2014-07-27(Sun)

誘惑に勝利されたイエス 2014年7月27日の礼拝メッセージ

誘惑に勝利されたイエス
中山弘隆牧師

 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
出エジプト記16章1~8節


 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
ルカによる福音書4章1~13節


(1)誘惑する者とは
 わたしたちの人生には様々な試練と誘惑があります。初心を貫いて最後まで努力することは非常に難しいことです。その理由は人には誘惑が多いからです。目に見える誘惑には良く抵抗することができましても、目に見えない誘惑には非常に弱いからです。
 しかし、絶えず目を覚ましていて、誘惑に打ち勝つのでなければ人生の目的を達成することはできません。信仰生活においても同様であります。むしろ信仰生活は特にそうであると言えます。
 それでは誘惑に勝利するためにはどうしたらよいでしょうか。その唯一の方法は、誘惑に完全に勝利された主イエスのもとに隠れることであります。わたしたちは自分の力で誘惑に立ち向かおうとすれば、すぐ敗北してしまいます。もしわたしたちが主イエスのもとに身を寄せ、主イエスがその誘惑に立ち向かってくださるならば、わたしたちは誘惑から逃れられるのです。
 実に救い主としてのイエスの使命は、人間としてわたしたちと同じ弱さを持ち、わたしたちと同じ誘惑を経験し、しかもその誘惑に負けないで勝利してくださることでありました。しかし、このことを口で説明することは簡単ですが、現実の人生の歩みの中でそれを達成することは他のいかなることよりも難しいのです。まことにそれは至難の業であります。
 その最大の理由は、人を誘惑する者がなかなかその正体を現さないからです。人間を誘惑する者は人間や環境ではなく、その背後に潜んでいる神に反抗する霊です。しかもそれは人間の罪と離れて別個に存在しているのではなく、人間の罪の原点なのです。

(2)救い主の使命
 次に神の御子イエスがこの世に来られた目的は、罪のために神から離れてさまよい、行き倒れの悲惨な状態の中にある人間を神のもとへ連れ戻すことでありました。人間を神のもとに立ち帰らせることでした。
 しかし、この使命を果たすために、イエスは神の御心に従ってどのような仕方で取り組むべきかを熟慮する必要がありました。イエスの取るべき行動の基本方針をじっくりと考える必要があったのです。そのためイエスは一人で荒れ野に行かれました。そこはだれも住んでいない全くの孤独の世界です。
 エルサレムと死海との間には、長さ57キロメートル、幅24キロメートルの荒れ野が広がっています。それは高原地帯で、黄色い砂地と石灰岩でできています。一面に小石が転がっており、ごつごつとした岩肌が至る所に露出しています。そこを歩くと、靴の音と馬の蹄の音が反響し、辺りにうつろに響きます。日中は強い日射しを受け、その辺り一帯が巨大な溶鉱炉のように灼熱します。そうした高原が死海まで続き、そこから一気に380メートルも下降する恐ろしい絶壁になっているのです。
 イエスはこの淋しい、恐ろしい世界の中で、ただ一人自分自身と対面し、神の使命を果たすために自分の進むべき道について熟慮されました。わたしたちも自分の人生の曲がり角に立った時、自分一人になってすべてのことよく考える必要があります。
 普段は仕事や雑用に追われて見失っている自分を見いだし、自分のすべての問題を神の御前に置くためには、一人にならなければならないのです。孤独に耐え、自分一人でよく考える機会を持たなければなりません。そのようにして自分の人生を直視することができるとき、自分に対する神の意志や計画を知らされるようになります。
 さて、イエスは荒れ野に自分一人で40日間もおられ、孤独に徹しておられたのです。そしてその間に、厳しい誘惑に会われました。

(3)イエスの受けられた試練
 本日の聖書の箇所では、次のように記されています。
 「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」(ルカ4:2)
 ここでは「空腹を覚えられた」となっていますが、それは「飢えられた」、すなわち餓死の危険に直面されたという意味です。
 また聖書では「誘惑する」という言葉は「ペイラゾー」と言いますが、この言葉は「テストをする」という意味もあります。人が神に用いられ、役に立つようになるため「鍛える」という意味もあります。金属が純粋になるため精錬されなければならないように、人も試されなければなりません。神がアブラハムを試されたのも、彼が神に対して忠実な者となるためでした。
 神の与えられる試みは、人を悪くするためではなく、良くするためです。弱くするためではなく、一層強く、清くするためです。試みとは人間に対する刑罰ではなく、それは神が御用のために用いようとする者に与えられる試練なのです。ここに人が神の目的に沿う者となるためには、試練を受けなければならないという崇高な真理があります。
 荒れ野において誘惑を受けられたイエスの体験は、このような意味での試練であったと見ることもできます。

 そこで、悪魔の誘惑は第一にパンの問題でした。今イエスは40日の断食によって痩せ衰え、飢えのただ中で苦しんでおられたのですから、パンを得ることは最も切実な問題でした。できることなら、石をパンに変えて食べたいとの思いがイエスの脳裏に浮かんできたことでしょう。その機会を逃さず悪魔はイエスの耳に囁きました。
 「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石をパンになるように命じたらどうだ。』」
 「お前が神の子である」というからには、この石がパンとなるように命じて見よ、と悪魔はイエスを誘惑したのです。なぜならば、イエスは神を「ご自分の父」として知り、父との人格的な交わりの中で今まで歩んでこられた方でありますので、ご自分が「神の子である」という明確な自覚を持っておられました。
 特に、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた時、天から父の御声が聞こえて来て、イエスに向かって「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)と父なる神が仰せになりましたので、イエスには御自分が神の御子であるとの自覚が不動の確信となっていました。
 そこで、悪魔はイエスが御子であるからには何でもできる筈である。それゆえこの石に命じて、パンに変えよと誘惑しました。しかし、そのように考えることは御子の性質に反します。なぜならば父に対してどこまでも従順であることが御子の本質であるからです。
 イエスは父なる神が全能であることを信じておられましたが、その全能とは父なる神が自ら欲せられるは何でもできるという信仰でありました。
 従ってイエスは父なる神が石をパンに変えるように欲しておられないことを十分知っておられたので、悪魔の要求を拒否されました。
 それゆえ、イエスは聖書に「『人はパンだけで生きる者ではない』と書いてある」と言って、悪魔の誘惑を退けられました。これは申命記8章3節の言葉すなわち「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」の引用です。
 要するにイエスが仰せになった言葉は、だれでも神の言葉を聞くとき「内的な生きる力」が与えられ、同時に神の摂理によって、人が自分で働き「糧を得る道」が必ず開かれるという意味なのです。 
 これが人はパンだけで生きるのではない、神の言葉によって生きるのだとイエスが仰せられた意味です。このように御子イエスは言葉と態度をもって、父の摂理の御手に対する信頼と父の御心に対する徹底的な従順を示されました。

 さらに悪魔はイエスに挑戦しました。
 「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』」(4:5~7)
 ここで、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国を見せたというのは、国々の権力や富を実際に目で見えるようにしたのではなく、イエスの心に映るようにしたのでしょう。それでも実にそれは偉大な感動的な光景であったに違いありません。
 外見的にはすべての人々がその国の権力者と富に服従しているように見えます。もし救い主がそのような絶大な権力を持つならば、すべての人々に神を信じさせ、神に従わせることが容易にできるように思えます。
 事実、ユダヤ人はそのような政治的権力と軍事力を持った救い主が出現することを待望していたのです。もしイエスがそのような権力を持った救い主になりたいと思うならば、悪魔はわたしを拝みなさい、そうすればあなたの望み通りにさせてあげようと、イエスを誘惑したのです。
 悪魔はこのとき、非常に強調した言い方で、「あなたはわたしを拝みなさい」と命令しました。このときイエスは悪魔の本質を見抜かれたのです。
 この世界は神によって創造されたのであり、この世界は神の主権のもとに置かれています。それゆえ、人間が神の意志に従い、正義と公平と憐みを実行することによって諸国家や社会を形成し、世界に平和をもたらすことが神の御心です。
 しかし人間は実際どうしているでありましょうか。互いに勢力を拡大し、覇権を争い、自分たちが世界を支配しようとしています。その行く先には世界の混乱と戦争と破滅が待ち構えています。
 このような人間社会の実体こそ、正に人間が悪魔に騙され、悪魔の働きに従っていること以外の何物でもありません。
 悪魔はこの世界の権力と繁栄があたかも自分のものであるかのように見せかけ、人間を騙しています。悪魔はそのような間違った世界観と価値観を人間に植え付ける霊的勢力であります。
 この悪魔の挑戦に対して、イエスは人間が礼拝すべき方は主権者である唯一の神であると仰せになって悪魔の誘惑を退けられました。
 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(4:8)と仰せになりました。これは出エジプト記20章1~6節までの要約です。

 最後に悪魔は聖書の言葉を引用してイエスを試みました。
 悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、もちろんこれもイエスの心の中でそのように思わせたのですが、神殿の屋根の端に立たせ、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と言い、詩編91篇11~12節の聖句を引用しました。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。」
 これはイエスが大いなる奇跡を行うならば、すべての人間がイエスを神から遣わされたメシアであると信じると悪魔は誘惑したのです。これは信仰の問題であり、イエスにとって重大な意味を持っています。
 イエスも神の国の宣教をしておられた時、常にこの誘惑の危険に晒されました。イエスがメシアであることを証明する天からの「しるし」をユダヤ人は求めました。それに対してイエスは心の深い嘆きを感じて、次のように仰せになりました。
 「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(マルコ8:12)
 なぜならば人がイエスを信じるということは、イエスの言葉、行動を通して父なる神が人間のもとに臨在し働き、イエスによってご自身を啓示しておられることを信じることであるからです。
 それゆえイエスは父なる神と自分との間に親密な交わりを持ち、父は子を知り、子は父を知るという相互認識の中で語り、行動しておられたのです。従って人が自分の救いの業をどのように信じるかということに関しては一切を父の御手に委ね、自分は父に従い、救い主としての使命を果たすことに全力を注がれたのです。
 その結果、御子イエスの道は必然的に人類の罪を贖うための十字架の苦難に至る道となりました。人類の罪を裁かれる父の意図が成就することによって、人間は救われるのだとイエスは確信し、人類に代わって神の裁きをご自分の身に引き受けられたのです。
 このイエスの従順こそ、御子の栄光であり、人間を救う神の力です。それゆえ父なる神は御子イエスを死人の中から復活させ、天地の主権者である「主」とされました。
 今や主イエスは神の力と働きをもってこの地上に臨在し、ご自身を証しておられます。弟子たちは復活の主イエスに出会ったとき、初めて主イエスを「わが主」「わが神」と告白し(ヨハネ20:28)、主イエスを礼拝しました。それまでは弟子たちは主イエスを礼拝することは一度もありませんでした。それゆえイエスの十字架の死と復活の事実が、神の愛と力とを啓示しわたしたちの心を捕らえますので、わたしたちにイエスを信じさせ、礼拝させるのです。



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