2014-04-13(Sun)

十字架上のイエスの叫び 2014年4月13日の礼拝メッセージ

十字架上のイエスの叫び
中山弘隆牧師

 彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
イザヤ書53章4~6節


 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
マルコによる福音書15章33~41節


(1)歴史の中で起こった神の事実
 本日は主イエスの十字架の苦難と死とを覚えて礼拝を献げています。人類の救いに対する信仰は神が主イエスの十字架と復活によって実現された神の事実に基づいています。
 イエス・キリストに対する信仰は決して神話から由来しているのではありません。イエス・キリストは歴史的に実在された方です。 
 それゆえ、考古学者たちは聖書がイエスの十字架はゴルゴダの丘の上に立てられたと記している場所を特定することができると考え、19世紀なってから発掘調査を進めてきました。遂に1849年にその場所が発見されました。今ではゴルゴダの丘はすっかり建物に覆われて全体の姿は分かりにくいのですが、聖書に記されているように、その地形は人間の頭蓋骨のような形をしていることが考古学的に証明されました。
 また、聖書はイエスと共に二人の犯罪者が十字架につけられたと言っています。
 「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。」(15:24~27)
 このような十字架の光景は歴史的な事実を物語っています。イエスは処刑された犯罪者と共に、しかも『ユダヤ人の王』として、言い換えれば「救い主」として、十字架に架けられたと証しています。
 確かにイエスの十字架は当時の歴史の関連では、祭司長や律法学者や他のユダヤ教の指導者たち、さらにローマの総督ピラトが表舞台に現れています。ユダヤ教の指導者たちはイエスがユダヤ教を根本から破壊する危険人物であると判断し、自分たちのユダヤ教を守るためにイエスを殺害する計画を立て、それを実行しました。
 他方、ローマの総督はユダヤの民衆がメシアのもとに結集し、ローマ帝国に反乱を起こすこと恐れ、イエスを十字架の刑につけたというのが、歴史的な原因であるかのように見えます。
 しかし、イエスの死によって引き起こされた新しい状況はユダヤ教の指導者たちやローマの総督が全く予想していなかったことです。
 それは人間が自分たちの力と計画によって歴史を動かしているように見えても、実際に人類の歴史を支配し、歴史の流れの中でご自身の目的を実現される方は人間の目に見えない唯一の神だからです。それゆえ歴史の流れを決定する要因は人間が神に対してどのように応答するかということ、或いは神が人間に対して神の主権をどのように行使されるかということです。
 イエスの十字架の死は、人間の様々な要因から引き起こされた事件ではなく、神が人類の救いのために考え、ご自身で行動されたことにより出現した神の出来事です。
 真理と命の源泉であり、その所有者である神は人間と世界に対する絶対的な自由をもって行動される主権者です。人間はそのような主権者である神の恵み深い目的によって、創造された者たちです。それにも拘らず人間は自分たちの創造者に感謝せず、自分たちの思いと力に頼って生きた結果、罪の力に束縛されてしまいました。
 人間のこの悲惨な状況は人間を創造された神の意志に反しています。それゆえ神は人間が神を知り、自ら進んで喜んで神に従い、神の真理と命に生かされる新しい人間、言い換えれば神の子供とするために、人類の救いの新しい時代を切り開かれたのです。

(2)人類とご自身を結び合わされた神の御子
 実に、イエス・キリストの誕生と生涯と十字架の死と復活と言う歴史的事実は、人間に対する神の意志と行動によって出現しました。
 この特殊な歴史の意味は神が人間と決定的に関わって、人間の救いの道を設立されたことです。先ず、神の御子が人間となられたイエス・キリストの存在と生涯は、神が人間と共におられると言う神の事実であります。同時に人間が神と共にいるという人間の事実なのです。これこそ神が人間を愛し、人間の意志と考えと行動の中に、神ご自身を与えられたことに他ならないのです。
 実に人間存在の中に、神は御子イエスを与えられたことにより、神は人間と最終決定的に関わられたのです。この神の事実がイエス・キリストです。
 キリストは父なる神の意志を知り、それを実行する人生を歩むことにより、父なる神に完全に従われました。この視点から見れば、キリストは神と共に生きる「新しい人間」なのです。
 他方、キリストは神としてわたしたち人間に向かって、神の御言葉を語り、ご自身の性質によって、父なる神の性質を完全に示されました。この視点から見れば、キリストはわたしたち「人間と共におられる神」であります。
 
(3)ご自身を与える神の愛
 そのような神の御子イエスの生涯の歩みの「完成」として、人類を罪の束縛から解放するため、神は「人類の罪」を神の御子イエス・キリストにおいて裁かれました。
 御子はこの神の裁きを受け入れ、自ら進んでご自身を永遠に人類に与えられたのです。それでは神の御子はどのようにしてご自身を人間に与えられたのでしょうか。
 正にそれは神の御子が罪人であるわたしたちとどこまでもご自身を連帯化させ、罪人の責任を一身に引き受けてくださったことによってであります。神の御子は徹底的にわたしたち罪人の側に立ち、わたしたちのすべての罪を担い、わたしたちの罪について、その連帯責任者となってくださいました。
 いわば破産者のように、わたしたちの人生は罪と言う無限の負債を負っていますので、罪の負債を自分の力で返済することはできないのです。人の負債は死んでも残るように、罪人が死んでもその罪は償うことはできません。それは罪の全くない神の御子が罪人に代わって正しい死に方をされることによって初めて、人間の罪は取り去られ、人間は根底から清くなるのです。
 これは神が人類を罪から解放して、人類を神と共に生きる清い新しい人間にするため定められた神の方法です。

(4)御子の叫び
 次に、十字架の上での御子の苦しみは何であったのでしょうか。マルコによる福音書は次のように言っています。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これはアラム語であります。アラム語は当時のユダヤ人が話していた言語です。イエスはアラム語でこのように叫ばれました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。
 ああ、これは何と言う悲しみと苦しみに満ちた言葉でしょうか。人は極度の苦しみを経験するとき断腸の思いであると言いますが、イエスの場合はそれより遥かに恐ろしい苦しみです。
 この叫びはイエスが祭司長や律法学者やその他の群衆から嘲笑され、恥にさらされると言う苦しみを表しているのではなく、実に神との交わりから切り離され、虚無の中で孤独な死を迎える恐ろしさを表しています。
 イエスは御子として、つねに父なる神との交わりの中で、御言葉の真理と力を受け、命と喜びに満たされ、父なる神の御心を行い、父なる神と共に歩んで来られました。その御子が今や父なる神から全く切り離されたのです。それは全くの暗闇です。聖書はイエスがこの叫びを発せられた時、ちょうど闇が全地を覆っていたと伝えています。そのとき太陽が「シルコ」という砂嵐で隠されてしまったのでしょう。
 しかし、イエスの心の中はもっと暗闇に包まれていました。これが人類の罪をご自身で担われ、罪の裁きを受けられたイエスの状況です。
 それでもなお、御子イエスは父なる神に従順であったのです。イエスの他に一体誰がそのような状況の中で、なお神を信じ、神への従順を貫くことができるでしょうか。それは誰もできません。きっと神を疑い、反抗し、神を呪う言葉を吐いてしまうでしょう。最早そこに信仰はありません。
 しかしそのような人間を神は裁くことはできないのです。なぜならば、神の裁きは人間に対して神の正しさが貫徹することであり、その結果人間が清い、正しい人間となることであるからです。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの悲痛な叫びは、神を「わが神」と呼んでいます。神から見捨てられたと言う状況の中で、「わが神」と言う言葉は正にイエスの心の底から発せられた「信頼の言葉」です。この言葉は次の二つの事柄を告白しています。
 第一に、主イエスはわたしたちに代り、わたしたちの罪を告白し、罪に対する裁きである死をご自身に引き受けられたことです。
 第二は、主イエスは神の正しい裁きを通して、神の義が人間の中に貫徹し、神は人類に新しい存在と命を与えられると信じておられたことです。
 このように死に至るまで父なる神に従順であったので、神の御子イエスは人類の救い主としての使命を完全に果たされました。
 ヨハネによる福音書19章30節は、このときイエスは「成し遂げられた」と言われたと伝えています。この御言葉はたった今自分が救い主の使命を果たし終えたという感無量の思いが込められています。そのようにして神の御子イエスは最後の息を引き取られたのです。
 なお、マルコによる福音書ではローマ軍の百人隊長の告白を伝えています。彼はイエスの十字架の一番近くにいて、そこで起こった一部始終を監視していました。彼は「本当に、この人は神の子だった」と深い感動をもって証言しました。
 彼はローマ軍の百人隊長として、十字架の身体的な苦痛、精神的な苦悩、恐怖は普通の人間が正気では到底耐えられない過酷な現実であることを熟知していました。しかし、イエスは身体的な痛みと悲しみと恐れにより意識が失われていく激しい衰弱の中で、ご自分の使命を果たされたのです。死に吞み込まれながら、なお死に負けないイエスの精神力をつぶさに目撃して、この方こそ神の御子であると思ったのです。  
 同時に、これほどまで痛みと恐怖に圧倒されながら、ご自身を人類のために与え尽くされたイエスの愛を感じて、これほど深い愛は人間の愛ではなく、正に神の愛である。イエスこそ神の御子であると直観的に分かったのです。
 神の御子イエスがわたしたち罪人をこれほど深く愛して下さり、ご自身をわたしたちと結び合わされた十字架の死ほど尊い現実は他にはありません。
 それゆえ、神の御子がご自身をわたしたち人間と結び合わされたという「存在的な恵み」は、決して過ぎ去ることのない永遠に有効な霊的現実です。
 人類の罪を背負い、人類に代わって罪を父なる神に告白し、罪の結果である死を引き受け、死に呑み込まれながらも、なお父なる神が人類を新しい人間とするために、ご自分を死人の中から復活されられることを確信して、イエスは死なれたのです。これは死によって死に勝利されたことなのです。
 言い換えればイエスは人間が神との交わりの中で生きるために必要な「神の義」を「人間のため」に達成されたのです。

(5)千歳の岩
 神の御子イエスの十字架の死において、イエスが人間のために達成してくださった「神の義」によって、主イエスを信じる者に、罪が赦され、罪の束縛から解放されるのです。そして神に仕える自由が与えられるのです。それゆえ、神の御子イエスの十字架は永遠に変わることのない「救いの岩」です。
 讃美歌449番で、「千歳の岩よ、わが身を囲め、裂かれし脇の血潮と水に 罪も汚れも 洗い清めよ。」と歌っていますように、主イエスの十字架こそわたしたちに罪の赦しと永遠の命を与える千歳の岩なのです。
 最後にしかし誤解してならない大切な点は、わたしたちは「神の御子イエスの中」で、すでに神の御前で、正しい者、自由なる者、神の子たちとなっているのであり、「自分自身の中」で罪が無くなり、清い者、自由な者となっているのではありません。そうではなく、主イエスと「繋がり」、主イエスに「従う」ことの中で、罪に対する勝利、神の御心を行う自由を発揮することができるのです。
 なぜならば、罪と戦い、罪に勝利する力、神の命令を実行する力はわたしたち自身の中にあるのではなく、主イエスの中で既に与えられているからです。それゆえ、わたしたちは主イエスに従う信仰の人生を歩むことが重要なのです。



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