2014-05-04(Sun)

キリストの思いを抱く 2014年5月4日の礼拝メッセージ

キリストの思いを抱く
中山弘隆牧師

 手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし、山々を秤にかけ、丘を天秤にかける者があろうか。主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。
イザヤ書40章12~14


 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章12~16節


(1)神を知る霊
 わたしたちの信仰生活が、常に喜びと力に満ちているためには、何が必要であるかを日ごろから心得ていなければなりません。例えば、神様を頭で理解しているだけでは、まだ神様の恵みを体験しているとは言えません。また、神様は天地万物の創造者なる唯一の神である。そして人間は神の子として造られ、すべての人間は神の前で平等であり、互いに兄弟姉妹である、と信じているだけではまだ不十分です。
 それでは神を知るということはどういう状況でしょうか。それは神が恵み深い主権者であることを、自分の生き方と存在を通して体験し、知っていることに他なりません。
 なぜならば、主イエス・キリストを通して与えられる神の救いを信じ、主イエスの恵みの中で生きることによって、生ける人格的な神を知ることができるからです。
 このことについて、コリントの信徒への手紙一、2:11は次にように教えています。
 「人の内にある霊以外には、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神を知る者はいません。」
 ここにある人がいると致しますと、その人を人格として完全に知っている者はその人の内にある霊だけです。その人の心の奥深くまで知ることのできる者はその人の霊以外にはありません。同じように、神様を知ることのできる者は、神の霊すなわち聖霊だけであります。
 人間が理性を働かせて、なぜ自分は人間として世界に中に存在しているかを思索し、人間を存在させている神を推理しましても、それによって実在する唯一の神に到達することはできません。それは人間の理性が造り出した有神論や唯一神論などの神概念であり、本当の生ける神ではありません。
 それでは、人間に神の思いを知らせる聖霊の働きについて、もう少し掘り下げて説明をしますと、それは人類の救い主である主イエス・キリストを聖霊がわたしたちに示し、わたしたちが主イエスを信じ、理解するようにさせてくださるのです。これが聖霊の働きなのです。
 なぜならば、主イエスとその救いの実体はこの世界から由来したものではなく、正に神の働きそのものですので、人は聖霊によらなければ理解することができないからです。
 主イエスはマタイによる福音書11:25~27で次のように仰せになりました。
 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
 この言葉は主イエスが人間に神様を啓示する唯一の方として、神様から全権を委任されていることを示しています。
 つまり、人間に対する神の赦し、神の救い、神の恵みは主イエスによってのみ与えられることを意味しています。
 それゆえ神の遣わされた救い主イエスをありのままに知ることができるように、人の心を照らし、強め、理解させる方が聖霊なのです。
 実に、神の遣わされた救い主である主イエスの尊い姿は、人類の罪の贖いのためにご自身を犠牲とされた十字架の死において現されました。しかしこれを見た群衆は主イエスを異口同音に嘲笑しました。
 「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」と侮辱しました。また、イエスに敵対していた祭司長や律法学者たちは、勝ち誇ったように、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と軽蔑の言葉をイエスに投げかけました。(マルコ15:29~32)
 このことに関して、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一、1:19節でこのように解説しています。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 これはどういう意味かと解釈しますと、主イエスの十字架の死は人類を罪の束縛から解放するために神ご自身が実行してくださった神の行為であるので、主イエスの十字架は深い意味を秘めています。従って十字架の言葉は神の理由と道理を告げ知らせているのです。
 それゆえ、十字架上の神の御子・主イエスの姿こそ、人類の救い主としての栄光の現れです。しかし人は聖霊を受けなければ、十字架の言葉を理解することは全く不可能なのです。
 それでは人間が十字架の言葉を信じ、主イエスの救いを信じ、理解するため、神様は人間に聖霊を与える道をどのように備えて下さったのでしょうか。その方法は二つあります。
 第一は父なる神が御子イエスを死人の中から復活させ、万物の主とされたことです。第二は死人の中から復活された主イエスが、聖霊を父なる神のもとからわたしたち人間のもとに遣わされたことです。これによって初めて人間に聖霊が与えられました。
 さらに、これら一連の神の出来事を通して、神様はわたしたち人間の罪を赦し、わたしたちの心に、わたしたちの存在の中に、もはや撤回することのできない仕方でご自身を与えられました。
 この点を具体的に説明すれば、次のように言えます。死人の中から復活された主イエス・キリストが今や聖霊を通して、信仰者一人一人の中に、臨在し、働いてくださることになりました。
 このことによって、神が主イエスの中で実現してくださった恵みが、わたしたち人間の中で有効となるのです。ここに聖霊の働きの重要な点があります。その結果、復活の主イエスはわたしたちを日々罪から清め、日々新しく生かし、救いの完成へと導かれるのです。

(2)キリストの思いを抱く者
 以上のように、わたしたちを日々新たに生かす神の恵みは、父・子・聖霊の共同の恵みであり、神の自己譲与です。もちろん、わたしたちがこのように神に愛され、神の子たちと呼ばれましても、わたしたちは依然として人間であり、神になるのでありません。そうではなく、わたしたちの中に聖霊によってキリストが臨在し、わたしたちをキリストご自身との交わりの中で永遠に保ってくださるので、わたしたちは死によってもキリストから切り離されることはないのです。
 そのように生きまた死ぬクリスチャンの価値は、地上においても、天国においても、主イエスとの人格的な交わりの中で、自分の中に主イエスの働きを受け、人間としての性質や行為、すなわち神の愛の働きである道徳の実行を通して、神様の性質を映し出すことです。
 そのような者としてわたしたちクリスチャンは、自分の心の中心に神の御子・主イエスを迎え入れ、わたしたちの思うこと、語ること、なすことのすべてを主イエスが支配され、わたしたちの思いと言葉と行動が変えられ、清められ、高められて行くのです。
 そのように復活の主イエスご自身が聖霊を通してわたしたちの中に働いておられるので、わたしたちは主イエスに従って行くことが、自分の本当の人生を歩むことになるのです。これ以外に自分の本当の人生は存在しません。実にこれがクリスチャンの確信です。
 それでは、そのために私たちに何が必要でしょうか。
 第一に、日々神に祈ると言うことです。そして復活の主イエスと出会うと言うことです。
 この点につきましても、聖霊を通してわたしたちに与えられている主イエスの心は、神を恵み深い父と呼びかけ、祈る心です。一切のことを父に依存していることを悟り、祈らざるを得ないという心、むしろ祈ることが当然であるという心、そして父に求めることは必ず与えられると信じる心です。それゆえ、主イエスの心が与えられているわたしたちは、日々熱心に祈る者たちです。
 さらに、祈ることにより、わたしたちに対する主イエスのご計画と命令を知らされることが必要であり不可欠であります。
 そうすれば主イエスの目的と意志をしっかりと知って、確信して主イエスに従って行くことができるのです。
 次に、祈りにおいて、復活の主イエスと対面するとき、主イエスの性質や行動を熟慮することが重要です。
 わたしたちに対する主イエスの目的と命令は主イエスの性質と完全に一致しているので、わたしたちが罪の全くない清い主イエスを見て、自分の中にある罪深い思いと動機を捨て去ることが、主の命令を果たすために不可欠です。
 また罪人を赦し、ご自身の正しさを与えられる恵み深いキリストの愛を知るとき、自分も人々の罪と弱さを赦し、神様が自分に与えられている人々と互いに愛し合い、忍耐し共に神の目的を果たすために協力することが必要です。
 第二に、自分の中で働いておられる復活のキリストに従っていく人生は、神様が自分に与えられたすべての可能性を実現する唯一の道であるとはっきりと自覚することです。
 そこから自主性と心からの喜びをもって神の命令を実行することができるのです。実にこの自覚によって行う愛の業と様々な良い業は、自ら進んで行う行為となり、神に対して自分の働きの報酬を要求することのない、純粋な感謝の行為となります。
 第三に、自分の中に働いておられる復活の主イエスの歩みに従っていく人生は恵み深い、そして正しい主権者である主なる神のご計画の中に入れられていることを信じ、その認識を持つことによって、わたしたちの信仰が不動のものとなり確立すします。
 諸々の試練や誘惑に遭遇しても心が揺らくことなく、主イエスに従って、その命令を実行することに全精力を注ぎ込む生き方をするようになります。
 その生き方を通してますます神の愛の大きさと深さと高さを知り、主イエスの復活の命の力を知るのです。そのようにして、わたしたちは主イエスの性質を次第に鮮明に映し出す者へと変革され、高められて行きます。

(3)主イエスを見つめて
 最後に、生涯に渡って主イエスに従い、主イエスに繋がって、主イエスの命令を実行し、主イエスの業を行なった使徒パウロが自分の中に働かれる主イエスの性質と姿をコリントの信徒への手紙一、13:4~7で描いています。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 使徒パウロはここで愛の働きを説明する際に、目には見えなくとも、人格として彼と対面しておられるキリストの喜びと態度と行為に心を集中して、これらの言葉を記したのでしょう。
 生ける復活の主は「忍耐強い」方です。罪深い者、信仰の成長の遅い者に対して、主は期待を持ちつつ、忍耐して待っておられるのです。それはご自身の十字架の贖いにより、どんな罪人に対しても、罪の束縛から自由になり、神の愛に応える新しい生き方を可能にされた方でありますから、たとえ信仰の成長が遅くとも、必ず神の御心に沿う正しい業をするようになる日の来ることを確信しておられるからです。
 他方、罪深い人間は何よりもまず、「利己的な人間」であり、「自分の利益や名誉」を求める者です。そして、「妬んだり」「自慢したり」「高ぶったりします」。この点、信仰者でありましても、他の信仰者を妬んだり、自分の信仰や敬虔な生活を誇ったり、自慢している限りでは、その人はまだ罪の束縛の中に閉じ込められているのです。
 パウロは自分と対面しておられる主イエスの心には、そのような思いや態度は一片のかけらもないことを知らされています。
 罪人のそういう思いや、態度に対して、主イエスははっきり「ノー」と言われます。なぜならば、人間の罪深い思いや態度は主イエスの十字架の死により、神によって既に裁かれ、滅ぼされているからです。 
 人は誰でも主イエスの十字架の死によって、イエスと共に死に、罪に束縛されている古い自分、すなわち生まれながらの自分に死んでいるからです。
 さらに、パウロは主イエスと対面するときに、主イエスの喜びが彼の心の中にまっすぐに飛び込んできます。その喜びこそ主イエスを父なる神の命令の実行へ駆り立てる力なのです。その喜びは何かといいますと、「真実を喜ぶ」ことであります。
 主イエスと対面するとき、聖霊がパウロの心の中に神の愛を注ぎ込みますので、彼も「真実を喜ぶ」のです。
 聖霊を通して、主イエスの思いはパウロの心に伝わり、以心伝心で、イエスの思いがパウロの思いとなるのです。
 他方、人が罪の誘惑に捕らえられているとき深刻な問題は、わたしたちの心が「不義」なる事柄に喜びを感じていること、自分もそれを欲しているという点です。正にこの心の状態が罪の支配の中にある人間の実情です。しかし、聖霊によって、復活の主イエスが働いておられますので、誘惑を受けても、古い自分を後ろに投げ捨てることができます。誘惑が自分を襲う度に、何度でも古い自分に背を向け、キリストの中に与えられている新しい自分に顔を向けて前進するのです。
 すべてに「耐える」という言葉は、4節の「忍耐強い」という言葉とは違います。4節の言葉は「寛容」と言う意味です。それに対して最後の「耐える」というのは「堅忍不抜」「しっかりとしていて困難や試練に動揺されない芯の強さ」「不撓不屈」(ふとうふくつ)という意味です。それこそ、聖霊による愛の働きです。



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