2010-09-12(Sun)

聖霊の実を結ぶ 2010年9月12日の礼拝メッセージ

聖霊の実を結ぶ

中山弘隆牧師

 主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい。献げ物の肉は、ささげた当日とその翌日に食べねばならない。三日目まで残ったものは焼き捨てよ。もし、三日目にわずかでも食べるなら、それは不浄なことであって、受け入れられることではない。それを食べた者は責めを負う。主にささげられた聖なるものを汚したからである。その人は民の中から断たれる。穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
レビ記19章1~18節


 
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
ガラテヤの信徒への手紙5章13~26節


 本日の聖書の箇所でありますガラテヤの信徒への手紙5章13節には、次のように記されています。
 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によってたがいに仕えなさい。」
 この聖句は非常に短い言葉ですが、福音主義的な信仰生活のすべてを言い表しています。神の目的が実現するために、神がわたしたちをキリストにおいて、召されたのは「自由をえるためである」というのです。
 この自由とは人は何をしてもよいという自由ではなく、人が神の御心に従って善い行いをするために、障害となっている束縛から解放されて、自ら進んで善い行いをすることができるという自由です。
 しかしこれは人間を束縛している罪からの解放のことを直接に語っているのではありません。そうではなくて、主イエスの贖いによって罪から解放された信仰者が、キリストに従って生きる信仰生活の基本路線について語っているのです。
 その第一はユダヤ教的な律法主義の束縛からの解放です。ユダヤ教は、神様と律法を信じていますが、主イエスの救いを信じていません。従いまして、ユダヤ教では人間は神様を信じて、律法を実行することによって救われると教えています。その際に、人間は自分の意志と力とによって、律法を実行する者として、律法の実行は自分の功績になるのです。結局、人は自分の功績を積むことによって救いを獲得するという教えです。
 ユダヤ教においては、人間の罪が完全に解決されていないので、彼らが主張している自分たちの功績は神の御前では通用せず、彼らは依然として罪の束縛の中にとどまっていると言えます。
それに対して、キリスト教は、ユダヤ教と同じく、唯一の神を
信じています。しかし、唯一の神をユダヤ教の抽象的な神概念ではなく、神が主イエスをとおしてご自身を啓示された事実に基づいて、唯一の神をご自身の内に父・子・聖霊の交わりを持っておられる神として信じています。
つまり、主イエス・キリストを人間となられた神の御子として信じています。この点がユダヤ教と決定的に違うのです。
クリスチャンとは主イエス・キリストを信じる者たちです。主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと結ばれ、主イエス・キリストの命を受けて、神の御心を行う者たちであります。それゆえ、人が救われるのは、自分の功績を積むことによってではなく、キリストの恵みによってのみ、そしてキリストを信じることによってのみ救われるのです。
従いまして、クリスチャンが神の御心である律法を行うのは、自己の功績を積むためではなく、キリストの恵みに感謝するために、感謝と喜びをもって行うのです。
このように、人間に対する神の命令であります律法を行う態度と動機が、キリスト教はユダヤ教と全く違っています。

第二はパウロがここで言っています「自由」とはキリスト教内に侵入してきている律法主義からの解放です。
ユダヤ人で、主イエス・キリストを信じて、クリスチャンとなった者たちの中には、クリスチャンになっても、割礼を受け、ユダヤ教の律法を忠実に実行しなければ、救われないと言って、クリスチャンを惑わしました。それに対して、パウロは断固としてそのような運動を取り除くための行動をとりました。
5章の1~4節で次のように言っています。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるならば、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たないかたになります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもないものとされ、いただいた恵みも失います。」
これは初代教会が直面した最初の大きな内部的な危機でありました。このような信仰はキリスト教をユダヤ教の一派にしてしまう危険をはらんでいました。このような危機の本質を、当時正確に見抜いた者は、使徒たちの間で、パウロだけです。以前、彼は熱心なユダヤ教徒であり、新進気鋭の若い律法学者として、キリスト教を迫害していたのですが、その最中に復活のキリストに出会って、キリストを信じ、直接キリストから福音の宣教を命じられました。そのようなパウロであるゆえに、キリストの福音が律法主義的な信仰を廃止したことをよく理解し、福音主義的信仰を確立したのです。

(2)律法の成就

それでは、キリストの福音は律法主義を廃止することによって、律法そのものを廃止したのでしょうか。否、決してそうではなく、神の命令としての本当の律法を成就したのです。
「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされているからである。」(5:14)
従って、クリスチャンは隣人を自分自身のように愛することによって律法を本当に実行するということになります。
ところで、このパウロの確信の背景には主イエスの教えがあります。旧約聖書にしるされている律法は365の禁止の規則と248の肯定的な規則とがあり、全部で613の規則から成り立っています。そして正統主義的なユダヤ教の教理では613の律法は皆同じように重要で、その間に優劣の差はないというのです。この見方がユダヤ教を本質的に戒律宗教にしています。
それに対して、主イエスは個々の律法を、重要さの点で区別し、一番大切な二つの律法を明確にされました。この経緯がマルコによる福音書12:28に記されています。そこでは、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」とイエスに問うた律法学者に対するイエスの答えとして、伝えられています。イエスの答えは、次のようです。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はない。」
ここで見逃してはならない点は、主イエスご自身が律法の成就者である、ということです。イエスは律法を与えられた神様の意志を完全に理解して、父なる神に完全に従われました。この意味で、主イエスはただ一人の律法の成就者なのです。
律法の成就者である主イエスであればこそ、ユダヤ教の律法理解を超えて、神の恵みの現実にそぐわない儀式的な律法を廃止されました。その第一は安息日にいかなる労働もしてもいけないという律法理解に挑戦して、安息日に病人を癒されました。第二に、食事の前に手を洗うという戒めは実行されませんでした。手を洗わないということが、その人を神のみ前に実際に汚れた者とすることではない、と断言されました。このように、主イエスは律法の成就者として、ユダヤ教の律法を乗り越え、それを廃止されたのです。このように、主イエスが信仰者に与えられた自由は、ユダヤ教の戒律宗教、すなわち律法主義を乗り越える自由であります。主イエスが与えられたこの自由を最もよく理解した者がパウロでした。
従いまして、クリスチャンが自由にされているというとき、律法の成就者として、律法主義を超え、もっと高い次元で生きているという意味です。

その意味は、第一にクリスチャンとして、隣人を愛するとき、この戒めに従わないならば神様から罰せられるという律法の脅迫、他方またこの律法に従うならば神様から報酬が与えられるという律法の約束、すなわち律法のもたらす鞭と飴によって、戒めを実行するのではないというのです。そのような鞭と飴のいわゆる外部からの強制によって信仰者は戒めを実行しようとするのではない。そうではなく、キリストを信じることにより、自分に与えられたキリストにある新しい性質によって、同時に、神の愛が信仰者自身の中に働くことによって、自ら進んで、喜んで、無報酬で、隣人を愛するというのです。
宗教改革者カルヴァンは、主イエスにあるクリスチャンにとって、律法はもはやクリスチャンを裁くのではなく、主イエスの救いに感謝して生きるその生き方を示すものである、と教えています。従って、神の救いに感謝する生き方を示すものとしての律法の役割を強調しています。

第二に、ユダヤ教の律法は外部からの強制により、人間によい業を行わせようとする基本的な性格を持っていますので、その律法は最小限度の善い業しか規定していません。ここに律法主義の限界があります。
パウロはその限界を超えて、善い業を行いました。また、律法が愛に反することを認めている場合に、例えば律法は離婚を認めていますが、パウロは主イエスと同様に離婚を認めませんでした。
さらに律法が定めていない事柄でも、新しい状況が必要としている義務を、愛の義務として果たしました。隣人への愛の義務を果たせば果たすほど、その義務は増していくのですが、キリストにある恵みにより、それを果たすより大きな力を受けることができたのです。このことをパウロはキリストにある「無尽蔵の富」(エフェソ3:8)と言っています。従いまして、キリストと結ばれて信仰者の中に働く、霊的な無尽蔵の富により、大きな義務に押しつぶされることなく、真の自由を生きることができたのです。

(3)聖霊に従う

次に、16、17節でこのように言っています。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。」
ここでパウロはわたしたちが聖霊に従う生き方をするならば、肉の欲望を満足させる生き方はできなくなる、と言っています。ここでパウロが言う「霊」とは「聖霊」のことです。「肉」とは「肉体」ということではなく、生まれながらの人間のことです。しかも神に背いている人間のことです。
このように、パウロはわたしたちクリスチャンの中に、聖霊の思いと罪ある人間の思いとの間に絶えず葛藤があること示しています。だがそれだけでなく、クリスチャンはだれでも主イエスを信じたことにより、聖霊を受け、聖霊の導きの中にある者ですから、最後には聖霊の思いがクリスチャンの思いと行動を決定するというのです。
このことをわたしたちは真剣に受け止めるならば、自分自身に起こっている現実を直視することができるのです。要するに、聖霊を受けているクリスチャンはもはや自分の心の中に葛藤が無くなるというのではないのです。そうではなく心の中に働いている葛藤をクリスチャンは聖霊の導きで克服し、キリストの思いに従うことができるのです。正確にいえば、キリストの思いに従う決断が聖霊の働きにより、絶えず繰り返されるというのです。
聖霊がわたしたちの心の中に「キリストの思い」(コリント一、2:16)を入れるときに、この世の低い思いに捕らえられているわたしたちの心の中に、わたしたちの思いとキリストの思いの葛藤が起こります。そこでどちらを選んだらよいかと思い悩むのですが、その現実の中で、聖霊の導きにより、わたしたちは自分の低い思いを克服し、キリストの思いを自分の思いとして実行するようになるのです。これが聖霊を通してわたしたちはキリストの命に生きることであり、これこそクリスチャンの自由であります。

(4)隣人愛の実践

最後に隣人を自分自身のように愛することは、信仰者の中にある聖霊の働です。その働きの果実なのです。22節はこのように言っています。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」
ここに聖霊の働きが列挙されています。それらは皆、人間の性質や道徳に関係している人格的な働きなのです。わたしたちはともすれば、聖霊の働きをもっと華々しく一見して超自然的な力のあらわれと見えるような奇跡であるかのように考えます。しかし奇跡は聖霊の働きの本領ではありません。聖霊の働きの本領は、わたしたちの人格の中に働き、わたしたちをキリストの性格に似るものへと変革し、向上させる道徳的な感化と生命的活力なのです。ここで列挙されている愛、平和、親切、善意、誠実、柔和、節制という働きは聖霊の働きの果実なのです。
ここで注目すべきことは、聖霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、誠実、柔和、節制というとき、その「実」という言葉はギリシャ語で「カルポス」といいますが、これが単数で表されている点です。つまりこれは聖霊の結ぶ実としては一種類の実である、ということです。それらはすべて信仰者の中に注がれるキリストの一つの命の現れなのです。それらは隣人を自分自身のように愛する愛の様々な現れなのです。
律法主義のように自己の功績を求めたり、あるいは罰を恐れたり、そのような外部からの強制によって、善い業をするのではなく、喜びと平和をもって、また無報酬で自ら進んでするという愛の業をいろいろの側面から現しています。
また、聖霊の実という場合に、それは愛の働きを現しているのですから、自分の中に保存されている失われることのない、また変わることのない宝のように、考えるのは間違いです。そうではなく、それはクリスチャンの中に絶えず新しく繰り返される愛の働きそのものなのです。従いまして、聖霊の導きにより、愛の働きを繰り返すことが聖霊の実を結ぶという意味です。クリスチャンは聖霊によって、愛の業を行い、自分がキリストの性質に似る者となろうとしていますが、地上にいる限り、それは現在、成りつつあるという進行形であります。パウロはこのように言っています。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、--目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12~14)
パウロのように目標を目指してひたすら走っていることが、聖霊の実を結ぶことに他なりません。このことをわたしたちは心に銘じているべきです。



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