2014-09-07(Sun)

キリストを誇る 2014年9月7日の礼拝メッセージ

キリストを誇る
江田めぐみ伝道師

 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ、飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた。主の慈しみに生きる者の足を主は守り、主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き、天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし、王に力を与え、油注がれた者の角を高く上げられる。」
サムエル記上2章1~10節


 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
コリント信徒への手紙一1章26~31節


 人間の値打ちというのはどこにあるのでしょうか。社会的地位が高いこと、高い学歴があること、お金があること、頭がよいということ等、こういう事が人間の価値を決めているのでしょうか。この世の中の人々は、その様なものを願い、希望しそういう物を身につけることが、幸せであるという思いがあるのではないでしょうか。
 親は子供の幸福を願って、子供が少しでもそういう状況に近づけるように、教育環境を整えたり、ある時は強制までして仕込んでいることがあるのではないでしょうか。
 世の中の人は、ほとんどの人が、社会に出る時には大きな希望を持ち、地位を得ようとか、お金をたくさん得ようと願いながら学校を巣立ってきたのではないでしょうか。
 地位やお金や名誉を得た人たちだけが価値ある人間だというならば、わたしたち大部分の人たちは、むなしい日々を生きていることになります。

 コリントの町は、人口70万人の中、50万人も奴隷がいました。そういう中から教会に集まってくるのですから、貧しい人や奴隷なども沢山いたのではないかと思います。
 「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません」(1コリ1:26)、ということは、人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいないと言うことです。
 パウロはコリント教会の教会員のことについて述べています。「人間的には」と言う言葉は、「人間の基準に従えば」と言うことです。それはまた、この世の評価に従えばと言うことにもなります。この世の人に対する評価の基準は、お金や地位や名誉です。
 そういうこの世の基準からすれば、コリント教会には、特別尊敬されるような人はいなかったということでしょう。コリントの人々は神の契約の民として神に召されたのです。パウロはコリントの人々にこの召しを思い起こさせるのです。
 
 初期のキリスト教の集会が、異なった階級や背景の人々を集め、お互いを「兄弟」(1コリ1:26節)と認めていたことは、共同体の特徴の一つであったのです。これらを見ますと、まさにこの社会経済的多様性がコリントの教会の問題の原因の一つであったのです。
 「兄弟たちよ。あなたがたが召されたときのことを思い起こしなさい」(1コリ1:26)とは、「召されたとき」と言うのは、神から選ばれた時と言うことです。あるいは、キリストに選ばれて、私たちが、キリスト者とされた時と言うことです。
 「神の召し」があったと言うことは、キリスト者がキリスト者としてあるのは、自分の意志や希望や自分の力ではないのです。聖霊の導きがなければ、だれも、「イエスを主と告白」することは出来ません。ですから、エペソ人への手紙2章8節では、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です」、と言っているのです。
 神の不思議、この思いもかけない人々の群れの選びは、終末論的な逆転の様式を象徴しているのです。
 私たちが神から選ばれてキリスト者となること、神さまに救われることは、賢さも、力も、身分も全く必要がないことなのです。
 神さまは、「知恵ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選び、力あるものに恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。また、神は地位のあるものを無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(1コリ27-28節)。それは、知者をはずかしめるために、この世の愚かなものを選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力なものを無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたと言うことなのです。
 パウロは、前節に述べたようにコリント教会が形成された意味を、神の選びに見出しているのです。コリントにおける福音宣教によって、人の基準に基づく差別が乗り越えるだけではありません。人の基準に基づく愚かなものと、知恵あるものとの関係や強いものと弱いものとの関係が、まさに逆転するのです。この逆転は、イエス・キリスト御自身の中に現されているもので、教会はその点でもキリストの十字架にあずかっているのです。
 コリント教会形成の要約をするかのように、無に等しい者が選ばれた目的を述べています。それはこの世にあって権威のある者を、自らの評価や人々の評価とは、反対にない者のようにするためです。
 この神の行動の説明は、ハンナの祈りで語られるこの祈りは、神の恵みあふれる祝福をたたえているし、もっとも重要なことに、コリントの信徒の手紙一1章18-31で、「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」すなわち、聖書に「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と記されています。このあとの御言葉で、パウロの議論全体を支配している、知恵ある者と無学な者、力ある者と無力な者の地位を強調しています。(サムエル記上2:1-10)又、マリアの讃歌(ルカ1・46-55)にも一致するのです。

 知者や強い者というのは、自分の力、自分の能力に自信を持っている人たちです。こういう人たちは、そういう自分自身を頼み、神さまなど認めようとしない人が多いのではないでしょうか。ですから、知者や強者の多くが神を信ずることができないのです。従って、賢い者が、自分の知恵を誇っている限りは、救われることはありません。力ある者が、自分の力を頼みとしている限り救われることはないのです。しかし、ここに「多かったわけではなく」と聖書が記しておりますが、こういう賢い者も力ある者もある、といっているのです。それは、そういう人たちでも、救われるのだということなのです。では、どうすれば救われるのでしょうか。それは、誰でも、自分の罪を知り、自分が神の前に全く愚かなものであり、無力であることを悟るならば、救われるということです。このようにして、神は全ての人間が神の前に誇る事がないようになさっているのです。
 私たちは、神によって造られたものであり、被造物です。神は人間を神の似姿として造られました。

 パウロはコリント教会の人々に「あなたがたが召された時のことを、思い起こしなさい」と求めています。

 人間は同じ被造物でありながら、神から特別に優遇されています。人間は他の動物と同じように、土のちりから造られました。「造られた者の中で、神のような存在」であるところに、人間が誘惑を受け、そこに人間が、へびに誘惑される隙が生れるのです。
 「あなたは神のような者だ」、だから、神の命令に従う必要はない。自ら神になればいい。こういう誘惑が、アダムを罪に落してしまったのです。
 土のちりで造られた人間の卑しさ、弱さにはへびはついて来ません。人間の尊さ、強さ優れたところにつけ込んでやってくるのです。私たちの誘惑もそうです。全くできないところでは誘惑されないのです。「あなたはできますね」と言われますと、少し自信を持っていると、「それではやってみょうか」という気になるのです。これは、人間が向上してゆくためには大切なことですが、そこに傲慢という落とし穴があるのです。他の動物と違って、人間は自由意志を持ち、自分が知り、考え、支配し、創作する自由な主体であるところに誘惑がやってきます。ですから、神の前に低くされ、謙遜にならないといけないのです。

 神なしの人間状態では、人間が神に近づこう、又神を超えようとする自惚れと傲慢があるのではないでしょうか。こういう状態は、罪と言うのです。人間はどんなに優秀であっても、限りある生命です。この世から過ぎ去ってゆくものにすぎないのです。それに対して、神は永遠であり、全能です。処女マリアが身ごもって恐れおののいたとき,天使は「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)と答えております。ですから、天地万物の造り主であり、全能の主であられるお方の前に人間が立って、本当に自分の愚かさ無力さを悟り、その愚かさを、見いだすことができた時に、私たちは神の救いを受けることが出来るのです。

 「神によってあなたがたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(1コリ1:30)。
 誇りを徹底的に否定するパウロは、同時にコリント教会の人々が、キリスト・イエスにある自らの存在と、キリストが彼らにとって意味するところを明示するのです。それは、コリント教会の人々は、正しい教会論とキリスト論を持つことによって、誇りから解放されるのです。
 パウロがここで問題にしている「誇り」は単なる心理的なものではなく、神学的なものであるのです。
 コリント教会にとって最も大切なことは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリ5:17)、とキリスト・イエスのうちにある新しい存在としての立場であるのです。彼らは、イエス・キリストに対する信仰によって、キリストとの人格的な関係に生かされ、キリストと一体にされるのです。これが教会であり、「主イエス・キリストとの交わりに入れられた」者の立場です。それは、コリント教会の選びにはっきりと示されているように、神によっているのです。それは、イエス・キリストの受肉、十字架、復活を通して明らかにされてきた啓示の歴史性をパウロは強調しています。
 神の知恵を通して父なる神を知ることができるのです。
 「永遠の命とは、唯一の、まことも神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」、とヨハネ福音書17章3節で言われております。また、「知恵と知識との宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ2・3)、と記されております。

 パウロの主張は、神の知恵は十字架のキリストであると言うことです。
 また、パウロはキリストが私たちにとって知恵となり、そして義と聖と贖いとなったと言っております。さらにキリストは、いかにして神の知恵となられたかを、「義、聖、贖い」と言うキリストの御業全体を表す言葉で説明しています。これらの三つの言葉すべては、イエスの意義を、神との契約によって聖なる民となり、神がイスラエルを贖ったと言う物語と関連させるのです。神との契約関係(義)を離れた知恵など存在しないのです。それは聖なる生き方へと導き(聖別)、十字架によって、神がわたしたちを奴隷状態から救い出す行いを可能にする(贖い)です。
 また、聖とは、無償で義とされた者が、その立場にふさわしく生きることで、それは聖霊の働きによるキリストとの交わりの中で可能とされる神のめぐみの御業であるのです。贖いとは、キリストによって既に代価が支払われているゆえに約束されている最後の日における完全な解放のことであるのです。このように、パウロは、神の知恵であるキリストの御業を、教会の過去、現在、未来にわたる雄大な神の恵みの広がりとして描いています。
 私たちがキリストとの交わりに入ることが出来たのは、神の恵みによるのだと言っているのです。私たちが救われて、イエス・キリストとしっかり結びあわされた人性を生きることは素晴らしい恵みなのです。このキリストとの交わりに入ることによって、神を知ることが出来るのです。「知恵となった」ということは、どういう意味でしょうか。それは、キリストが、私たちに、完全な知恵を与えて下さった、ということです。では、完全な知恵とはどういう意味でしょうか。それは、神を知ることのできる知恵であるのです。それは、キリストによって知ることができるのです。
 キリストの中に啓示されている神を、私たちはキリストを通してだけ知ることができるのです。
 これは罪人であった私たちが、イエス・キリストの十字架の贖いによって義人とされ、聖なる者、神に属する者とされたということです。これが、神さまの人間に対する救いの御計画によることが分かりますと、この大きな恵みのみ業に対し、私たちは主の十字架を誇らないではいられないのです。
 私たちがキリストの贖いにより、神の民とされ、永遠の生命に生きる者とされたことは大変なことです。この世のものは、すべて過ぎ去ります。しかし、過ぎ去り、消えることのない永遠の生命に生きる者とされることが、人生の最大の喜びであり、誇りではないでしょうか。どんな素晴らしい名誉も、どんな巨額の富でも、この地上の死と共に終わるのです。あの世に持ってゆくことはできないのです。しかし、貧しく弱い者が永遠の生命を生きる者とされているところに、キリストを誇る、キリスト者の誇りがあるのです。



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