2010-09-05(Sun)

決断の必要 2010年9月5日の礼拝メッセージ

決断の必要
中山弘隆牧師

 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
ヨシュア記24章14~18節

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
ルカによる福音書9章57~62節

(1)自分の人生を選ぶ必要
 人間が動物やロボットと異なる点は、運動能力、感覚、あるいは考える能力がそれらにまさっているというのではなく、自分が何であるか、自分の意義は何であるかを思索する、ということです。
 「人間は考える葦である」と言うパスカルの言葉は有名であります。それは河原に生い茂り、風になびいている葦のように、人間は極めて弱い存在ですが、同時に自分の人生の意義について考える存在であるというのです。それに対して人間が創り出したロボットや機械は自分の存在の目的について考えることは致しません。人間だけが人生の目的と存在の意義について思索するのです。
 旧約聖書のコヘレトの教えにはこのような言葉があります。
 「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(3:11)
 旧約聖書でいう「永遠」とはいつまでも続くことを意味するよりも人類社会の存続し得る時間全体を意味しているといわれています。その時間全体はその中で人類のすべての出来事が起こる範囲でありますので、人類の歴史が成り立つ場所であるといえます。人間は人類の歴史や自分の人生の中での自分の生き方を考えることによって、自分の存在の意義を知ろうとします。それゆえ永遠を思う心とは、人生の意義を考える心です。
 しかし、コヘレトの言葉は次のように言っています。
 「それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない。」
 これはどういう意味でありましょうか。もちろん、神は創造者であり、全知全能の神でありますから、人間が存在しない以前の神の業を人間は知ることができないのは当然です。しかし、それだけでなく、人間が歴史の中に主人公として登場するようになってからも、神が人間の歴史の中で、行っておられる神の業を見極めることはできない、という意味です。
つまり、このコヘレトの言葉は、人間が神から離れて、自分の人生の意義を知ることはできないと言っています。
それゆえ、コヘレトはまた次のように勧めています。
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を止めよ、苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに。」(コヘレト12:1)
 人は自分の人生について考える青春の日々にこそ、人生の意義を与えられる方は、万物の創造者なる神だけであることを知ることが絶対に必要だ、というのです。神をまさにそのような方として深く心に留めなさい、と奨励しています。
 この勧めを心に受け止めるとき、さらに解決すべき重大な課題があります。
 これはある意味で旧約聖書全体の課題である、いえます。
イスラエルの民は、律法を通して、神についての知識を与えられました。神は全知全能の神であり、世界と人間の創造者であり、恵み深い支配者であることを啓示されました。そこでイスラエルの民が選ばれた目的は、彼らが神の御前で正しく生きることによって、人類に神を証するためでありました。そのため、神はイスラエルの民に彼らのなすべき正しい行いを示し、正しい行いは報いられると約束されました。他方、彼らが悪を行う場合は、それを罰すると警告されました。
 しかし、この段階で、神について彼が得た知識は、無神論とは対照的な有神論的な神概念だけです。そこで民は自分たちの所有する神概念を信じることが、正統的な信仰であると誤解していました。所詮そのような信仰は、自己の正しさを主張する自己満足に過ぎず、人格的な生ける神に対する信仰ではありませんでした。自分たちの信仰は正統的であると自負し、実は大きな不信仰に陥っていたのです。その結果、神の御前で生きる本当の命は体験できませんでした。
そのような形だけの不毛な信仰から、救出され、神との交わりの中で生きることが、可能となりましたのは、実に神が主イエスを通してご自身を罪人に啓示してくださったからです。
この究極的な神の出来事において、もはやイスラエルと異邦人との区別が撤回され、すべての人間が、すなわち、すべての罪人が神との出会いに直面するようになったのです。これが主イエスの福音です。

(2)神との出会い
 従いまして、信仰とは人格的な生ける神と出会うときに、わたしたち人間が人格的に神に応答する唯一の在り方なのです。それでは具体的に何処でわたしたちは神と出会うのでしょうか。神との出会いは礼拝のなかで常に出来事として生起しているのです。
 今、わたしたちは主イエスの臨在される場所にいるのです。主イエスはわたしたちに向かって、聖書の言葉を通して、語られます。それゆえに、わたしたちは聖書の中で主イエスと出会っていた弟子たちと同じ場所に立ち、彼らと同時的になることができるのです。

 それでは主イエスと出会った彼らは何を要求されたのでしょうか。本日の聖書の箇所でありますルカによる福音書9章57節以下にありますように、「わたしに従ってきなさい」と言う命令を受けました。
しかしこの命令にはそれ以前の物語があります。
 神の国についての主イエスの宣教は、喜びに満ちた言葉と主イエスの力強い業によって、イスラエルの人たちの関心を集め、主イエスは至る所で熱狂的な歓迎を受けられました。ところが今は民衆の熱が冷め、彼らは主イエスの教えを拒絶するようになりました。どうして手のひらを返したように、彼らの態度は豹変したのでしょうか。それは彼らが最初の内はイエスの教えによって、自分たちの期待している救いが実現するのではないかと思って歓迎していたのですが、イエスの教えがいよいよ核心部分に近づき、神の救いとイエスの人格とが不可分離に結びついていることが次第に明らかになるにつれ、イエスの人格の神秘を前にして人々は躓いたからです。なぜならば、イエスの立場はモーセのように神の御心を教える教師である段階をはるかに通り越して、神がイスラエルに与えられる救いそのものである、と主張されたからです。そのような者としてイエスに対する絶対的な信頼と従順を要求されたからです。
 ヨハネによる福音書によりますと、イエスは「わたしは天から降ってきたパンである」と仰せになり、さらに「このパンを食べる者は永遠の命に生きる」と教え、さらに「わたしの与えるパンとは世界の命のためにあたえるわたしの肉である」と宣言されました。ここに至って、多くの人々はその言葉につまずき、「これは実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」といってイエスから離れていったのです。
 それに対して、イエスは十二弟子にこのように訊問されました。「まさかあなたたちも立ち去りたいのではなかろう」と仰せになりましたが、そこでペトロは「主よ、わたしたちはだれの所へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)と答えました。
 このように神の恵み、神の救いそのものである主イエスと出会うときに、人は信仰の決断を要求されるのです。「あなたたちも離れて行きたいのか」と言うイエスの問いに対して、ペトロのように「主よ、わたしたちはあなたの所に留まります。」という決断を要求されるのです。

(3)決断の必要
 ルカによる福音書では、ある人が「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」というと、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所がない」と仰せられました。
 これは信仰の決断が本当の意味で、主イエスの行かれる所ならどこでも従って参りますと言う決断でなければならないからです。つまり、今後の生活がどのようになろうとも、一切を主イエスに委ねて、主イエスに従っていくと決心することです。主イエスは父である神に絶対の信頼を寄せて、「枕するところがない」という生活のいわば極限状態の中でも決してかき乱されない平安を体験しておられました。同じように、主イエスに従う信仰者は、どのような困難に遭遇しようとも、イエスの平安を与えられ、イエスについて行くという決断が必要なのです。言い換えれば、信仰の決断によって、御言葉を通してわたしたちと直面される復活の主イエスとわたしたちは結びつけられ、主イエスとの人格的な交わりに入るのです。
それ以後のわたしたちの人生において主が共におられ、神がわたしたちのために計画された人生を歩ませて下さるのです。
 また、次の人は、「主よ、まず、父を葬りに生かせてください」と言いました。それに対してイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と命じられました。
 これは父の葬式を子どもはしなくてもよい、と言うことではありません。神の戒めは「父母を敬え」という戒めを含んでいますので、子は親の葬儀を行う責任があります。しかし、親に対する子どもの愛情や責任も神の国に対する信仰の決断と比べると、はるかに小さい、と言えるのです。神の国が主イエスを通して、わたしたちに直面しているその現場に立たされたとき、神の国に対する信仰の決断が優先しているからです。また、ここで「死んだ者」と呼ばれてる人とは、必ずしも肉体的に死んだ人ではなく、「霊的に」死んだ者であります。それは神の国の福音に注意を払わない者であり、すでに信仰の決断を放棄した者のことです。
 次に、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言う者に対して、イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と仰せられ、直ちに主イエスに従うように命じられました。
牛が引っ張っている鋤から手を離す途端に、畑の畝は曲がってしまいます。それと同じように、神の国は主イエスを通して、この地上の時間の中に突入して来ているのです。それに対してわたしたちはまともに向き合わなければ、振り落とされてしまうのです。それは正に緊急事態であります。その他の人間のすべての営みを一時停止して、その緊急事態に応答しなければならないのです。主イエスを信じたいと思いながらもなお躊躇している者に、主イエスは今が決断の時だと仰せられたのです。言い換えれば、主イエスに従うか否かを決めることが緊急事態であり、その他の人間の営みは、主イエスに従う人生の中で、再び新しい場が与えられるのだ、と仰せられたのです。
なぜなら、主イエスに従って行くことは、地上を去ることではなく、この地上で神の国の命に生きる人生でありますから、人間の営みは再び新しい観点から正しい位置を獲得するのです。しかし、その前に絶対的な信頼を以て主イエスの呼びかけに応答する信仰の決断が要求されるのです。
 それではここで、重要なことはキリスト教の信仰とは何かということです。それこそ、十字架について、人類の罪の贖いを全うし、死人の中から復活された神の御子、ナザレのイエスを主と信じることです。
「イエスは主である」と信じることです。主とは人類の救いのために、人間となられた神のことです。イエスが神の御子であり、救い主であると信じることです。
同時にこのことは信仰の決断を必要とします。つまり、わたしたちは自分自身に対して、イエスを主とするという決断です。さらに、わたしたち人間を罪から救うために、十字架について死に、死人の中から復活されたイエスこそ、神の御子であり、真の神を啓示された唯一の方として信じるのです。
同時にこの信仰は、主イエスにおいてご自身を啓示された神を、わたしたちは自分自身に対して、わたしたちの神とする決断であります。
それゆえ、わたしたちはもはや自分自身のものではなく、主イエスの所有物として生きることを自分自身に対して決断するのです。しかし、このことはわたしたちがイエスの奴隷になるということではありません。
正にその反対であり、イエスはご自身をわたしたちのために与えられたのです。このことによってのみ、わたしたちは神の御前に清く正しい者である新しい自分が、主イエスの中に与えられたのです。信仰の応答とは、まさに人知を超えた神の恵みのこの事実を信じることです。
 従いまして、わたしたちは主イエスの中に新しい自分が与えられていることを、本当に信じているならば、日々新しく信仰を働かせ、新しい自分にいきることが、主イエスに従う人生を歩むことです。
主イエスを信じ、決断することはこのような重大な意味を持っています。正に、神から離れ失われていた者が、神に見いだされ、神のみ前に永遠に生きるものとなった、という大変革が起こったのです。ここに感謝と喜びと平安が自分の人生全体を包みます。

(4)知るために信じる
 最後に、神を「知る」ということは、神を「信じる」ことを通してであり、信仰が知識に先行している、ということをわたしたちは心にしっかりと留めなくてはなりません。なぜならば、人間と世界の創造者である生ける神がご自身を人間に啓示されるのは、信仰を通してであります。
信仰こそ、神と交わる唯一の道なのです。しかし信仰は決して理性を退化させるのではありません。信仰の中でこそ、知性は正しく働くようになるのです。
信じる者には神の恵みの豊かさと、無限に尊い神の性質と全能の働きが知らされ、神を賛美するのです。



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