2014-09-21(Sun)

起き上がりなさい 2014年9月21日の礼拝メッセージ

起き上がりなさい
中山弘隆牧師

 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。
ゼカリア書9章9~10節


 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
ヨハネによる福音書5章6~18節


(1)心の病める人
 本日わたしたちが読んでいます聖書の箇所に、38年間も病気で苦しんでいた人のことが書いてあります。
 彼はどんな病気であったということは何も述べられていませんが、ベトザタの池の周りの廊下に横たわっていた多くの病気の人、目の見えない人、足の不中な人、体の麻痺した人々の中の一人でした。
 その池はベトザタと呼ばれていますが、それは「オリーブの家」という名称です。その池は間欠泉で新しい水が湧き出るとき、その池に入るならば病気が癒されると信じられていました。池の周りに五つの回廊が造られていて、多くの病人がその回廊に集まっていたのです。あたかも一つの療養施設と言えるような場所でした。
 この人は38年間も病気を患っていたのですから、人生の大半が病気でありました。彼の悩みはいかに大きかったことでしょうか。 
 なお、ここで考えさせられるのは、この人の悲惨な状態は、病気そのものから由来しているというよりも、むしろ孤独の中にいたということではないでしょうか。そのため彼は治りたいという積極的な意志をもはや持っていませんでした。
 主イエスが彼を見つけ、彼の所に来られて、「良くなりたいか」と声をかけてくださったとき、彼の答えは弱い言い訳でしかありません。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」と言っています。
 病人たちの間でも、自分が他の人よりも早く治りたいという思いがあり、互いに競争する状態に陥ることがあります。この池は間欠泉で池の底からときどき温水が湧き出ますので、そのとき真っ先に入った人だけが癒されると考えられていたようです。彼は最初の間、自分の番も回ってくるものと期待しながら、回廊に横たわっていましたが、いつまで待っても彼の番は回って来ないので、遂に諦めてしまいました。
 このように孤独である人は、自分に与えられた命を大切にして生きようという積極的な気持ちを失ってしまいます。今日の教育の考慮すべき問題は、少年や青年が孤独の中にあるということです。虐めが原因であったり、またコミュニケーションがうまくできなかったり、その場に適用できない様々な理由のために、孤独な毎日を送ることになります。ベトザタの池には多くの人々が集まっていましたが、一人一人は孤独であったというのが現代の縮図ではないでしょうか。

(2)主イエスと出会う
 しかし、主イエスは孤独に陥っている人と出会ってくださるのです。孤独から抜け出す方法が自分では見つけられないで悩んでいる人のもとに、主イエスは神の側から来てくださいます。
 深い闇の中でさまよい、世間から忘れられてしまった人をイエスは尋ね求め、探し出して下さいます。この神の事実はなんという有難いことでしょうか。正に人智をはるかに超えた神の愛の行為です。
 「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいのか』と言われた。」(5:6)
 聖書はこのように伝えています。主イエスは彼がもう長い間病気であるのを知られたのです。これはイエスが彼の苦しみを知ってくださったことです。この人にとって孤独の一番の悩みは、自分を本当に知ってくれる人がこれまで誰もいなかったということでないでしょうか。
 しかし、今や彼は自分を本当に知ってくださる方が与えられたのです。この方は自分の苦しみのすべてを知っておられると感じることができました。それだけでなく、さらにこの方は、自分が体験している苦しみを自分よりも深く知っておられるような気がしました。 
 この方は自分の心の暗闇の根本原因が利己主義、高慢、神に対する不信仰であることを知りつつ、自分を非難せず、その根本原因を自分に代わって担っていてくださることによって、心に光を与えてくださる方であると思いました。そのようにして、この方は御自身の中にある純潔さ、正しさ、神聖さ、溢れ出る命と霊的力をもって、罪深い自分と今向き合っていてくださると感じたのです。
 そのとき、主イエスは彼に、「あなたは治りたいのか」と尋ねられました。彼は思いました。自分は既にその意思を失っている。それは自分の心が病んでいるからだ。だが自分と親密な関係を与えてくださっているこの方の心は健全である。そこに脈打っている鼓動が自分の心にも伝わってくるようだと感じました。
 そこで彼は、「はい治りたいです。」と心の中で密かに答えたのです。そのとき、主イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(5:8)と仰せられました。
 彼はこの言葉を聞いた瞬間、それが自分の耳から、心の中に、そして自分の体の中に、さらに自分の生活全体に浸透して行くように思え、その言葉の威力を感じました。そこで彼は自分には弱さ以外に何もない者である。自分を生かすのはただこのイエスの言葉であるという今までにない深い感動を覚え、彼は主イエスの言葉を信じ、自分の存在すべてを主イエスに委ねたのです。
 すると、実に不思議なことに彼は自分の足で立ち上がりました。御言葉の結果は実にはっきりとした形で現れました。聖書はここで、「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」と言っています。
 しかし聖書はどうして、どのように良くなったかについて何も説明していません。それはできないのです。なぜなら、御言葉の力は神の力であり、人間の目には見えず、人間の理解を遥かに越えている神秘であるからです。それでも、イエスが御言葉を語られたという事実と病人が癒されたという事実は明瞭であり、この二つは密接につながっていることを誰も否定できません。
 これが主イエスの為された癒しの実体です。このことをわたしたちもしばしば経験します。但し、わたしたちの場合には、はっきりとした結果が出るまでに、時間がかかります。主イエスに出会い、御言葉を聞き、それを信じ、それに従い、立ち上がり、自分の新しい生活が確実になるまでには、相当の期間が必要です。

(3)命を与える神の救い
 次にヨハネによる福音書では「癒し」を神様が与えてくださる「救いの徴」であると見ています。なぜなら神様が一番重要と考え与えようと欲しておられることは「人間の救い」であるからです。救いは癒しよりも大切で、生活全体、人生全体、人間の存在そのものを救うことです。それはすべてのことを知っておられる全能の神が人間をご自身との人格的な交わりに招き入れてくださることです。
 そこで人は神を知り、永遠の命が与えられ、神に従うことによって、自分の生きる本当の意味を見いだすのです。そして一回限りの人生が永遠の意味を持つようになるのです。そのとき人は全存在を挙げて神の恵みを賛美する者となります。
 しかし、主イエスの癒しにユダヤ教の律法主義者たちは真っ向から反対しました。それはイエスが安息日に癒しを行なう理由として、神を「ご自身の父」と呼び、次のように仰せになったからです。
 「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(5:17)
 この発言は実に重大な意味を持っており、イエスは癒しの行為においてご自身を神として語っておられます。これに対してユダヤ人はイエスが神を冒涜していると猛烈に非難しました。
 「このため、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神をご自身の父と呼んで、ご自身を神と等しい者とされたからである。」(5:18)
 ここでヨハネによる福音書は地上の生涯におけるイエスの言動を、イエスが復活し、神の右に座し、天地の支配者になられた「主イエス」の威光に照らされて、地上のイエスの立場を見直しています。従いまして、主イエスのこの発言は父・子・聖霊の「三位一体」の唯一の神と神の御子が人間となられた主イエスとの関係を表しています。しかしイエスが地上の生涯を送られた間は、ヨハネによる福音書に記されているようにご自分が神であることをはっきりと語られなかったことも事実なのです。
 他方、イエスは言葉ではなく、癒しの行為をもってご自分が神であることを示されたのです。そのことにユダヤ教徒は躓きました。
 要するに、地上におられたイエスは行動においてご自分が神であることをはっきりと啓示されました。それは次の三点で御自分が「神としての立場」から行動されたことによるのです。
 従いましてその三点とは、実に神だけが与える権限を持っておられる「罪の赦し」をイエスはご自身の言葉で、罪人に、単純明快に、そして力強く語られたことが第一点です。
 この点に関してファリサイ派の人々がイエスに反対しましたので、神様がなぜ罪人を愛し、罪の赦しを与えられるかについて、反対する者たちを教えるために多くの譬え話を作られました。
 例えば、羊飼いは百匹いる自分の羊の中で、迷い出た一匹の羊を探し求め、「見つけたら喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』というであろう。--このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改めの必要でない九十九人の正しい人よりも大きい喜びが天にある。」(ルカ15:4~7)と教えられました。これは福音に反対する者たちが福音を信じるように福音を弁明された譬え話です。 
 その他多くの譬え話は、罪の赦しの宣言ではなく、罪の赦しの福音に反対する者を教えるための手段でした。
 第二点は罪人をご自身との食卓の交わりに招き入れられたことです。それゆえ徴税人であったマタイがイエスの弟子となったとき、彼が感謝会を開きましたので、多くの徴税人が招かれ、イエスとの親しい、感謝と喜びに溢れた交わりが与えられたのです。
 この点に関してもファリサイ派の人々は猛反対しました。そこでイエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)と譬えを用いて教え、彼らを悔い改めに導こうとされたのです。次の譬え話もその一つです。
 「ある金貸から、二人の人が金を借りていた。一人が五百デナリオン、もう一人が五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸は両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸を愛するだろうか。」(ルカ7:41~42)と教えられました。
 多くの罪を赦された罪人は自己の義を主張するファリサイ派の人よりも神に対する大きな感謝を持っており、彼らは神の赦しと愛の深い意味を知っている。それに対して、ファリサイ派の人たちは神の御心と性質が全く分かっていないと教え、さとし、悔い改めを勧めておられます。
 第三点は罪人に「わたしに従って来なさい」と命じて、主イエスに従うことを直接要求されたことです。
 以上の三点は父なる神がいかなる方であるかを自己の行為をもって現わし、御子イエスは自ら神の立場に立って行動しでおられます。
 「無償の恵み」として人間に与えられる「神の救い」は義人に対してではなく正に罪人に提供されていることをイエスはご自身の言動を通して現わし、その救いを与えられたのです。
 そのように、父なる神の意志は罪人に救いを与えることであり、そのことを「わたしの父」は一番喜んでおられるとイエスは身をもって宣言されました。そして父なる神の罪人に対する憐れみは正に「無限に大きい」こと、父なる神の愛は罪人を愛する「贖罪愛」であることを、罪の赦しの宣言、食卓におけるご自身との交わり、弟子の召命という三つの行動によって与えられたのです。

 他方、この三点以外で、主イエスの言動と交わりはわたしたちと同じ「人間としての立場」でなされています。
 但しそこでもイエスは「神の性質を持っている人間」として、行動し、発言しておられます。人間としてわたしたちと接し、実に親しい交わりを与え、ご自身の生き方のすべてをわたしたちに示し、感化を与え、ご自身の命を与えられる方として行動されました。つまり、主イエスはわたしたちにとって、「どの人間よりも身近な存在」であり、わたしたちを受け入れ、何よりも罪人を愛する神の愛による赦しを与え、ご自身の尊い、清い、善良な、すべての面をわたしたちに示されるのです。それは実に人間の低さにまで降られた「神の御子」としての「人間」です。
 この御子イエスの地上での歩みの頂点として、人類の罪を贖う十字架の死を全うし、父なる神は御子イエスが達成された贖いを完成させるために、御子イエスを復活させられました。それゆえ今や、人間としてのイエスの歴史的行為は、永遠に働く生ける事実となりました。それゆえ主イエスは昨日も今日も明日も永遠に変わらない救い主なのです。正にこの方が永遠に生きて働いき、わたしたちと出会い、導かれる救い主なのです。



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