2014-03-30(Sun)

罪のもたらす破綻 2014年3月30日の礼拝メッセージ

罪のもたらす破綻
江田めぐみ伝道師

 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
創世記4章1~16節


 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
ルカによる福音書18章7~8節


 人間は、感情の動物です。自分の気持ちをしっかりとコントロールするということは、とても難しいことです。時には、自分自身の感情をもろに出して、他人とのトラブルに巻き込まれることも起こります。ほんの些細な事でも、感情の持ち方一つで、相手を不愉快にしてしまうことが起こります。
 昨今の報道や、ニュース、新聞等を見ても、世の中の楽しいことよりも、暗く悲しい事件や事故等のニュースが、目の中に飛び込んできます。又、ゲーム感覚で、人を物のように考えて簡単に人を殺めてしまうことが起こっているのです。

 カインとアベルの物語は、私たちの最初の両親の罪が、どのようにして彼らの最初に生まれた子、すなわち、その弟アベルを殺したカインに移されて行ったかを示しています。
 エデンの園ではアダムとエバのために神さまはすべてを整えてくださり、日々の仕事は新鮮で喜ばしいものでありました。それが、蛇からの誘惑から、禁断の木の実を食べたことにより、彼らの生活は一転して、彼らは自分たちと家族のために食糧、衣服、住まいを得るために自然と戦い、苦労しなければならなくなりました。
 
 「アダムは妻エバを知った。」(創4:1)ヘブル語の知るは、たんに知的作用ではありません。それは何かを、あるいは誰かを経験することを意味するのです。例えば「神を知る」ことは、単に神について知的に知ることではないのです。「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている、しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。」(イザヤ1:3)それは救いの道において、神を知ることであるのです。人間界における最も高く、最も完全な知識の表現は、夫と妻との間の愛の関係であるのです。
 カインの誕生の時、エバは「わたしは主によって男子を得た」(創4:1)と母エバが喜びの叫び声をあげたので、それにちなんでカインという名前をつけたのです。カインという名は、ヘブル語のカーナーすなわち、「得る、造り出す」と言うことで、「わたしは主によって一人の人を得た」と言う意味です。カインは喜び祝われた者であり、存分に気にかけられているのです。エバは、男の子を産んで、活気に溢れました。こうして彼女は、「すべて命あるものの母となった」(創3:20)として、この世に使命を果たすのです。
 けれどもアベルの誕生は、カインのように喜ばれたようなもので、ありませんでした。こうして、エバは、カインを産み、次にアベルを産んだのです。
 アベルという名前は「息、はかなさ、空虚さ、無意味、無価値、虚無」と言う意味を持っていますが、この名前の意味は、生命の可能性のなさ、無意味や無価値のようにみなされる存在、はかない存在を象徴しているのです。
 新約聖書の時代までは、この事柄があべこべになっているのです。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に捧げ、その信仰によって、正しいものであると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブライ11:4)というように、アベルは信仰の人であるのです。それに対して、「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」(Ⅰヨハネ3:12)とカインは悪しき者のうちに教えられているからです。
 カインは土を耕す農夫になり、アベルは羊飼いとなりました。羊を飼う者と土を耕す者は、生活をするために必要な仕事の分担を意味するのです。牧畜と農業は古代社会の基本的な生活形態でありました。雨の多い年には共存的関係が成り立っておりましたが、そうでない場合にはしばしば対立や闘争が生じたのです。又、この二つの関係は全く切り離すことが難しいのです。

 「カインは土の実りを主のもとに捧げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」(創4:3-4)土の実りを主のもとに捧げ物として持って来たとは、初物を捧げること「あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。」(申26:2)
 アベルは心の底から感謝を持って神に近づいているのに対し、カインは神との関係を維持するためにのみ捧げたのです。捧げ物は神の要求によるものではありません。自発的感謝の表現と思われ、礼拝が人間の本性に基づくことを暗示しているのです。
 主は、アベルとその供え物には目をとめられたけれども、カインとその供え物には顧みられなかったということです。
 なぜ神さまがアベルの捧げ物にだけ目を止められたかというと、最良のものを捧げようとする神への態度が中心にあることは、明らかに、アベルの供え物は肉から成っていたので喜ばれたのだろうか。けれども、地の初めの産物の供え物は、モーセの律法によれば、主に喜ばれるのです。おそくカインが供え物を捧げた時に、何か儀式的に不適当なことがあったのだろうか。しかし、たとえそうだとしても、私たちには何が不適当であったかどうか教えられていないのです。

 6節にある二つの問いは、「どうして怒るのか」「どうして顔を伏せるのか」は、明らかにヤハウェの側の策略であります。彼は既に答を知っているのです。実際のところヤハウェは、カインが知っている以上に、答をよく知っているのです。
 カインの捧げ物が受け入れなかった理由が明らかにされなかったことこそ、神がカインにとり隠された神となり怒りの神となったのであろうかと考えられます。けれどもカインは捧げ物が受け入れられなくなった理由を反省する能力がなかったとは考えにくいのです。
 「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に捧げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の捧げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブル人への手紙11:4)主が初めにアベルを、そして彼の供え物を顧みられ、次に、カインと彼の供え物を顧みられなかったということは、ヘブル語聖書の原文によれば、供え物をする者、あるいは、少なくとも供え物をする者の精神が、その供え物よりも主にとって大切であることを示しているからです。神はアベルの供え物を、特別の好意を持って顧みられたのに、カインはそれとは反対で、神から顧みられなかったのです。すると、カインは激しく怒って顔を伏せたのです。主はカインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創4:6-7)と言われたのです。「顔を伏せる」ということは不満と怒りのゆえに激しい怒りに震えながらそのような態度をとったのであろうし、怒りによって更に罪を重ねるのです。
 「どうして怒るのか」怒るべきはむしろ神の側にあるのです。神は、カインの外に向けられた怒りの目を内に向かわせ、事の真相を直視させようとするのです。正しい応答によって理性に帰り、神に帰るべきであったのです。それは神が備えられた悔改めの機会なのです。ですから、カインの捧げ物が拒まれたのも恵みの故であることが分かるのです。
 「罪は…待ち伏せて」とは、待ち伏せるが野獣の行動になぞらえた表現であります。カインの怒りをおさえるよう主から戒められているのです。戸口で待ち伏せする動物のようにうずくまっている罪が、抑制を失うと、人間におどりかかって、その魂を手に入れようと待ちかまえている、ということを神は彼に告げられるのです。しかしカインは神の忠告を聞かず、ねたみと憎しみが自分を圧倒するにまかせてしまい、弟を殺してしまうのです。

 神は回復のために人に語りかけられるのです。しかしこの語りかけは、人から人への語りかけにとって代わられるのです。そこからは暴力による殺りくが生まれるのです。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」(創4:9)カインへの神の言葉に、アベルの言及はないのです。カインは, アベルとその捧げ物だけが受け入れられたことを強烈に意識しているのです。それはまさしく嫉妬です。カインはアベルに対して、妬みそねむことで、心が震えそれが憎しみとなってしまうのです。ですから、神の警告は瞬時に踏みにじられてしまうのです。憎しみが殺人になり、罪が熟して子を生むことを、体験的に知ったという、生々しい現実を意味するのであろうと思われます。弟の死の恐るべき現実、恐れて逃れようとするものへの問いかけは、悲劇的であり、神は人間相互の犯罪をご自分への反逆として問いかけているのです。しかし、ここにも回復への機会、人間関係の根底としての神との和解の機会が備えられているのです。「知りません。わたしは、弟の番人でしょうか。」(創4:9)知りませんとは、明らかに嘘であり、神への抵抗を表しています。四六時中、弟を見守っていなければならないとでも言うのかと。弟の殺人は告白を否定させて、やがて自分の死に直進させるのです。語気の強さが心の中の恐怖を示しております。

 「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」(創4:10)殺人の血は、不自然に流される血であり、死んで既に声なき者であるからこそ、神に向かって叫ぶのです。復讐してくれるはずの近親者によって殺されたアベルのためには、主への叫びしか他にはないのです。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうって置かれることがあろうか。……人の子が来る時、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:7-8)

 「今、お前は呪われる者となった。」カインは直接的に、自らの身に呪いを受けるのです。「口を明けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」(創4:11)土地の呪いは、たんに物理的でも、神話的でもないのです。倫理的、道徳的な事実が実際の生活に及ぼす影響を示します。ですから、罪によって汚されたことを示します。
 「地上をさまよい、さすらう者」とは、糧を得られないために、次から次へと場所を変えなければならない者の放浪ということであるのです。「子らはみなしごとなり、妻はやもめとなるがよい。子らは放浪して物乞いをするがよい。廃墟となったその家を離れ、助けを求め歩くがよい。」(詩篇109:9-10)作物の実りをもたらさなくなったので、農耕者は土地を離れ、放浪者とならなければならなくなったという、神話的な思考であります。

 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」(創4:13)赦して罪を除く神とも、刑罰に耐えて重荷を負う人のいずれへの言及とも取り得るのです。14節のカインの自分の罪の大きさについてではなく、不満の叫びなのです。罪はしばしば、罪の結果としての罰をすでに含んでいるのです。

 「わたしが御顔から隠されて」とは、どこへ隠れても神の御顔を避ける事ができないことであります。さまよい歩かなければならないのもそのためなのです。ですから、ここでは、逃げ続けようとする絶望的な様相が示されているのです。「わたしに出会う者はだれであれ」(創4:14)人の犯罪は、神からの逃走に結びつくのです。出会う者は既に地上に生きている者だけでなく、やがて生まれ出ようとする世代をも含むのです。

 「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復習を受ける」(創4:15)七倍の復讐を受けるとは、完全数としての七倍は復讐の完全なことを示すものです。カインは、弟の殺害のために殺されることを恐れているのです。その彼のために、神が復讐者となられるとの約束は、神の哀れみの性格を明かにするのです。悔い改めなき罪人の訴えにも神はあわれみを惜しまないのです。なぜならば、カインがその罪にもかかわらず、神によってその生命の存続を赦されている理由と同じであるからです。罰として追放される結果生じること、つまり殺害されるという恐れの軽減を意味しているのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
 「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」(創4:15)しるしとはカインのために、カインに対してでありますが、何であるかが記されていないのです。けれども、このしるしは疑いもなく、カインが恵みを軽蔑したことから生じた罪のしるしであり、殺人のしるしでありました。しかしその同じしるしが又、神から彼に与えられた保護のしるしであり、それによってヤハウェがご自分を、この殺人者の復讐者及救助者として宣言したところの、そして自ら、罪深い人間と言わば平和のうちに親交を結ぶところの契約のしるしなのであります。
 そこには人間の生の持つ、二面性を明確に示しています。罪の認識と恵みの現実とが、この物語の中で、共に生じているのです。

 「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」(創4:16)エデンの東ノドは、エデンの外側にあるのです。さすらいの地で定着することは皮肉であり、神を離れた人間の文化を特徴づけているのです。カインは追放され、神なく、望みなき歩みをするのです。

 カインは、神によって自分自身以上に好まれた兄弟を受け入れることもできたのです。しかし彼は、待ち伏せていた怒りに身を委ねてしまったのです。彼は来るべき時に向けての自分の運命を自ら定めてしまいました。彼は保護の下にあるけれども、家を遠く離れた、家に帰るあてはありません。カインは裁きを受けました。けれども罪を犯したものさえ、驚くべき恵みを経験するのです。

 この物語は「どのように捧げ物をなすべきか」ということを越えています。嫉妬や殺人が兄弟の間に、同じ神の礼拝者の間にもあること、信仰の好意においてさせられることが、問題にされることは確かであります。自己満足的な社会の最初の様相を示しているのです。
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