2014-07-20(Sun)

聖霊の御業に従う 2014年7月20日の礼拝メッセージ

聖霊の御業に従う
中山弘隆牧師

 彼は答えて、わたしに言った。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何者か、ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば、見事、見事と叫びがあがる。」また主の言葉がわたしに臨んだ。「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを、あなたたちに遣わされたことを知るようになる。誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て、喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」
ゼカリア書4章6~10節


 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。
テサロニケの信徒への手紙一1章2~10節


(1)テサロニケにおけるパウロの伝道
 本日はパウロがテサロニケの教会に宛てた手紙から彼がどのように福音を伝えたかをしっかりと受け止める者でありたいと思います。
 当時テサロニケの町は人口が約20万人にも及ぶギリシャ・ローマ世界の中でも有数の大都会であったと言われています。それは、ローマと東方を結ぶ幹線道路がテサロニケを通っており、テサロニケは東西の通商の要所であったからです。そのような大都市にキリストの福音が伝えられたことは伝道戦略の上で非常に大きい意義を持っていました。なぜならばもしキリスト教がテサロニケに定着すれば、キリスト教はその幹線道路に沿って展開し東は小アジアの全域と西はローマにまで至ることは確実であると予想できたからです。
 そこでパウロが福音をテサロニケにもたらした事情は、使徒言行録17章1~10節に記されていますが、彼は三回の安息日に亘ってユダヤ人の会堂に行って教えました。そのようにテサロニケでの彼の滞在はたった三週間であったのですが、ユダヤ人の会堂で礼拝を守っていた異邦人が多数キリストを信じたのです。
 その結果ユダヤ人は憤激し、暴徒を扇動してパウロを襲いましたので、彼は夜のうちに脱出しなければなりませんでした。しかしテサロニケのユダヤ人から逃れたパウロたちはベレヤの町でも伝道し、そこでも同様のことが起こり、パウロは協力者であるテモテとシラスを後に残して、自分一人でアテネに逃れて行きました。
 その時、彼の大きな心配は、たった三週間しか伝道できなかったテサロニケにキリスト教が果たして定着できたかどうかであります。
 そのように極めて短期間に伝道しただけで、キリスト教は再び抜き取られないほどしっかりと根付くことが可能だろうか。もしそうだとすればキリスト教がローマ帝国に勝利することは決して夢ではない。それともキリスト教を印象付けるために、一か所に長くいて伝道する必要があるのだろうか。その場合にキリスト教がローマ世界に浸透できるかどうかは不明であるとパウロは考えていたことでありましょう。
 そのような不安の中にあったパウロのもとにテモテがアテネに到着しました。そこでパウロはテモテをテサロニケに送り返して、その様子を知ろうとしました。そのパウロの思いはこの手紙の3章に詳しく書かれています。
 「ところで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたたちを惑わし、わたしの労苦が無駄になってしまうのではないかと言う心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。」(3:5)
 これに続いて3章6節で次のように言っています。
 「ところで、テモテがそちらからわたしのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛とについて、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えてくれていること、さらにわたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました」と、その喜びと感謝を言い表しています。
 このような状況の中で、パウロは神の大いなる業を知り、確信をもってこの手紙を書いているのです。
 「わたしたちは、祈りの度にあなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、またわたしたちの主イエス・キリストに対する希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」(1:2~3)
 キリストの福音に反対するユダヤ人の激しい迫害の中でも、テサロニケのクリスチャンたちは、少しも動揺することなく、主イエスに対する信仰を堅持し、神の愛に満たされて、喜びと感謝をもって信仰生活を続けていたのです。これこそ正に奇跡であり、神の力と業の現れです。さらに詳しく言えば聖霊の御業なのです。
    
(2)聖霊による福音の伝道
 次に、パウロは聖霊の導きと力によってテサロニケの人々にキリストの福音を語ったと言っています。1章5節でこのように証しています。
 「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたの所で、どのようにあなたがたのために働いたかは、ご承知のとおりです。」
 ここで、「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によって」キリストの福音を語ったと言っています。
 その意味は「福音の言葉」とは「十字架の言葉」でありますが、それは神が主イエスを通して、人類の救いのために実現してくださった「神の事柄」を表している言葉であると、いう確信をもって語ったという意味です。
 それゆえ「キリストの福音」は世の人々の知恵による言葉ではありません。パウロもペテロもすべての使徒たちが皆、聖霊によって示された言葉なのです。
 このことをパウロはコリントの信徒への手紙一の2章6節~16節で説明しています。
 「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(2:12)
 すなわち、神がキリストにおいて人間の救いのために実現してくださった「神の恵み」は聖霊によってのみ理解された恵みなのです。
 それゆえキリストの福音を「十字架の言葉」として語ることも、聖霊の啓示によるのです。2:13で次のように説明しています。
 「そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのでなく、“霊”に教えられた言葉によっています。」
 生まれながらの人間は、神を知ることができません。なぜなら、神様が人間のために実現してくださった神の恵みを理解することができないからです。それを人間に理解させる方が聖霊なのです。
 それゆえ「十字架の言葉」はこの世の智者には「愚かな物」と思われるのですが、聖霊によってそれを信じ、理解する者には救いをもたらす神の力として働きます。
 また、パウロがただ言葉だけによらず、力と、強い確信とによって十字架の言葉をテサロニケで語ったと言っているのは、彼自身が十字架の言葉によって生かされているからです。
 さらに聖霊の働きに対して忠実に従っている自分の生き方、態度そのものによって語ったと言う意味でもありまです。
 それゆえ、十字架の言葉は神の力を伴って働き、聞く者に聖霊を与え、聖霊が人間の心に信仰を働かせたのです。これこそ、正に奇跡であり、神の業です。このことをパウロは1:6で言っています。
 「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となったのです。」
 ここで「主に倣う者」となったと言う意味は、地上で生涯を送られた過去のイエスの行き方に倣うのではなく、現在復活してクリスチャンの中に働いておられる主イエスの行き方に倣うことです。
 この主に倣うと言うことは決して人間の業ではありません。それこそ神の業です。このような霊的な命に溢れた現実をパウロはテサロニケの人々の中で確認し、次のように言い表しました。
 「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしは知っています。」(1:4)
 ここに神様に愛され、神様から選ばれるということが具体的な事柄の中で示されています。それは決して議論の対象ではなく、具体的な事柄であります。
 つまり、キリストの福音、十字架の言葉を聞いて、喜びをもって単純に信じる者が神様から神の民として選ばれたのです。神の御前に生きる者として選ばれたのです。従ってそれは聖霊の働きです。 
 たとえ人間の知恵の言葉で人を信じさせたとしても、それによって信じた人は決して神様から選ばれたとは言えません。
 わたしたちは自分が生かされている十字架の言葉を聖霊の確信をもって語ることが福音伝道のために必要です。わたしたちはそうすることによって、神の働きに奉仕をする者です。
 しかし、神の働きは聖霊によって行われていますから、聖霊が与えられればその人は喜んで信じます。聖霊が与えられなければ人は信じません。それらは聖霊ご自身が決められる事柄です。
 聖霊の働きが神の選びなのです。わたしたちはその働きを喜び、感謝し、謙虚に受け入れるべきです。そのようにして伝道は神の業として前進して行きます。

(3)命の泉である主イエスとの交わり
 最後に、十字架と復活の言葉を通して、復活の主イエス・キリストは常にわたしたちと出会われます。その時、聖霊を通して主イエス・キリストご自身が語られます。そして真心をもって聞く人に聖霊を与えられます。聖霊によりキリストを信じる信仰が人の心に働くのです。
 言い換えれば聖霊により、信仰者は復活のキリストと結ばれ、クリスチャンはキリストと生命的な交わりの中に入れられるのです。
 そうすることによりクリスチャンは聖霊を通してキリストの中に自己の新しい存在が与えられ、他方キリストは聖霊を通して、クリスチャンの中に働かれます。聖霊を通してご自身の思いをクリスチャンの心に与え、キリストがクリスチャンの心を支配されるのです。 
 同時にキリストの命がクリスチャンの心に注ぎ込まれます。そのことを通して、クリスチャンは神の御心を実践し、隣人に対する愛の業をなし、生活の中で時にかなった具体的な良い業を行うのです。  
 それらすべては信仰を通してキリストとの交わりから日々新たに湧き出るのです。そのようなキリストの交わりを可能にしている唯一の手段が信仰です。
 他方クリスチャンが良い業をすること、或いは聖化されることによるのではありません。そうではなくクリスチャンが依然として罪深く、誘惑に負け、罪を犯す弱い愚かな者でありましても、ただ聖霊による信仰によってキリストとの交わりは成立するのです。実に、聖霊による信仰がキリストとの交わりの根幹です。
 ローマの信徒への手紙8章35節で、パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難な。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」と言っています。
 また、コリントの信徒への手紙二、5章14節では「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」と言っています。
 このキリストの愛はクリスチャンがキリストとの交わりの中で絶えずクリスチャンの心に沸き起こるのです。
 またコリントの信徒への手紙二、10章1節で「このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたにお願いします。」といっているのも同様です。
 これはキリストとの交わりの中からパウロの中に働くキリストの優しさと心の広さなのです。
 さらにテサロニケの信徒への手紙二、3章5節で「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」と言っているのも、キリストとの交わりの中でクリスチャンに働く、神の愛とキリストの忍耐のことを言っているのです。
 これらすべてを総括する意味で、パウロはガラテヤの信徒への手紙3章1節で、次のように言っています。これは非常に印象的な表現です。
 「目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」
 ここで、パウロは復活の生ける主イエスを語っています。しかしその方は正に十字架につけられて死に、死を通して神への従順を全うされた方です。つまり、復活の主イエスは、十字架につけられた方としてご自身を現わしておられるのです。
 それゆえ復活の主イエスの命は、十字架の死より湧き出る命なのです。まさに復活の主イエスは十字架について死なれたイエスです。主イエスは十字架の死によって達成された永遠の命を持って復活されたのです。
 このキリストを仰ぐことにより、クリスチャンは自分の中に働くキリストの復活の命は、わたしたちも労苦し困難の中で働くとき、その真価を発揮する命であることを悟ります。
 苦しみの中でも喜んで愛の労苦を担うことにより、復活のキリストの命は働くのです。
 この意味で、パウロはテサロニケのクリスチャンが「信仰の働き」、「愛の労苦」、「希望の忍耐」をもって、夜空に輝く星のように、福音の光を輝かせている。それこそ聖霊を通して、主イエスがクリスチャンの中に働いておられるのであると神を賛美しています。



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