2014-06-29(Sun)

主は羊飼い 2014年6月29日の礼拝メッセージ

主は羊飼い
江田めぐみ伝道師

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。
詩篇23編1~6節


 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
ヨハネによる福音書10章11~15節


 詩篇23編は、皆さんよく知っている聖書の箇所ですが、これが作られた制作年代は、わかっておりません。けれども、ダビデがこの詩を作ったのではないかと言われています。この詩情には時代を越えた普遍的なものがあります。
 この箇所(詩篇23:1-4)は、神を心やさしい羊飼いとして、又、惜しみなく与える、もてなし主として描くこの作者の文章の中に、神の善と愛に対する確信の持つ暖かさ、神の臨在の中にある生命と平安の確かさといったものがあふれ輝いています。

 ダビデは若い頃、羊の世話をしながら過ごしていましたので、主を牧者として描写する時に、自分自身の経験をもとに描いています。また、この詩篇では、羊飼いと群れの荒れ野の旅をうたい、詩人は人生の歩みを神に託して祈っています。すべての人生に共通することは、それが死に向かう旅であることです。わたしたち人間は常に「死の陰の谷」を歩いているのです。それは、「死の陰の谷」を恐れつつ行くか、「正しい道」として安らかに歩むかは、だれを導き手にとするかによるのです。迷いやすく弱い羊に人間をたとえる詩人は、羊飼いとしてヤーウェーを捉えるのです。

 「主はわたしたちの神、わたしたち主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊飼い」(詩篇95:7)として、民全体の羊飼いとして描かれています。
 そして、ここの礼拝者が主の群れに属しているから、一人一人が神の個人的な哀願を確信しつつわが羊飼いということができるのです。
 羊飼いは自分の羊を導き護り、必要なものを備えてやるのです。羊飼いは群れの先頭に立って羊を導いて行きます。

 「主は羊飼い、わたしには何もかけることがない」(詩23:1)。神はわたしの羊飼いでいてくださるから、わたしには何も欠けることがないのです。そう歌うこの詩人はだれかに対して、自分の信仰を言い表しているのです。「わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命をすてる」(ヨハネ10:11)。「羊飼い」と言う称号はまた王に対しても、神であり、また王であるイエスに対しても用いられています。

 この聖句を「わたしには」というところを、「あなたには」と置き換えると、「神はあなたの羊飼い、あなたには欠けるものがない」ということになります。わたしから、あなたと問いかけられると、皆さんの心がわたしのことかと思い、すぐに心が動くことでしょう。なぜかというと、「あなたには欠けるところはない」と、問われると、ふっと自分の生活を考えるからです。でも、そんなことを言われて、自分に欠けるものがないと、自分は言い切れるでしょうか。だれでもそう問われているのです。
 わたしたちはいつも自分には欠けるところがあるということを知っているのです。他の人と比べると、わたしよりもあの人やこの人にもあるものが、自分には欠けていると思うことがあるのです。
 わたしには欠けているところが沢山あるのに、聖書では欠けていないという。しかもその欠けていない理由は、神がわたしの羊飼いでいてくださることにあると言っています。

 それはどういうことであるのでしょうか。
 羊飼は羊の群れの先頭に立って進んで行くのです。羊は羊飼いを信頼し、羊飼いも羊を信頼し草を求めて歩くので、休息の取れる場所へと辿り着けるのです。けれども、羊の中には、群れから離れてしまうものもいるかも知れません。(99匹の羊のお話)
 青草の原に休ませることは、そこは、「憩いのみぎわ」であり、憩いの水のほとりのところでは、羊は休息をとることもでき、疲れて体をゆっくりと休ませることができ、元気を回復させることもできるのです。また、「憩いのみぎわ」は、神がその民に対して約束された休息の場所としての神の有り様を、思い起こさせるのです。それは、「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ」(詩篇36:8)、と記されているのです。そこは、来るべき神の国ということです。

 神の国とは、「神と子羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を私たちに見せた」(黙示録22:1以下)と記されております。
 そこには、「憩いの水のほとり」もあり、その流れのかたわらで羊は休息を取り元気を回復できるのです。新たに元気づけてくれる流れと豊かな緑地の描写は、神の太古の楽園と来るべき神の国のありさまを礼拝者に思い起こさせ、神の生命を与える聖霊の現在と将来にわたる恵みの賜物を暗示するのです。
 「憩いの水のほとり」と言うことは、「わたしは怒り、彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った」(詩篇95:11)。神がその民に対して約束された休息の場所としての神の国の有り様を思い起こさせるのです。

 「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」(詩篇23:3)。
 「正しい道」とは、どういうことでしょうか。自分が正しい道を歩くことができるということです。正しさには基準があります。定規があるから正しいか真っ直ぐか、曲がっているか、間違っているかが分かります。その定規が何かと言うと、「主の御名」です。神のみ名にふさわしいということです。それは、わたしがやることはすべて神のみ名によって正当化できるかどうかということです。ですから、神のみ名のために、答えることができるかどうかということです。それが言えないと、魂が憩いを得なくなってしまうからです。
 また、主なる神の「御名にふさわしく」とあります。正しい道とは、義の道であり、「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」(詩篇1:6)。と、神によって気づかわされ守られる道のことです。
 「魂をいき返らせる」ということは、精神的にも、肉体的にも、再び元気づけられることを望んでおります。それは、「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください」(詩篇6:5)。と、主に祈っているのです。
 「主は御名にふさわしく」ということは、神がご自身にふさわしいように、正しい道それは「義の道」のように、ということは、神によって守られている道であるのです。

 死の国へ行けば当然そこは陰府が待っているのです。ここで言う死の国とは、野獣や盗賊や悪霊の住む場所であり、そこは、恐れを生み出すような場所のことでしょう。けれども、羊たちは羊飼いが鞭や棒を持って守り、杖を持って安全なところへ導いて行ってくれることを知っているのです。
 私たちは死の存在に対して全く無力であります。死は、おびえたくなるような陰を私たちの上に落とします。私たちは、痛みや苦しみ、病、怪我のような他の敵とは戦えますが、力と勇気は死に打ち勝つことができません。死は最終告知を下します。命の神であり、私たちの牧者である方が、私たちと共に死の陰を歩いて、安全なところへ連れて行って下さるのです。私たちの人生は不確かなので、私たちは永遠の安らぎを与えてくださるこの牧者について行くべきであるのです。
 しかし、羊たちは羊飼いが鞭あるいは棒を持って彼らを守り、杖を持って彼らを安全な場所へ集めてくれることを知っているのです。
「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(詩篇16:8)。まさにそのように、人は神が共にいまして守り導いてくださることを知り、慰めと力を見いだすのです。
 「死の陰の谷」は、死は災いあるいはすべて恐れを生み出すようなものの象徴であります。それは神の与えたもう生命と健康と喜びを人から奪うものであり、また悪人たちを陰府へと導くライバルの羊飼いとして描かれることさえあるのです。
「死の陰の谷を歩く」ということは、いつもそばに死が直面しているのです。ですから、死の暗い影が落ちている、このような死の谷の陰を歩いているところは谷、上をみても暗い死が覆いかぶさっているのです。このような死の谷を歩いている時にはわたしは災いを恐れない。ということは、自分は死の闇を見つめながら、そこで何も心配することはないということです。死の陰すなわち死の予感は、様々な災い、病気、事故、つまずきなどに遭遇することもあるけれども、羊飼いは共にいてくださるインマヌエルのヤーウェーであるのです。そこには神はそのようなわたしの羊飼いであり、わたしの守りでいてくださるということであるからです。 
 神が共にいることを知っても、それが逆境を取り去ることがないのと同じように、
暗黒の谷を取り除くことはないのです。けれども、「わたしを苦しめる者を前にしても」、苦難の中にあっても、「主はわたしに食卓を整えてくださる」ということは、そこには豊かな祝福があり、神のご加護があるということであるのです。

 「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩篇23:5)のです。
 古代の近東文化では、食事の際に人に香油を注ぐことが習慣でありました。信仰厚き人々は、恵み深い寛大な神の客となるのです。また、わたしを苦しめる者とは、わたしの敵の前にということで苦難の真っ只中にあって、なお豊かな祝福があり、神のお守りのあることを確信し、「主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:39)。と知ることができるのです。頭に香油を注がれるのは王か大祭司でありました。それが貧しい羊が神に招かれて、香油を溢れるほどに注がれる杯は、喜ばしい運命を手にする時もあるのです。豊かな香油と溢れる杯は、祝祭の喜びとぜいたくなもてなしのしるしであるのです。神が忠実な僕に対して備えてくれる祝宴は、それが一生続くわけではありません。彼にとって、神の変わることのない愛は、一生涯続く幸福あるいは恵みの約束であるのです。これらのものが常に彼に伴うとするならば、災いや敵を恐れる必要はありません。主の家と言われていることは、神殿の中に犠牲の用意が整えられ、礼拝者たちは神の食卓に客として受け入れられていることを示していますが、「ひとつのことを主に願い、主を仰ぎ望んで喜びを得る」(詩篇27:4)。と、神が常に、人生が栄えたり、衰えたりする時さえ、臨在したという確信を語っているのです。
 
私たちの魂が憩いを得るためには、神のみ名にふさわしく、私たちが答えることができるかということです。その点、私たちは神によって気づかされ守られている道がありますから、それを信じて歩んでいけるのです。
 神は私たちの羊飼いであり、私たちを愛して守っていて下さるのです。



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