2014-04-27(Sun)

祈りの心 2014年4月27日の礼拝メッセージ

祈りの心
中山弘隆牧師

 エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい雨の音が聞こえる。」アハブは飲み食いするために上って行き、エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり、顔を膝の間にうずめた。「上って来て、海の方をよく見なさい」と彼は従者に言った。従者は上って来て、よく見てから、「何もありません」と答えた。エリヤは、「もう一度」と命じ、それを七度繰り返した。七度目に、従者は言った。「御覧ください。手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます。」エリヤは言った。「アハブのところに上って行き、激しい雨に閉じ込められないうちに、馬を車につないで下って行くように伝えなさい。」そうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった。アハブは車に乗ってイズレエルに向かった。主の御手がエリヤに臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの境までアハブの先を走って行った。
列王記上18章41~46節


 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書18章9~14節


(1)神の真実に寄り頼む祈り
 人間の体は空気を吸わなければ生きられないように、人間の心は神との交わりにより、聖霊の光を受けなければ真の命に生きられないのです。このような人の心を生かす真の命は祈りを通して神から与えられます。
 一般的に言えますことは、人はその思いが真実で、自分の正しさと力ではなく、神の正しさと恵みに寄り頼もうとするとき、そこに祈りの心が与えられます。
 カトリックの信者で哲学者であります今道友信さんが、「あこがれと涙とほほえみ」という題名の信仰の証の本を書いておられます。先生は東京大学の教授をしておられたとき、先生の秘書を務めておられた先生より年上の人がいました。その方は無神論者で日頃先生のしておられることを見て、「先生の信仰と言うものは結局苦しいときの神頼みのようなものですね。」と言っておられたそうです。
 しかしその人のお子さんが病気になり困ってしまったとき、先生の知人の医師に診断を受けることになり、その結果東大病院で手術をすることになりました。その方は手術室の前に座り、ジーッと手を結び合わせ、隣に座っておられた今道先生にこう言われました。
 「先生、私はこんな風に祈ると言うことはしたことがないのです。けれども、本当にわたしの命で変わることができるなら、変わってでも子供を助けたい---、そういって祈ってもよいのでしょうか。」と聞かれました。先生はその人の肩を叩いて、「それでいいですよ、わたしもお祈りします。ただ明日の仕事があってこれ以上一緒におれないから、他のところで祈ります。」と答えて長い廊下を歩き始めました。しばらくして振りかって見ると、その人はジーッと祈る姿勢を続けておられました。
 自分の命を献げても自分の愛する者の命を救いたいと言う思いに集中すること、これは願望や希望を越えた祈りの世界であると、先生は書いておられます。さらに祈りの姿は、人間の生活の中で他の人がそこに泥足で踏み込むことのできない「聖なる領域」があれば、その領域にある姿ではないかと思うと言っておられます。

(2)神に聞かれない祈り
 次に、イエスがされたこの譬話の背景は神殿における祈りの光景です。神殿は公の祈りの時だけでなく、個人の祈りの場所としても用いられていました。当時ユダヤ人は一日に三回、午前9時、正午、午後3時に祈るように定められていました。とくに正午と午後3時とには多くの人が神殿に来て祈りました。祈りに集まった大勢の人たちが見守る中で、ファリサイ派の人はこのように祈りました。
 「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく、またこの徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています。」
 ここでファリサイ派の人は神への感謝の祈りをしています。一般的に説明しますと、祈りには神への崇敬、感謝、悔い改め、祈願、献身、執り成しなど、様々な要素が含まれています。その中でも感謝は非常に大切な要素です。
 ところでこのファリサイ人の祈りは神に対する本当の祈りでしょうか。彼が感謝する理由は、自分が不信仰で不道徳的な生活をせず、非常に敬虔な生活をしていると言うことです。すなわち、他人を搾取して富を蓄える者、自己の利益のために不正なことをする者、不倫を行う者でないことをまず表明しています。
 さらに宗教的な面で、彼は週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています。旧約聖書の律法は、年に一度断食をすることを命じています。それは大祭司が神殿の中の最も聖なる場所である至聖所に入り、イスラエルの民の罪を贖うための犠牲が献げられる「贖罪日」です。その日に断食をすることが律法によって定められています。従まして毎週二度も断食することは、一般的なレベルをはるかに越えた敬虔な態度です。
 さらに、律法の定める十分の一の献げ物とは全収入の十分の一ではなく、農作物の収入の十分の一に相当する額でした。それなのに、このファリサイ人は全収入の十分の一を献げました。このような敬虔な生活を自分がしていることを彼は神に感謝したのです。
 しかしこれは本当の感謝ではありません。その理由は彼が自分の正しさを自慢し、自分の正しさに寄り頼んでいるからです。言い換えれば、自分の正しさを自分の功績として神に認めて貰い、神の救いを得たいのです。
 従って、彼は神に祈ると言うよりもむしろ、彼の祈りを聞いている人々から尊敬されたいと言う魂胆で、自分の祈りを人々に聞かせているのです。
 それに対して、本当の祈りは人間の目には隠れたことを見ておられる神に対してなされるべきです。もちろん礼拝における公同の祈りは会衆一同が理解できる祈りでなければなりません。それは全員がその祈りに参加するために必要なことです。しかし、公同の祈りでも、個人の祈りでも大切なことは神様に向かって祈ることであり、人々に自分の祈りを誇示するためではありません。
 この譬話の中のファリサイ人は、典型的なファリサイ主義を代表しています。ある律法学者がした祈りが記録されていますが、それは次のようなっています。
 「わが主なる神よ。あなたに感謝します。あなたはわたしを巷にいる人々のようにではなく、学派の一員として立て下さいました。わたしも彼らも朝早く起きますが、わたしは律法の言葉を守るためであり、彼らは空しいものを得るためであります。わたしも彼らも働きますが、彼らは何の報いを受けることができません。わたしも彼らも走りますが、わたしは天国の命に向かって走り、彼らは地獄の底に向かって走っています。」
 神の恵みにより、善をなすことができるのを感謝することは、祈りの大切な要素です。しかし、本当に感謝する者は、自分のした善き業を人に対して誇り、また神に向かって善き業の報いを要求することはありません。要するに、イエスはファリサイ派の人々の祈りが神によって聞き上げられることはないのだ、と仰せられました。

(3)神に聞かれる祈り
 他方、徴税人は次のように祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
 これは非常に短い祈りです。彼は自分の罪深いことを自覚し、ただ憐み深い、恵み深い神様の性質に寄り頼んで、心を祈りに集中させ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と一心に祈ったのです。
 「憐れむ」と言う言葉は、ギリシャ語で「ヒラスコマイ」と言います。これは罪を贖うと言う意味があります。詳しく言えば、神の立てられた大祭司の献げる犠牲によって、神がわたしの罪を御前から取り去ってくださるという意味です。
 それでは、この徴税人の祈りに対して、主イエスは何と言っておられるでありましょうか。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」と仰せられました。
 この徴税人が「義とされて家に帰った」と、主イエスは言われたのです。「義とされる」と言う言葉は、「神との正しい関係」に入れられるとの意味です。神は御自身の正しさを貫かれる真実な方です。それゆえに神は神ご自身なのです。神は恵み深い主権者なのです。その神との正しい関係に入れられるとは、罪が贖われ、同時に神の正しさを無償で授けられて、神との人格的な交わりに入れられると言うことです。
 また、「義とされて」というギリシャ語は、現在完了形ですので、「義とされた」状態が神殿において彼が祈った時から、現在まで続いていると言う意味です。それはどうしてでしょうか。
 彼の祈りの中に神に対する本当の信仰が働いていたからです。
 しかし、徴税人である彼が罪深い自分の祈りを神様が聞いて下さると言う確かな信仰を持つ可能性は、果たしてあるのでしょうか。もちろん彼自身の中には毛頭もありません。それゆえその可能性はこの譬話を作られたイエスご自身の中にあるのです。
 父なる神を完全に知り、父なる神の意志を完全に実行しておられた神の御子イエスは全く罪のない方です。そのイエスから見れば、ファリサイ派に属する律法学者も、世俗的なグループに属する徴税人も、等しく罪人です。皆神に背き、神を感謝せず、自己の名誉を求め、或いは自己の利益を求め、神から見れば失われた人間です。イエスは神が罪の束縛の中にある悲惨な人間を愛し、探し求めて、神のもとに連れ戻すために、神から遣わされた方です。
 この譬話の中での主人公はあくまで徴税人であり、ファリサイ人ではありませんが、ファリサイ人の救いは彼らも悔い改めた徴税人のようになることによってのみ可能なのだと暗に示唆されています。
 従いまして、極めて世俗的な徴税人が本当に自分の罪を自覚し、「神の憐れみ」を切実に祈るようになりましたのは、彼が主イエスに出会ったからです。もちろんこの譬話の時点ではまだこの徴税人は主イエスと出会っていません。しかし、この譬話の背後に主イエスがおられるのです。そしてこの徴税人に罪の自覚を与えられたのです。さらに聖霊を通して、彼に神へ信仰を与えられたのです。
 さらにもう一歩踏み込んで、その霊的な現実を見れば、復活の主イエスがこの徴税人の祈りを執成しておられるのです。復活の主イエスは神の定められた永遠の大祭司として、この徴税人のために父なる神の御前で執り成しの祈りをしておられるのです。
 人は誰でも主イエスに出会って初めて、自分の罪深さを知ることができるのです。それだけでなく必ず神に罪の赦しを祈り求めるようになります。その不思議な理由は、主イエスの中にこそ、人間の悔い改めに先行する神の赦しがあるからです。
 ペトロが初めてイエスと出会ったとき、彼は自分の罪深さを自覚しました。ペトロは恐怖の念に襲われ、イエスの膝元にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです。」と言いました(ルカ5:8)。しかし、主イエスはペトロに向かって「恐れることはない。今から後あなたは人間をとる漁師になる。」と仰せになって彼を弟子とされました。

(4)わたしは父に至る道である
 今や復活の主イエスは罪人と出会い、わたしはあなたの罪を十字架の死によって贖った。わたしはあなたの贖いであり、義であり、命である。あなたはわたしによって父なる神との正しい関係に入れられている。このことを信じ、神に祈り、神に求め、神に従いなさい、と復活の主はわたしたちに仰せになるのです。
 そして父なる神は御前から離れ、罪と闇の中をさ迷い、罪の支配の中に置かれていたあなたを愛し、わたしによってあなたを探し出し、わたしを通してあなたと出会い、あなたを神の家にいる神の子たちとされたので、わたしはあなたを父なる神のもとに連れ帰る。わたしこそあなたが父のところに帰る道である。それゆえわたしに従って来なさいと命じられるのです。
 罪人は誰であっても、復活の主イエスが探し出し、出会い、御言葉を語り、信じなさい、祈りなさい、従いなさいと仰せになりますので、確信を持って父なる神に祈ることができるのです。
 そのとき、神との正しい関係に入れられ、天にいます父なる神の家に帰る悔い改めの旅路を歩み始めます。この神への帰還はまことに恵み溢れる霊的現実です。イエスはこの事実を放蕩息子の譬えで教えられました。それがルカによる福音書の15章に記されている有名なあの譬話です。
 自分の利己的な考えによって、父に反発し、父のもとを立ち去り、放蕩に明け暮れ、その結果食べ物にも困り、乞食同然となった息子は、初めて父の愛と正しさと偉大さとに気づき、父の気持ちが分かりました。今や彼の切なる願いは父に対して自分の罪を告白し、父の赦しを求めるために、家に帰ることでした。この譬話のように、復活の主イエスは罪人であるわたしたちを実際に天にいます父なる神のもとに導かれるのです。
 このような人生を歩むわたしたちにとって、「復活の主と出会うこと、聖霊により聖書の御言葉を理解すること、父なる神の愛を知ること、主イエスの復活の命の力を知ること」、これらが自分の生き生きとした体験となることが一番切実な問題です。そのためには祈りが必要です。祈ることにより確信が与えられるのです。また既に与えられている確信が日々新たにされます。
 わたしたち信仰者は絶えず罪深い古い自分を乗り越え、復活の主イエスの中で既に与えられている新しい人間、主イエスの性質を映し出す人間へと変革され、清められ、高められる人生を歩むこと、これが神のもとへ帰ることなのです。



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