も存在しなかった全く無の世界からこの世界と人間を創造された神の究極目標が、主イエス・キリストを通して啓示されました。
 本日の聖書の箇所でありますエフェソの信徒への手紙の1章は次のように語っています。
 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになりました。」(エフェソ1:4~5)
 実に真理であり、義であり、愛であり、善である全知全能の神がこの世界と人間を創造されたとき、既に永遠の目的を設定し、その目的を実現するためこの世界と人類を創造し、さらにこの世界と人類の救いの業を前進させておられるのです。
 しかもこの広大で遠大な神の計画と神の業とが「主イエス・キリストを通して」示されているのです。この視点から見るとき、神がこの世界と天国でなされるすべてのことが分かります。
 それは何か。実にそれは神の御子イエス・キリストによって、全人類が一人の例外もなく、御子イエスに似る者として、過ぎ去らない、永遠の天国で、神の御前で共に生きるということです。
 神が神であるということ、神の威光が限りなく現れることは、神が究極目的を設定し、その目的が実現することです。神がその目的を御子イエスによって、御子イエスの中で、実現されることです。
 それはすべて、神の「自由なる」決断と実行によるのであり、神はそのことを「喜ばれる」のです。そういう意味で、神はすべての人間を主イエス・キリストの中に存在する者として選ばれました。
 聖書において、神の選びという考えは非常に重要です。その選びはアブラハムから始まりました。しかし、聖書は神に選ばれたのはアブラハムの子孫であるイスラエルと言うのではなく、アブラハムの一人の子孫に集中している。つまりそれはイエス・キリストであると言っています(ガラテヤの信徒への手紙3:16)。それゆえ、キリストにおいて全人類が選ばれているのです。
 「キリストにおいてお選びになりました」とは正に全人類がキリストの中に存在する者として、神が創造され、救われるという意味です。
 なぜなら、10節で聖書は次のように言っています。

 「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。」(1:10)
 「あらゆるもの」とは全人類です。一人の例外もなく、すべての人間が救われるという意味です。
 キリストを頭として、中心にしてすべての者が結びつき、そこに大いなる調和が実現するのです。無数の人間の個性の違いという多様性の中で、一人一人がそれぞれの仕方で、キリストの性質を映し出すことによって、そこに豊かな調和が出現するのです。
 それではすべての人間が救われる「根拠」はどこにあるのでしょうか。それはキリストの十字架の贖いです。聖書は永遠の選びを実現する手段として、その根拠として、7節で次のように言っています。
 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」(1:7)
自分を創造して下さった神の愛を認識せず、神に背き、神から離れてしまった罪深い人間を、神は御子イエスの十字架の死によって罪を赦し、神の子としてくださったのです。
 そのように神の御子がご自身を人間に与え、罪人の贖いとなってくださいました。実にこの御子イエスの連帯性と自己譲与に与らない者はだれ一人としていないのです。ここにすべてのものが選ばれ、すべてのものが救われる根拠があります。しかもこれが唯一の根拠です。
 しかし、問題はこの根拠を信仰によって理解し、信仰によって主イエスの義と命に生きる者は、この地上の生活の中で、すでに天国の生活の実を結びつつあると言えます。それに対して、十字架の贖いをまだ信じない者は、この地上の生活の中で、天国の実を結ぶことはできません。
 それにしても、例外なくすべての人がキリストにあって選ばれ、キリストの贖いの中に入れられていることは、何ものにも勝る確かな事実です。従ってこの事実が目に見える形で現れる日がキリストの再臨です。
 正に復活の日こそ、万人救済が実現する日であります。同時にその日こそ、クリスチャンの救いも完成するのです。
 さらに、復活は救いの完結であるゆえに、それ以上のことは最早存在しません。天国では地上の生活のように、すべての事柄が前進し、発展し、変化するということは最早ありません。天国はすべての事柄が完成した世界です。すべての人間は救いの完成の中で常に新しく神との交わりが与えられ、神を賛美する永遠の世界へと変貌するのです。
 このような永遠の世界で、クリスチャンは自分たちの救いが完成する日をひたすら慕い求め、待望しています。しかし、クリスチャンの救いが完成する日はまさに万人の救いの実現と一つに結ばれています。クリスチャンはこの希望を持って、地上の人生を生き、この希望をもって地上の人生を終えるとき、この日が必ず到来することをすべての人に証しているのです。
 それゆえ一人一人の人生の歩みは、神の御前にすべての面で見られており、覚えられています。その人生が何であったかを決定し、判決される方は神です。人間の自己評価によるのではありません。
 しかし、神はその判決を主イエスの贖いを通して行われます。そこにはクリスチャンとクリスチャンでない者との差別はありません。人が善意と謙虚さをもって忠実に自己の務めを果たし、隣人と共に生きたならば、それはキリストに連なった業として神は認め、永遠の国においても存続するでありましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)。
 他方、クリスチャンであっても、すべてがキリストの性質に似せられる復活の日には、自己の功績を誇り、自己の利益を最優先させる生き方や性質は、神の国ではすでに過ぎ去って無くなっているのです。 
 わたしたちはこのことを自覚し、復活の日の恵みの厳粛さに襟を正すものでなければなりません。

(4)信仰者の人生の推進力
 最後に、使徒パウロはわたしたちが目標に向かって走るように命じています。
 「キリストを知ることと、キリストの復活の力を体験し、自分が死者からの復活に達することである。」(フィリピ3:10~11)
 彼に言わせれば、キリストの命を受け、キリストに従い、神の御心を完全に行うことが、人生の目標に達したことなのです。ゴールとは天にある聖徒の国です。わたしたちは聖徒の国を目指して一目散に走っている者たちです。そのことがクリスチャンを生かす力です。



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