2014-03-23(Sun)

神に栄光を帰す信仰 2014年3月23日の礼拝メッセージ

神に栄光を帰す信仰
中山弘隆牧師

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
エゼキエル書36章22~24節


 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
ローマの信徒への手紙4章13~25節


(1)生ける神を信じる
 聖書では、アブラハムは信仰の父と呼ばれています。それでは、アブラハムの信仰とはいかなる性質の信仰でありましょうか。ローマの信徒への手紙4章3に次のように記されています。
 「聖書には何と書いてありましょうか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」
 アブラハムは神の約束の御言葉を聞いて、神を信じました。その信仰が神様から彼の義と認められたのです。義とは正しいという言葉ですが、「神様によって義と認められる」ことは、聖書の重要な教えであり、「神様が信じる者をご自身との正しい関係に入れてくださる」と言うことを意味しています。
 このようにアブラハムは神との人格的な交わりの中で生きたことが、アブラハムがすべての信仰者の父と呼ばれる所以なのです。
 実に、アブラハムの生涯は、信仰より信仰に至る生涯でした。そのアブラハムの信仰は神が彼に御言葉を語られ、彼が御言葉に信仰を以て応答したときに始まっています。創世記12章にはこのときの様子が記されています。
 「主はアブラハムに言われた。『あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。----』アブラハムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12:1~4)
 このように彼は神の大いなる約束の言葉を聞き、神を信じて、神の命令に従って、故郷を出発し、神の示されるカナンの地に到着しました。
 ところがそこには先住民族がいましたので、アブラハムはその土地を所有することはできませんでした。それでも神を信じ、寄留者としてその地方を巡回しながら暮らしていたのです。
 そのような生活の中で信仰を堅持し、つねに神を礼拝し神に祈り、神の御心を尋ねて、神から力を受けながら神に従う人生を歩んでいたのです。それではどうしてアブラハムは神を信じることができたのでしょうか。それは神が御言葉を語られるときにはいつでも、御言葉が真実であることを神ご自身が証されるからです。このことが特に重要です。つまり神が御言葉を語られるとき、その場に神ご自身が臨在されるからです。そして御言葉を聞く者と出会い、神はご自身の意志と絶対的な自由と真理と恵みに満ちた方として、万物の創造者であり救済者である方としてご自身を示されるからです。
 アブラハムは生ける神の「霊的な現実」と直面し、人間を救う命に溢れた生ける神ご自身と出会ったとき、その場で神を信じました。
 それゆえアブラハムは人間の教えや理論によって神を信じたのではなく、また奇跡やその他の印を見て神を信じたのではありません。
 実に神ご自身が「アブラハムの心に直接語られる」ことによって、神を信じたのです。それはアブラハムの心に「聖霊」が与えられたからです。聖霊がアブラハムの心を照らし、聖霊が神の言葉に対する確信を与えたのです。つまり「聖霊」がアブラハムの心に信仰を引き起こしたのです。
 従って、アブラハムは聖霊による信仰が与えられましたので、何にも勝る確信が与えられ、寄留者の不安定な生活の中でも、心は少しも揺らぐことなく、信仰を堅持して神に従ったのです。

(2)神の真実に寄り頼む
 しかし、あるとき彼に試練が訪れました。それはアブラハムの信仰の生涯における最大の危機でした。なぜならアブラハムにとって神から与えられた人生の唯一の目的である「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」という神の約束が自分に子供がないので実現しないのではないかと言う大きな疑問です。既に彼は高齢に達しており、また妻のサラは不妊の女性でありましたので、アブラハムの嫡子が生まれることは最早望めなくなっていました。この危機の中で神はアブラハムを連れ出して、次のように仰せになったのです。それは創世記15章5~6節に記されています。
 「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
 空を見上げると、満天の星空に無数の星が煌(きら)めいていました。神はアブラハムに語られました。「あなたの子孫はこのようになる」。
 しかしこの御言葉を信じるには、余りにも大きな難題が横たわっていました。従って、それでもなお信じるには、不可能を可能にする神の偉大な力に寄り頼むより他に方法はありません。それが神を信じることです。
 実にそのときアブラハムは死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神、すなわち創造的な働きをされる神を信じたのです。この場合もアブラハムは全能の力を持ち、ご自身の約束を実現される生ける神と出会いました。約束を必ず実現される「神の真実と全能の力」が彼の心を「捕らえた」のです。そのことによって彼は神を信じたのです。
 キリストの使徒パウロはアブラハムの信仰を説明しています。本日の聖書の箇所でありますローマの信徒への手紙4章21~22節でこのように言っています。
 「神は約束したことを実現させる力も、お持ちになる方だ、と確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」
 このようにアブラハムは神の御言葉を聞き、神を信じました。言い換えれば、彼は「神の真実」に寄り頼んだのです。それゆえその信仰が「彼の義と認められた」のです。
つまり、アブラハムは徹底的に神の真実に寄り頼む信仰により、神との正しい人格的関係を保持することができたのです。

(3)信仰による義認と神の命令
 「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されることになります。----従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束に与れるのです。彼はわたしたちすべての父です。」(ローマ4:13~16)
 このローマの信徒への手紙は、クリスチャンに向かって、主イエスを信じる信仰によって、神との正しい関係に入れられるという信仰義認を力説しています。その文脈の中で、パウロはアブラハムの場合の信仰義認について言及し、アブラハムは神の約束を信じ、信仰によって義と認められたことにより、アブラハムに対する神の約束が今日クリスチャンにおいて実現したと言っています。
 さらにアブラハムに与えられた神の約束は究極的に言えば、「神の国を受け継ぐ」ことです。そしてそれは神が主イエス・キリストにおいて実現して下さった「神の国の福音」を聞く者が、信じることによって可能なのです。
 それゆえ「神の国に入る」こと、「神の救い」を受けることは、ただ信仰によることを旧約聖書も新約聖書も共に証しています。
 他方、アブラハムの子孫であるユダヤ教徒は、神の国に入ることができるのは律法を実行することによる「自己の義と功績」によってであると、主張しています。それに対して、パウロはユダヤ教徒の父祖であるアブラハムが神の約束を信じることにより、神から義と認められる「信仰義認」によって神の約束が実現したのだと言っています。これが聖書の信仰です。それゆえ、アブラハムの信仰義認はアブラハム以来一貫して聖書の教えであることをパウロは明らかにしているのです。
 「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」(4:23~24)
 クリスチャンの場合には、福音の言葉を聞くときに、復活の主イエスと出会って復活の主イエスを信じるのです。しかも復活の主イエスが全人類の救い主であると同時に、アブラハムに約束された神の救いが「復活者主イエスの人格と業の中」に実現していることを信じるのです。そのときに聖霊が与えられ、人の心の中を照らされますので、復活者主イエスが「神の救いそのもの」であることに関して、聖霊による内的な証が与えられるのです。
 勿論、信仰は律法を無効にするのではなく、確立する働きをします。この点でもパウロはローマの信徒への手紙3:31ではっきりと言っています。
 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのである。」(3:31)
 ところで、神の律法とはユダヤ教徒が主張する生活全般の種々の煩瑣(はんさ)な規則ではなく、生ける神の命令であり、信仰義認によって、神の恵みの中にしっかりと立っている者が、主イエスの義と命と自由を受けて実行することができる神の命令です。
 それゆえ、神の律法は人が救われるために必要な手段ではありません。従って、律法の業は自己の功績にはならないのです。あくまでも律法の実行は信仰義認を受けた者たちの感謝の業であり、神を賛美するために行うのです。

(4)神の栄光のために
 このように人が徹頭徹尾、神の恵みに生きる信仰は神に栄光を帰す信仰であると言えます。
 浜松にある聖隷福祉事業団体の発祥は、長谷川保先生とその協力者のクリスチャンたちが、結核を病む人たちの療養施設を造られたことです。今では成人病の後遺症のある人たちの住まいとなっている「十字の園」と重度の障害のある子供たちの療養施設と看護師を養成する大学がその広い敷地の中にあります。またそこに遠州教会があり、多くのクリスチャンが礼拝に集まっています。
 長谷川保先生は神学校を卒業して伝道牧会に従事されましたが、宗教改革者ルターの信仰義認にしっかりと立脚した揺るがない信仰を持っておられました。同時に神学校で宗教改革者カルヴァンのキリスト教要綱を学び、「神の栄光のため働く」というカルヴァンの信仰を会得しておられ、自分たちの福祉事業は信仰義認と神の栄光を現すために働くという二つの支柱を以て始まり、それに立脚して事業を進めていると先生から伺いました。これはもう30年ぐらい前に、牧師の研修会で長谷川先生を講師としてお招きした時のことです。それからまた10年以上の前のことですが、わたしが東京教区の世田谷地区にある桜新町教会にいましたとき、世田谷地区の青年会で遠州教会に宿泊し、十字の園と重度の子供たちの施設でボランティヤーとして奉仕をしたことがあります。そこに働いておられるクリスチャンは創立者たちの信仰と精神を受け継いでおられることを知りました。そういうわけで、信仰義認により、神との人格的な交わりを与えられているクリスチャンが神の栄光を現すために、いろいろの困難があっても揺らぐことなく、喜びを以て奉仕の事業に励んでおられる様子を見て大いに励まされました。
 従いまして信仰によってのみ義とされる。神の恵みによってのみ救われるということは、棚から「ぼたもち」式に救いが与えられる。それだから自分は何もしないで済む、というのではありません。あるいはキリストの十字架の死と復活はわたしのためであると信じることが重要なのだと言う場合にも、キリストの恵みを自己中心的に考え、自分勝手な願いが適うかのように錯覚している人がいます。神の恵みは神の御子である主イエスの十字架の死という尊い恵みであり、決して安価な恵みではありません。
 それはわたしたちが神の御心を実行することによって生きるためであります。まことに神の意志への従順こそ、主イエスの性質であり、また主イエスの性質を映し出すクリスチャンの特質なのです。
 実はこの点についても、既に旧約聖書の預言者エゼキエルによって証されています。背信の民が救われるのは、彼らが汚した聖なる神の名を神ご自身が主張し、擁護されるからだと言っています。
 「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。」(エゼキエル36:22)
 それゆえ、アブラハムは試練の中で、自分自身と戦い、自分を乗り越えて、神から与えられる真の命に生きるために、神に栄光を帰す態度をとりました。
 つまり、彼は神に栄光を帰すことによって、生涯を通して神を信じ抜き、神の意志に従順に、しかも喜んで従いました。そこに信仰義認によって、神との人格的な交わりの中で生きる者の生き方があります。



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