2014-03-09(Sun)

祈り求める 2014年3月9日の礼拝メッセージ

祈り求める
中山弘隆牧師

 さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。
サムエル記上1章9~18節


 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
ルカによる福音書11章5~13節


(1)命の綱としての祈り
 本日はクリスチャンの命の綱と言うべき、祈りについて聖書から学びたいと願っています。
 ルカによる福音書11章の初めに、弟子たちはイエスの祈る姿を見て、非常に感銘を受けたと記されています。この方は本当の祈りができる唯一の方であると確信し、イエスにどのように祈ればよいか教えてくださいと頼みました。
 「イエスはあるところで祈っておられた。祈りが終わると、弟子たちの一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。』と言った」(11:1)
 このように、イエスが祈っておられる所で神の栄光が現れているのを弟子たちはしばしば目撃していたと推察されます。特にルカによる福音書には祈るイエスの姿が随所に見られます。
 最初の場面は、イエスがイスラエルの民とご自身を結び合わせ、民の受けるべき「悔い改めの洗礼」をご自身も洗礼者ヨハネから受けられたときの状況をルカによる福音書は伝えています。
 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(ルカ3:21~22)
 ここで父なる神がイエスに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とお語りになったのは、イエスが祈っておられるときであったと、ルカ福音書は言っています。そのとき聖霊が鳩のように目に見える姿で、ご自分の上に降って来るのをイエスはご覧になりました。ここにイエスの祈り、それに答えられた父なる神の御声、父とイエスの間に介在した聖霊の働きが明瞭に示されています。 
 このようにイエスは神の国の宣教活動を開始するとき、祈りによって父の御心を確信されたことが分かります。
 また、イエスは弟子たちの中から十二人を選び使徒とされた時、その前日には夜通し祈っておられました。ルカによる福音書は次のように伝えています。
 「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」(ルカ6:12~13)
 これはイエスが神の国宣教活動の節目で、祈りに徹して自分の取るべき行動を父の御前で決断された、その様子を示しています。
 なぜならば、イエスは救い主としての使命を果たす途上で、その都度自分をこの地上に遣わされた父の御心を熟慮し、祈りによって確認することが不可欠であったからです。
 それではわたしたちクリスチャンの場合はどうでしょうか。わたしたちは主イエス・キリストを信じることによって、聖霊を心に受け、主イエスと人格的に結ばれています。それゆえ聖霊を通して、主イエスの御言葉を聞き、主イエスの命令を聞くことができます。そして聖霊を通して主イエスの義と命と自由がわたしたちの中に働きますので、御言葉を実践し、神に仕えることができます。
 さらに重要なことは、わたしたちは聖霊を通して、神の御子イエスの霊が与えられていますので、神を「父よ」と呼び、イエスが祈られたように、わたしたちも神に祈れるということです。

(2)わたしたちの祈りに答えられる父
 イエスが神を父と呼び、父を信頼し、すべての事柄において父に祈り求められたように、わたしたちも神を父と呼び、神を信頼し、神に祈り求めることができるのです。そこで父なる神はわたしたちの祈りを喜び、わたしたちの祈りに答えてくださいます。それゆえ、わたしたちは熱心に祈らなければならないのです。
 それにしてもこれはどういうことでしょうか。神がわたしたちの祈りを聞き上げられないから、聞き上げられるように必死になって祈らなければならないと言うのではありません。そうではなく聞き上げられるから必死になって祈るのです。 
 なぜならば、わたしたちは神の働きを自分の中に受けなければ、貧しく、弱い者でありますので、何一つ神の御心に適うことができないからです。そして神はわたしたちが常に霊的な生命と力に枯渇し、心が飢え渇いていることをご存知です。 
 御子イエスは真の人間として、心の飢え渇きを覚え、必死になって祈られました。それが父に対して忠実で正直な御子イエスの態度です。それゆえわたしたちの隠れた所を見ておられる神に対して、わたしたちが正直な信仰者であれば必死になって祈るのです。
 祈ることを教えてくださいと言う弟子たちに対して、主イエスはキリスト教会で一番大切な主の祈りを教えてくださいましたが、同時に必死になって、粘り強く祈ることの大切さを教えられました。
 ここでイエスは譬えを使用して、次のように説明されました。
 「しかし、言っておく。その人は、友達だからと言うことでは起きて何か与えるようなことはなくても、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを何でも与えるであろう。」(11:8)
 従いまして、クリスチャンが自分の祈りを父なる神は聞いてくださると確信しながら執拗に祈るならば、それは主イエスご自身の祈りに見習うことになるのです。
 さらに、使徒パウロはクリスチャンの祈りについて、次の点を強調しています。
 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8:15)
 主イエスを信じる者は、神に敵対し神に近づくことを恐れている罪の思いから、主イエスの贖いにより解放され、聖霊を通して「御子の霊」、すなわち神に対して「父」と呼びかける御子の心が与えられているという点です。
 さらにクリスチャンが神に祈るとき、必ず聖霊も一緒に祈ってくださり、クリスチャンのために執り成しの祈りをしておられます。
 「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、--“霊”自らが執成してくださるからです。--“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」ローマ8:26~27)
 このようにクリスチャンの祈りは、自分たちだけで祈っているのでなく、クリスチャンに与えられた御子の霊が父に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけ、また聖霊がクリスチャンのために執り成しの祈りをしておられるのです。

(3)神と出会う
 以上のような基本路線に沿ってなお、主イエスはルカ福音書11章の譬えを用いて執拗に祈る者に父なる神は「聖霊」を与えてくださると約束されました。
 「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11:13)
 ここでイエスは熱心にそして執拗に祈る者に父なる神は聖霊を与えてくださると仰せになっていますが、その聖霊の受領とはいかなる状況を指しているのでしょうか。クリスチャンは主イエスを信じたことによってすでに聖霊を受けているはずです。
 従ってここで熱心に祈る者に聖霊が与えられるという約束は、祈る者が主イエスにおいてご自身を示される父なる神と「出会う」という状況を指しています。また、聖霊によって復活の主イエスが語られ、聖霊によって復活の主イエスが祈る者の心の中に働かれるのです。これは復活の主イエスが出会われることです。正に、「この出会いの霊的現実」を祈る者は「体験」するのです。そして信仰の確信が与えられ、信仰に基づく主イエスとの関係をしっかりと認識することができるのです。このように父なる神はわたしたちを愛しておられ、わたしたちを受け入れ、わたしたちの祈りを聞き、わたしたちの貧しい愛の行為と神の命令に対するわたしたちの不十分な実行を喜んでくださることが分かります。実にこのことがクリスチャンの尽きせぬ喜びであり、感謝であり、命の泉なのです。

(4)キリストと復活の力を知る
 わたしが洗礼を受けた名古屋の金城教会の樋田豊治牧師は、わたしたちに祈りが足りないとよく言っておられたことを思い出します。名古屋の街は戦時中に空襲を受け、大部分が焼け野原となりましたが、教会の通りはそのまま残っていました。しかし、戦後の都市計画によって、将来は裏通りが目抜き通りになる予定になりましたので、教会を裏通りまで移転させ、さらに裏通りに面した隣の土地を購入しようとしました。それは水道工事の事業に失敗してかなり大きな屋敷を売りに出していたからです。しかしその土地を購入する資金が教会にありませんので、会堂を移転させた跡地を売った代金を資金に充て(あて)ようとしていました。
 ところが会堂を移転させた後も買い手が現れませんでした。その間、駐車場に貸したら良いと言う人があり、またパチンコ店が買いたいと言って来たのだから、売ったらよいではないかと言う人もいました。しかし、もっと堅実な商売をしている会社に売れるまで待とうと言うことになりました。
 その間、毎日牧師は祈っておられました。夜ふと目が覚めるときには床に起き上がって祈ると言っておられました。とうとうある銀行が買ってくれましたので、教会は隣接する土地を購入することができました。その後、鉄筋コンクリートの大きな会堂が立てられましたのは、次の牧師の時代で、十数年を経たときです。このような経緯を熟慮しますと、教会が主の業をなすために祈るならば必ず聞き上げられると、わたしは強く感じさせられたことです。
 次に、教会が福音を語り、主の体である教会、言い換えればキリストの復活の生命に生かされ、キリストの意志を実行し、キリストの性質を映し出す信仰共同体を形成するために熱心に祈ることが必要です。同時にその祈りは知性を伴う祈りでなければなりません。この点に関してパウロは次のように教えています。
 「わたしたちが異言を語る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。ではどうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。」(コリント一、14:14~15)
 このように、聖霊の執り成しに支えられた祈りは、異言による祈りではなく、明確な意識と認識を伴う祈りです。すなわち、明らかな良心をもって祈ると言うことです。
 それゆえ教会に対する神の意志、クリスチャンに対する神の意志を明瞭に知ることが祈りの最も大切な働きです。そうするならば、教会と教会に連なるクリスチャンは神から自分たちに与えられた使命に対する共通の理解が可能となります。そして使命を果たすために必要な神の力と知恵を共に祈り求めるようになります。
 従いまして、祈りは第一に神の言葉を明確に聞き、認識することであり、第二にそれを実行し、神から与えられた使命を果たすために霊的な力、キリストの復活の力を受けることであります。
 さらにパウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、次のようにフィリピのクリスチャンのために祈っています。
 「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当のことを見分けられるように。」(フィリピ1:9)
 キリストを知り、キリストを通して啓示された神の愛を深く知れば知るほど、クリスチャンは本当のことが見分けられるようになると言っています。この点が非常に重要なことです。
 愛があれば何でもできると言う訳では決してありません。もちろんキリストにある神の愛は無限です。しかし歴史の中に存在している教会とクリスチャンは有限です。自分たちの働きには限度があります。それゆえわたしたちに神が望み計画し要求しておられることを洞察することがクリスチャンに必要です。その洞察を与える力は愛であり、愛が知性を通して働くことであります。
 それゆえパウロは愛と知性による洞察力と決断と行動そして忍耐が増し加わるようにフィリピの教会の信徒のために祈っています。
 このようにしてクリスチャンは主イエスとの繋がりをますます深く知るようになっていくのです。同時に、教会と教会に連なる一人一人のクリスチャンが「主の業」に参加し、「主の業」を進めることができるのです。
 最後に、パウロは同じフィリピの信徒への手紙の中で、次のように言っています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10~11)
 キリストを知るということはキリストの中にわたしたちの救いが既に与えられているゆえに、わたしたちは最後までキリストに従わなければならないと言うことであり、またキリストの復活の力がわたしたちの中に働くゆえに、わたしたちは互いに苦難を担い、忍耐し、キリストの事業に参加しなければならないと言うことです。



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