2014-10-05(Sun)

モーセの召命 2014年10月5日の礼拝メッセージ

モーセの召命
中山弘隆牧師

 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名。
出エジプト記3章11~15節


 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
ヘブライ人への手紙11章23~29節


(1)人格的な神
 本日の聖書の箇所には、旧約聖書で最大の預言者と見なされているモーセの召命について記されていますが、ここでは聖書の信仰の特徴が明瞭に現れています。
 ある日モーセは羊を飼いながら、ホレブの山深くに入って来たのですが、その辺り一面が岩場で、たまたまそこに生えていた柴の木が太陽の強い光を受けて燃え上がっているのを見つけました。ホレブの山ではそういう光景に時々出会うことがあります。大抵の人なら「この辺りは随分乾燥していて、熱いのだな」と思いながらも、通り過ぎて行くことでしょう。
 しかしそれとは違った反応を示す人がいます。普段よく目にする現象でも、驚きと好奇心をもって注目します。往々にしてそのような人は大発見をすることになります。モーセの場合も同様でした。彼は柴の木が燃えているのに、なかなか燃え尽きないことを不思議に感じたのです。何か深い理由があるに違いないと思い、それを見極めようとして道から逸れて燃えている柴に近づきました。
 するとそれは些細な火事ではなく、特別の奇跡であることが判明しました。なぜなら神がご自身を現わされたからです。主は炎の中からモーセに呼びかけられました。
 「主は道をそれて見に来るのをご覧になった。神は柴の中から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。」(3:4)
 人は自分の名前を呼ばれることにより、自分と出会っている人を人格として自覚します。人と知り合うには、先ず名前を覚えて、名前を呼んで話しかけるならば、二人は互いに友として出会うことができます。
 実に神が炎の中からモーセの名を呼ばれたことによって、モーセはここに神が臨在され、自分に向かって話しかけておられることを意識しました。
 モーセはこの呼びかけに応答して、「はい」と答えました。そのとき神との対話が始まったのです。
 神はこの対話の中で、ご自身を「わたし」と呼び、モーセを「あなた」と呼んでおられます。明らかに「わたし」と「あなた」という関係がここに成立しています。
 この関係の中で、人は初めて自分が人格的な自由と責任を持っていることに気付くようになります。子供が自我に目覚めるのは、大人や周囲の人々との様々な関係を保つことを通して可能となります。
 しかし、人間同士の関係では、自分の都合の悪いことは隠して、自分の都合のよいことだけを語るという不誠実な態度を取ったり、また故意に偽ったりしますので、十分な人格的自覚が育たなくなります。
 利害の観点から、対人関係を見る者は、「我と汝」の関係でなく、「我とそれ」との関係であります。哲学者マルチン・ブーバーは「我と汝」との関係は、「我とそれ」との関係と質的に異なるものであり、「汝」は「それ」を超えた独自の人格であると言っています。
 しかし、人間を超えた真に人格的な存在である神から、人間は「我と汝」という関係を与えられる時に、そこに初めて「我と汝」との人格的意識が生まれるのです。
 このようにわたしたち人間に対して、わたしたちを超えた絶対的な他者でありながら、しかも「我と汝」の関係のなかで語りかける方が生ける神であり、唯一の本当の神様です。

(2)アブラハムの神
 次に、5節ではこのように記されています。
 「神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』
 ここで足から履物を脱ぐということは、頭から帽子を取るのと同じように、相手に対する尊敬を表す態度なのです。乾燥し灼熱の太陽に照りつけられた砂漠では、帽子をとることは極めて危険なので、履物を脱ぐ習慣があります。今日でもイスラム教のモスクの礼拝堂に、人は履物を脱ぎ、素足で入ることになっています。
 要するに、ここで神は「聖なる方」であることが示されました。言い換えれば、神は人間を超えた存在であることを示されたのです。その最も基本的な要素は、神の力です。当時の世界を制覇し、イスラエルの民を奴隷として酷使していたエジプトの王の力を遥かに超えた力を持つ方、そしてエジプトの王が体現している神々の力をはるかに越えた力を持つ方であることを示されたのです。
 端的に言えば、聖なる神とは、全能者であり、万物の主権者であり、人間の歴史の支配者であるということです。このことはモーセと出会われた神に、モーセが「あなたの名」を教えて下さいと願ったときに啓示されました。
 ところで、神の名とは神の本質と力と臨在とを示すものでありますので、神の名は最も神聖な現実です。人間はその前に立つ時、自分の罪を意識し、罪深い自分は死ぬという恐れを感じるのです。
 それゆえ神の名である「ヤーウェ」とはヘブライ語では四つの子音と四つの母音から構成されていますが、神様がモーセに啓示された「神の名」は余りにも恐れ多いので、子音だけの「聖なる四文字」で今日まで伝承されています。それゆえ正しい読み方は分からないのです。従いまして、旧約聖書ではその聖なる四文字を、「主」(アドナイ)という別の言葉で「読み替える」ようにしています。
 しかし、聖書ではその聖なる四文字の解釈がされています。14節で神様がその解釈を与えられたことになっています。
 「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ。』と言われた。」(3:14)
 それゆえ、「ヤーウェ」とは自ら存在する者であり、絶対的な存在者という意味です。従って万物を無から存在へと呼び出す者すなわち、万物の創造者であります。
 このような人智を遥かに超えた知恵と力を持っておられる神様でありますが、神様の本質は愛でありますので、人間を御心にかけ、配慮し、恵みの対象として、人間の「主」となられたのです。それゆえ、神様は人間と人間の歴史の恵み深い支配者なのです。
 このように主権者である神が、ご自身をまた次のように言い表されました。6節でこのように仰せになっています。
 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブに神である。」(3:6)
 今モーセにヤーウェとしてご自身を啓示された神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると仰せになりました。ヤーウェはモーセに対して、わたしはこれまでアブラハム、イサク、ヤコブを選び、愛の対象とし、救いの約束を与え、彼らが神に従う「神の民」となるように導いて来たのだと仰せられたのです。
 さらにヤーウェは同じ目的を追求し、実現させるため、イスラエルを救い教え導く「神の主権」を働かせるとモーセに語られました。
 要するに、神はアブラハム、イサク、ヤコブの生涯において、神の目的を実現するために働いて来られたのと同じ目的を追求し、今やモーセを通して、新しい段階が開始されると仰せられたのです。

(3)神の救いと民の形成
 次にヤーウェはモーセに御言葉を語られました。7~10節でこのように仰せられました。
 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す。----今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ。」(3:7~10)
 ここで、神はエジプトにいるイスラエルの過酷な労働条件、彼らの痛み、呻きを知っておられ、彼らを救出し、彼らをご自身に仕える民とすることを決意し、実行しようとしておられるのです。そのため神はモーセにご自身を現わし、彼を救いの事業の指導者として立てられました。
 しかし、最初モーセは信じませんでした。彼は言いました。
 「わたしは何者でしょう。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
 これは自分がそのような神様の事業をするに相応しい者では決してありませんという信仰による謙遜ではなく、むしろ不信仰と挫折によるのです。なぜならモーセは何十年も前に、同胞であるイスラエルの人々を救おうとしたのですが、彼の真意を同胞は少しも理解しなかったので見事に失敗したという苦い経験があるからです。
 それに対して、神はイスラエル救出の事業は、モーセの事業ではなく全く神の事業であるゆえ、事業を遂行するためにモーセは徹底的に神中心的でなければならないと教えられたのです。
 そこで、神はモーセに向かって次のように仰せられました。
 「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたがたはこの山で神に仕える。」(3:12)
 神がモーセと共におられるということが、神がモーセを遣わされることの印です。しかし神が彼と共におられることは、モーセに語られた神の約束ですから、一目で分かる事実では決してありません。
 そうではなく、モーセが出エジプトという歴史的事業は神の事業なのだと、どのような困難な事態が起こっても信じ通すこと、自分は神の道具に過ぎないことを心に銘記しながら、忠実にその務めを果たそうと努力する限り、神が共にいてくださるという意味です。
 モーセはこのことがようやく理解できましたので、神の命令に従って、大胆に勇気を持って、正義感に燃えて、エジプトへ行き、エジプトの王ファラオと対決することになりました。
 それはモーセとファラオとの対決ではなく、この世の支配者ファラオと人類の歴史の主権者であるヤーウェの対決であり、そのクライマックスは14章に記されている「葦の海」での奇跡でした。
 夜間エジプトを脱出したイスラエルの民は、ファラオの軍隊に追跡されましたが、葦の海に来たとき、神は強い東風を吹かせて、海水を沖に押しやり、そこをイスラエルの民が徒歩で渡りました。他方、エジプトの軍隊も同じように干上がった海の中まで追跡しましたが、重装備のエジプト軍は泥に戦車の車輪がはさまれ、立往生をしてしまい、引き返そうとしました。しかし時すでに遅く、海水が逆流してきてファラオの軍隊は全滅したのです。
 そのようにヤーウェは、全能なる主権者の力を発揮し、イスラエルをエジプトの奴隷から解放し、神に仕える神の民とされました。

(4)シナイ山における神の顕現と律法の授与
 次に神の強力な御手によって、エジプトの王ファラオの奴隷から解放されたイスラエルの民はシナイ半島の荒れ野の中を通過して、多くの困難を経て、シナイ山に到着しました。
 そこはモーセが召命を受けた場所です。3章12節で「あなたが民をエジプトから導き出した時、あなたたちはこの山で神に仕える。」と仰せになった山です。
 シナイ山に神が天から降り、山頂に臨在された。山頂は火山の噴火のような火と雷鳴が轟き、黒雲に覆われましたが、神はモーセに山に登ってくるように命じられたので、モーセはシナイの山頂に登り、そこで神の言葉を聞きました。
 それが十戒を中心にした神の命令である様々な信仰的、道徳的、社会的な規則です。これらは20章以下に記されています。また礼拝の場所である幕屋と祭司の務めなど、神の民の共同体を形成するための様々な規則が与えられました。
 ところで、モーセが旧約聖書における最大の預言者であると言われている理由は、モーセは神の御前に立って、神が彼の心に直接御言葉を語られ、彼がその御言葉を理解したことです。
 出エジプト記の33章11節に次のように記されています。
 「主は人がその友に語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と述べています。これは幻や印によってではなく、心に直接神の言葉を語られたということです。また十戒が与えられた時もモーセは四十日間シナイ山の山頂にいたと記されています(34:28)。
 しかし、このようにしてモーセを通して神様から与えられ律法は旧約聖書の律法全体ではなく、あくまでもその核心部分です。

(5)応答としての信仰生活
 最後に神がイスラエルに与えられた契約はイスラエルを神の民とするという内容であり、同時に契約の中で律法が与えられました。律法は神の恵みに応答する民のあり方を命じています。
 しかし、決して律法主義的な戒律ではなく、あくまでも神が与えられた救いと神との人格関係の中で、民が恵みに応答することを欲する神の命令です。
 そういう意味で、神の命令は根本的には「あなたはその命令を実行するであろう」という神の約束なのです。
 尚、旧約聖書における出エジプトの救いと契約とがその目的としていたこと、すなわち神に仕える民の形成は最終的に新約聖書において実現しました。その手段は圧制的な国家権力からの救出ではなく、人間の良心を束縛している罪の力からの解放であります。



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